
須川 久彦家長男として生まれた
龍太郎伯父は久彦家の長男だったが、朝鮮半島の日本人実業家、岸
達之介(きし たつのすけ)の養子になった。岸 達之介は勝浦の出身、彼の妻と私たちの祖母、おばあさまが姉妹だ。私の母の一番上の兄だ。

龍太郎は小児麻痺で脚が不自由、材木屋の仕事には向かないと言うことだと母から聞いていたが、詳細は知らない。(三男の三雄は直接父の脚を見たが、外傷によるものと言っていた。)
岸 達之介と須川 久彦は同郷であり義兄弟だった。達之介が久彦の朝鮮半島での起業を支援したと考えられる。
龍太郎伯父は明治44年1910、久彦・とせが渡ったばかりの朝鮮半島京城で生まれた。平成15年2004年没 享年93歳

誇り高い歯科医
龍太郎伯父は医大に入学したが、自分で向かないと歯科医になった。
京城で玉置 あいと結婚し、3男3女をもうけた。男子は全員、歯科医、女子は全員歯科医に嫁いだ。歯科医はほとんど立ったままの仕事だから龍太郎の脚が酷く悪かったわけではない。彼の性格や能力を見込んで、このような進路を選んだのだろう。手先がとても器用だった。でも自分自身は子供のころの甘いものの食べ過ぎで総入れ歯だったそうだ。長男達也さんの話では自分で自分の歯を治療したそうだ。
龍太郎伯父の歯科医と日本のその技術に対する誇りは並大抵のものではなかった。

龍太郎伯父の息子、達也(歯科医引退)、幹二(元岡山大学歯学部付属病院長)は朝鮮半島の頃、引上げの経緯、その後の生活などの記憶があり、また親族や係累、地域の人々の人間関係や知識にとても詳しい。

彼と上の2人の息子は京城から一番遅く昭和20年11月に引き揚げて来た。現地の人に引き留められたが、「金 九」と言う人が朝鮮半島は必ず戦乱に巻き込まれる、日本に帰れと言うことで、戻り、苦労して勝浦の港に近いところに開業した。上の息子 達也には引上げのトラウマは残ったと言う。(金 九のことは幹二の記録にある)
妻の「あい」は日足(本宮に行く手前、熊野川町中心部)の医者の娘だった。大正6年1911生、昭和51年1976没 享年65歳
岸家は京城で龍山区の龍山駅と三角地駅の間、山手に住んでいた。
龍山区は現在でもソウルの中心部になる。
龍太郎伯父は趣味の男
龍太郎伯父は久彦家、「趣味の男」の例外でなく、代表的存在だった。
幼少のころ、義父 岸 達之介に連れられて一時期、満州大連で暮らしていたそうだ。中国人の家庭教師がつき、中国語、朝鮮語に堪能であった。大連の埠頭で釣りをしていた。それで
「漁師する歯科医」か「歯科医する漁師」か、分からないほど、海釣りに没頭した。なんでも引き揚げの時の荷物は釣り竿と投網だったそうだ。戦後、開業すると手漕ぎ船として、焼玉エンジンの小型船を購入して時間があればかなりの沖、熊野灘に出た。また岩の間を縫って漁を行った。
長男達也は「あれは大変危険です。」と言っていたが。
何時の頃がどういう経緯か記憶にないが、僕は彼の小型船に乗せてもらった。その時はたいして沖には出なかったようだ。陸地が見えていた。
流し漁は不猟だったらしいが、船の横を船より大きい鮫(さめ)が並行していたのだ。これは鮮明な記憶だった。
伯父さんに「これは捕れないの?」と聞いたが、笑うだけだった。

その後、捕鯨船のテレビ番組を見た際にこのシーンを思い出した。
もしかしたら伯父さんには太地の鯨捕りの血が流れていたのではと・・陸地が見えない時に方角を知るために中波ラジオを使ったらしい。簡単なADFだ。
高校生の時、あい伯母さんが「患者さんにいただいた尾の身やのう」と皿一杯の鯨肉。まさに珍味のなかの珍味だったが、高校生にはビール一杯もない。ご飯と珍味の山もりだけも、なかなかだったが残した。
もったいないことをした。

龍太郎伯父の家族
あい伯母は昭和12-3年1937頃に日足(ひたり、熊野川沿いの本宮大社下流の開けた地)の医者の玉置家から京城の龍太郎に嫁に来た。
僕の両親の結婚式に日足から彼女の祖父、医師、が京城の朝鮮神宮に
来ていた写真が残っている。

