
旧制新宮中学を受験まで
私(市朗)は那智勝浦町色川村樫原500で須川 正雄、ヨリ子の長男として昭和8年1938に生まれた。したがって、父と一家がいつ、どのように北の川モチノ木(現新宮市熊野川町)から色川樫原に移転して来たのかは生まれる前で、見ていない。

父の弟、章夫(ゆきお)叔父が編纂した家の歴史によると、私の祖父
竹吉(たけきち)が長く大病を患い父正雄が19歳の時に亡くなったとある。
父、正雄(まさお)は北の川の小学校から4年生の時、色川小学校に転校して大野の下田屋旅館に下宿し、そこから色川小学校に通学、卒業、旧制新宮高校を受験した。色川から合格したのは彼一人であったそうだ。(正雄は昭和24年1949-昭和25年色川村村長であった。)
この話は私が旧制新宮中学学校を色川から受験する時、篭小学校の野下校長が、「色川から受験するのは君だけだ。親父さんに負けないように頑張れ。」と激励してくれた。

受験まで新宮には父に連れられて2度ばかり行ったことがあったが、
市内はほとんど知らなかったが、とにかく大きな町だと思った。
父は試験日までに学校を見てこい、色川の学校よりはるかに大きいので、いきなり試験に行くと、あがってしまうと言うアドバイスをくれた。
そして合格発表当日、家族は誰も見に来てくれなかったが、野下校長は見に来てくださり、私の名を見つけ「良かったね。」と言ってくださったのは驚きでとても嬉しかった。昭和20年1945だった。
(旧制新宮中学は明治36年1901創立、昭和23年1948に新制になった。)
須川 長右衛門家の困難な時期
祖父の竹吉は、正雄、彼が19歳、旧制中学校を卒業と時を違わず亡くなった。大正14年1925
祖母、トメは祖母の療養中、ずっと家を守っていたが、夫の療養生活でかなりの借財も出来ていたようだ。そして男3,女3の子供たちを
養い、家業もみなければならなかった。

正雄の弟豊(ゆたか)、章夫(ゆきお)の進学も困難な状況だった。夫の死があろうとこれらは須川家とした成すべきことだった。
腹を決めて、奥地の北の川にいたままでは状況打開は困難と、
山林を少しずつ売却して資金を作り、色川村樫原に家を建設して
転居を図ったそうである。色川は祖母とめの里、大前家があったところである。樫原はその北のはずれで北の川に抜ける峠にあたる。
これが昭和時代の始まった年で、昭和初期、戦争中、戦後の初期
およそ30年間を過ごした。

祖母は借財を整理して、家の経済を立て直すには山林は売却せず、立木だけで資金を作れと正雄に指示したそうである。
まさしく、正雄が一人前になるまで、長右衛門家の女性の当主であったことに間違いない。
(正雄は人を雇い、自分の山林に植林をしたそうだ。)
そして戦前、父、正雄は山林にある雑木林を伐採して炭、紀州備長炭を商品化し東京に販売してかなりの事業になったようだ。
その時期、東京の学校に行っていた、章夫叔父は江東区の炭問屋に行き代金の一部(叔父の話では搬送の際にこぼれたものは別勘定となる)を受け取り、学資にしていた。
祖母と正雄は何とか一家の難関を乗り越えた。
昭和年間、戦前まで
色川の樫原は現在、那智勝浦町だが、海岸から30㎞ほど奥にあり、
大変な山奥だ。家から6㎞ある小学校までは道路と言っても舗装もないデコボコ道を毎日、祖母が作ってくれた藁草履を履いて通った。藁だから、一日で履きつぶすから祖母も大変だったと思う。
祖母、とめは色川篭の大前家が実家で、兄の大前 才蔵は新宮市で
製材業と炭鉱業など手広く事業を興し、有数の実業家であった。
父、正雄の旧制新中学入学の保証人であったと聞いている。
このように祖母とめはとてもしっかりした女性であって、私自身も
子供心にそれは感じていた。小学生時代だけ一緒に傍にいたが、よく叱られた。
「喧嘩をしても負けてはあかん。」と言い聞かされた。
そんな男勝りの気丈なばあさんだったと記憶している。

