
そこが「宇久井のおじさん」と両親が呼んでいた人の家だった。
宇久井駅とおじさん
紀勢線、宇久井は那智から新宮に向かい一つ目の駅で、海岸側が半島、山を背にする地形だ。半島には漁港がある。現在、磯釣りのメッカで近畿圏、中部圏から大勢の釣り人が来る。新しい道路は山側をトンネルで通り、この辺りでは熊野灘は見えない。駅前には海岸沿いを国道42号が走っている。
昭和22年ごろ、父と列車に乗っていた際、この近くで山火事のために列車がしばらく停車したことがあった。
半島の山の上には国民休暇村があり、とても流行っている。

左手には昔、半島を横切り、新宮に向い佐野と言うところに製紙会社があったが、
現在はその跡地であろう、大きなショッピングモールになり、
スーパーマーケット、ホームセンター、園芸の店、映画館、ゲームセンターそれにマクドナルドやレストランもある。42号線が混雑しないよう、うまく導入路が作られていた。

昔、列車で通るたびに駅の山側に茅葺の大きな屋根の家を見た。線路ぎわ、駅うらでそこの主、阪口 七郎平(さかぐち ひちろうへい)さんが私の両親の仲人だった。
彼は、うちでは「宇久井のおじさん」と呼ばれていたが、どういう経緯か関係の人かは分からなかった。親戚なのか?どういう親戚なのか・・
父方にも母方の人々にも近しい存在であったが、明確ではなかった。

当時は巴川製紙の役員
私の記憶にある彼は長身、穏やかでなかなか知的な人だった。彼のことは誰に聞いても「親戚だろう」と言うことだったが、どういう係累かは詳しくは誰も知らなかつた。茅葺家からも先祖は大庄屋クラスだったのだろうというくらいの認識だった。当時の職業も知らなかったが、宇久井から新宮に向かい、数分の距離にあった巴川製紙の役員だったそうだ。
阪口 七郎平さんは、市朗従弟は僕の知らない祖父、竹吉の弟、須川 金四郎が狗子川(くこがわ)の坂口(ママ)家に養子に行きその子 博彦の係累だろうとしていた。つまり僕の祖父の従弟だったと推測したが・・が年齢的に半端だった。
彼は、大戦後、地域の高い人望があり、その発展に尽くしたそうだ。
とくに宇久井地域の小中学校教育や漁業の振興に。
昭和23年の平成天皇皇太子時の行幸に付き添い、地元を案内していた写真があった。

皇太子は船にも乗り、この夜は喜代門に宿泊した。
でもこの家は母方の親戚でもあったのではないかとも推測していた。母方でもとても親しくよんでいたからだ。
父方祖父長右衛門竹吉を知らない私にしてみれば宇久井の七郎平さんは先祖、つまり昔の地方・地域のリーダーがどのようなキャラクター、能力や人格であったのかを察する一つの目安になる存在だった。
言うならば、日本社会における地域リーダー像の典型だったのではないか?そういう人間の持って生まれた資質を無視して、ポピュリズムでリーダーを選ぶことがそもそもの間違いではないか?というのが私の疑問であった。
阪口 七郎平さんは須川家との血縁はなかつた。
阪口 七郎平さんの長男、早苗(さなえ)さんが学生の頃、夜行列車で東京の私の家に来た。この人も背が高い、穏やかな人だった。昭和30年頃、米国アイビー、コーネル大学に留学した。何を勉強しその後どうだったのかは知らなかった。眼鏡と知的な印象が記憶にあった。
私は研修中、バッファロー大学キャンパスのゼミに参加したが、そう言えばと、彼のことを思い出した。あの時、猪の肉を土産に持ってきたが・・と。
彼、早苗さんは理科系の人で住友化学に勤め、海外事業を担当していたがすでに亡くなったと、阪口家で聞いた。