後ろ、左から玉置の伯父さん、あい、喜美子、芳子
長男達也(たつや)、次男幹二(かんじ)を生み、長女は僕と同年だ。達也は引退し、弘資叔父を訪ねて来てはいろいろ話をして行くそうだ。
幹二も引退し、岡山にいる。彼の記録が掲載されている。
美江は竜門と言う家と結婚して、この家の娘が我が家の前に下宿して歯科医になった。子供3人も歯科医だそうだ。

と宮崎 喜美子、濟を参ったのであろう。龍太郎52歳。
伯父さんは着るものには一切構わずと言う姿勢を貫いた。
弘資(ひろすけ)叔父の思い出では、あい伯母の嫌な顔、怒った顔は一切見たことはなかったと。久彦家が岡崎町と言うところに住んでいた際に子供のころの彼は龍太郎の家、三角地と言う西の方角に、頻繁に一人で遊びに行ったが、帰りは必ず電車道まで見送り、そっと小遣いを呉れたそうだ。
僕は1歳前、母の具合が悪く、母乳が出ないとき、彼女に世話になったそうだ。命の恩人でもあった。
また、あい伯母さんは、毅然と道理を語る人柄であったことは私が聞いた会話で記憶している。
僕が知る限り、次男も三男も釣りは好きなようだ。
三男は大きな鯛の写真を送ってくれた。彼も湯川で週末過ごし、ワナの狩猟免状を持ち、猪を捕まえたと便りを呉れた。

三女紀公子(昭和26年1951生まれ)は和歌山の歯科医辻本 芳孝に嫁ぎ、画伯だ。画伯の定義は何回か受賞せねばならないらしいがそれをクリアした。コロナ前、新国立美術館に行き、彼女の所属する「独立展」を見て、皆で食事をするのが楽しみだった。
季節ごとに和歌山の果物を送ってくれる。また辻本氏も素晴らしい人で歯科衛生に功ありと叙勲した。
あい伯母さん、現代的な名前だったが、料理が得意だった。
京城で現地の人達と交わりがあったのだろう、コリアンクルジーンも。梅酒を大量に作り、皆にすすめた。キムチは誰に教わったか、本格的、絶品とされていた。
あい伯母の母、玉置のおばさんはおばあさまの姉妹で、彼らは良く似ていた。妹は日足(ひたり)の医師の家に嫁いだ。その息子は京都の赤十字病院の産婦人科医師だった。僕の友人、菊池 徹の息子が生まれる時の担当医で見舞いに行ったときに会った。その息子も医者だそうだ。
この姉妹は会えば喧嘩だったらしいが、私が澁谷で会った時は仲良くしていた。
晩年の龍太郎伯父
龍太郎伯父は1980年代後半、家督を長男達也に譲り、湯川の一軒家で一人暮らしをして、三輪バイクで医院に通っていた。
「日本歯科医技術は世界一」だと歯科医に誇りをもっていた。
幸い、私は今でも全部自分の歯、他では大した治療も受けていないので彼の世話にはならず。

そのころ私は自宅新築のため、材木注文を弘資叔父の手助けを頼み新宮に行った。長男、小学4年が同行した。長男と龍太郎伯父の湯川の家に寄った。工房のような居間でミシンがおいてあり、様々なものを自作していた。手先が並外れて器用なようだった。
「都会の子は目が違う」と長男をとても誉めてくれた。
彼の世の中に関する知識は並大抵のものではなく、90年代半ば、ニューヨークにいたころ頻繁にメールを呉れ教えてくれた。
例えば、「日本の八百万の神々、神無月」など。
当時、インターネット能力には長けていた。なんでも90歳から節子のすすめで始めたと言うが、不便することなかった。
それに抜群のユーモア、ブラックジョークが好きだった。

龍太郎伯父には一度だけ叱られた。僕は4-5歳か、彼の医院の古い灯篭のある庭先で、同じ年ごろの従姉妹たちと遊んでいた際に何か彼女たちに無礼があったのだろう、おとなしい子たちだったが、医院の窓から厳しく。
彼は批評家的に言うこともあったが、現実を前向きに捉える人であり、覚えている言葉は「一族が戦後の混乱期を全員が乗り切った」と、
誇りを持って行ったのが忘れられない。
久彦家のきょうだいは、岸 龍太郎伯父を「にいちゃん」と呼んでいた。特に次男の久伯父が。だから龍太郎は養子に行っても、彼は久彦家の長男であったことに違いない。僕らは「岸のおいちゃん」と。
彼はなかなか難しい人であったかもしれないが、親しみを抱く人柄だったのだろう、患者さんや漁師、地元の人々に慕われていた。
岸 龍太郎家を知る人たちは、家族間の信頼と、結束の強さそして親たちを敬う子供たちの態度には感動している。
以上
(以上、弘資叔父に見てもらった文だ。岸家の話は岸 幹二さんの文で別項に続いている。)