終戦となり次男豊叔父が帰還
豊叔父(明治44年1911生)は父正雄と同じように旧制新宮中学を卒業した。その時に北の川出身の須川 久彦さんが彼の進学の支援を申し出て、それを一家としては有難く受けた。
久彦さんは若くして朝鮮半島に渡り、京城に本拠を構え、半島北では
最大規模の製材工場を経営していた。
豊叔父は、京城帝国大学予科に進学して、医学部に進み、大学に残り、
28歳で博士号を取得した。これは郷里でも大きな話題となり、みんなで大喜びしたことを私も覚えている。

大地震でみんなの将来が変わった
戦争中、豊叔父は京城帝国大学医学部で教えており、朝鮮総督府の公衆衛生部門の仕事をしていた。章夫叔父は麻布獣医学校を卒業して、見習い士官で出征した。
終戦となり、久彦家の長女と結婚した豊叔父一家も無事引き揚げてきた。章夫叔父はレイテ島から九死に一生を得て復員した。
祖母とめや父正雄の喜びはいかんほどであったか。
父正雄は山林を売り、資金を捻出して新宮市池田町に二階建ての大きめな中古住宅を購入した。新宮進出の第一歩だった。
私は旧制新宮中学に入学し下宿が必要だったので豊叔父一家と一緒に住めばよいというのが父の方針だった。
豊叔父は三重県木本保健所長になり、私、13歳と豊叔父一家は池田町の家に住んだ。
節子叔母と従兄の薫雄(しげお)は4歳、恒次(つねじ)はよちよち歩きの2歳だった。
このまま安穏と過ぎると思いきや。 南海大地震に遭遇した。

池田町の生活が始まった年の暮れ、昭和21年12月21日だ。
夜中にマグニチュード8.0の地震で目が覚めて。
豊一家は一階で、私は二階で寝ていた。

私は二階に寝ていて、飛び起き、寝ぼけ眼で、階段を降りようとしたが、暗くて足元が分からずいきなり、いっきに下の廊下に落ちた。
後で見ると階段横の土壁が崩れ落ちて全部埋まっていたからだった。
下で叔父叔母に声を掛けたが一家はすでに裏の畑に避難していた。
私は夢中で階段下の玄関から外に飛び出した。外にいた前の家の女子学生が「ぼやぼやしてたら津波がくるよ」と言ってくれたが、
私は山育ちで「津波」は何だ、と聞きかえしたら、その子が
「津波も知らんのか、早く高いところに逃げんとアカンでー」と。
とっさにどうして良いか分からずいると、「とにかく高いところや」
と言われたので、このあたりではお城跡の二の丸だと思い、その下に
父の姉、川村の伯母さんがいることを思い出して、そこまで無我夢中で裸足のまま走って行った。(川村伯父は本州製紙に勤めていた)
川村の伯母は「お~心配してたんや、よう来たね」と言ってくれたが、
ホットする間もなく、今度は「火事やぞ~」と言う大きな声がするので、外に出て見ると大橋の方で大きな炎が上がっていた。
川村の伯母は「家の中のものを向こうに運ぶから手伝ってくれ」と言い、何回も荷物を運んだ。しかし幸いにも川村家には延焼してこなかったが、新宮市内は広く焼けた。
翌日、登校の際、仲之町商店街の焼け跡に行ってみれば、缶詰が沢山転がっており、皆で拾い食べた。
翌日、行くとすでにすっかり拾われて何もなかったが。
この地震で池田町の家は倒壊もせず焼けもせず残ったが、瓦が落ち、
壁は崩れ、散々な目な状況だった。
そんなことで、私は学制が新しくなるので、色川の新制中学に行き1年間で卒業した。
地震がなければ、そのまま新宮にいたことだろう。
豊叔父一家も医院を開業するかして新宮にいたかもしれない。
地震はみんなの行く先を変えた。
(少年期おわり)