私の父方系譜は紀州熊野(和歌山県東牟呂郡)の須川 長兵衛(長右衛門)家だ。慶長年間・西暦1600年頃以前は大和須川城(現奈良市須川町)の 須川 長兵衛家だった。
大和須川家は鎌倉時代初期・西暦1200年ごろに「興福寺荘園主」として創始されたようで、「興福寺衆徒」であった。
大和須川家が熊野須川家として慶長時代1600、前後に移転した事情は紀州博物学者 南方 熊楠みなかた くまぐす)先生が大和の地方史研究家杉田 定一さんに依頼した調査の結果である。
この調査は興福寺多門院日記などに基づく客観性の高い内容である。
その中には須川 長兵衛のひとりが柳生氏(姻戚関係にあった)に入り柳生 内蔵助として享保時代まで活躍していた記録があった。
母方、須川 久彦家は長右衛門家と血縁の証明はなかったが、令和4年4月の調査で、26代長右衛門 長七の次男 彌吉(文化年間生)から、亀太郎(嘉永年間生)と久彦と続いた系譜と判明した。
また江戸期初期、寛永年間に長兵衛家とは別に、熊野請川にいた忠兵衛家の系譜、須川 徳郷家の詳細も田辺での調査で明らかになった。
依然として大和時代の調査は進めているが、豊臣家による慶長期の大和在野勢力放逐は徹底しており、記録が少ない。
大和史や興福寺衆徒などの研究家の協力が不可欠である。
永井 隆之博士による1992年2月「狭川・簀川氏の動向」と言う須川城近辺の状況の論文が存在する。
(令和4年2020、8月)
須川 薫雄(しげお)
sugawaweapons@aol.com
写真撮影 石井 慎二
須川 徳郷家
1.江戸期における須川 徳郷、忠兵衛、系統図
2.長兵衛各家の系譜と関係
大和文献にみる中世簀川(須川)氏
1.奈良市「東里村史」(現須川町)
の中世簀川(須川)氏の由来
2.簀川(須川)は交通の要所
3.「奈良県史」にみる簀川(須川)氏
この後の予定
大和須川氏の荘園経営と戦い
須川家の宗派と臨済宗
家紋 五三の桐の由来
昔の林業
朝鮮半島の人々
須川 喜惣治と紀州藩足軽制度
世界遺産とアンドレ・マルロー
江戸期の紀州庄屋の仕事