昔のまま。長女坂口 朝子さんと息子の周平(しゅうへい)さん。前が自宅専用の踏切だ。
当時の結婚は家と家、格が合うと言うことが条件だから、海岸の近くではあるが坂口家は山の須川家と何かの共通点があったのだろうか。
私は父親か母親に連れられて何回か宇久井の家は訪問したことがある。イラストのような感じの家だった。紀勢線の列車からすぐ横に見えていた。
令和4年2022、4月市朗従兄とこの家を訪れて、七郎平さんの長女坂口 朝子さんと息子さんに会った。朝子さんは92歳、最近まで新宮高校茶道部の顧問を務めていたが、心身ともにかくしゃくとしており、記憶も鮮明なようであった。

その結果、阪口 七郎平さんと、須川家は父方、母方ともに血縁関係はないということが判明した。
私の父方祖父の弟、金四郎が養子に行った狗子川の*坂口(ママ)家と宇久井の阪口(さかぐち)家は親戚ではあるが、金四郎の時代以前に分かれたいたとのことだ。
金四郎家はかなりの昔、*天理教に私財をささげていて、爾後お付き合いはないと言うことでだった。
市朗従兄も「宇久井のおじさん」と呼ぶくらいだったが、豊がそう呼んでいた影響かもしれないが。
だが、考えてみると相当関係の深い知人であったようだ。
坂口 七郎平さんの系譜
七郎平さんの父親は7代坂口 源作と言う人で、源作と言うのが、阪口家当主の名だそうだ。時代で見ると熊野の多くの家、18世紀初頭に発している。
朝子さんの話と「那智勝浦町史」の阪口 七郎平の記載によると、関係はどうも母型祖父久彦のビジネス上の付き合いであったかもしれない。
阪口 七郎平さんは
「明治29年1896、宇久井区狗子川生、大正2年紀北農校卒、北海道の新宮商工に努め、昭和10年1935、名古屋でラワン合板製造会社を立ち上げ、昭和15年1940、佐野に新宮パルプ(巴川製紙工場)の役員に、昭和20年1945、宇久井村長、漁業振興に努め、鰤(ぶり)の大漁で地域は栄え、教育環境整備に貢献した。昭和51年1976、80歳没。」とある。(那智勝浦町史)
市朗従兄の話によれば、地域ではいつも「勝浦には二人町長がいる」と言われていたそうだ。
血縁はないが親戚以上の間柄
阪口 七郎平さんは母型祖父の須川 久彦と境遇や考え方で何か共通するものがあったのかもしれない。
経歴をみると、七郎平さんは木材の加工に関わる仕事を歴任しており、名古屋で合板の製造、宇久井に戻り巴川製紙の役員、この業務に、久彦と何らかの共通性、関わりなど接点があったと推察できる。
当時、京城の結婚式の仲人をするというのは大変なことだ。
よほどの関係がなければ。
そして何より、その後、豊や節子が七郎平さんを「おじさん」と言うほど親しくしていたので、強い信頼関係があったのではないか・・
終戦直後、久彦一家が湯川に引き揚げて来たので、七郎平さんは味噌やその他のものを届けに行ったと、朝子さんが語った。
今ではあまり一般的でないが、血縁以上の親戚と言うのはかっての日本に存在していたという証であった。
ところが、章夫(ゆきお)叔父が作成した紀州須川家係累の図をみていたら、七郎平さんは須川 金四郎と血縁はないが、長女朝子さんが坂口(須川) 金四郎の息子、博彦を養子に迎えていた。
だから朝子さんの息子 坂口 周平(しゅうへい)は父親同士が従兄で、市朗や私と血縁があるということであった。
弘資叔父の話では豊と博彦さんは従兄同士だったので、仲が良く、豊は宇久井の家は良く訪れていたと。なるほど。
また、周平さんの妻は、弘資叔父の妻、ひろみの兄 谷畑 正樹(たにはた まさき)さん(古座)の長女だそうだ。
*坂口か阪口か。那智勝浦町史ではコザトヘンの「阪口」だ。ところが係累の書類は「坂口」だ。 92歳の朝子さんに電話で尋ねたら、東京方面に行った人たちは戸籍の間違いで「坂」になったが、「阪」が正しいと。そんなこともあったのか?
*天理教、奈良県天理発祥のこの宗教は南紀ではとても盛んだったそうだ。
那智勝浦町史には4ページにわたり記載があり、那智の分教会が活発であったらしい。
(この項以上)