私どもの引揚げのあらましについては須川 弘資(ひろすけ)叔父の“引揚げの記”でも触れられています。母あいと長女美江(よしえ)と次女泰江(やすえ)は須川 久彦(ひさひこ)祖父らとともに、先に帰国していた。母は赤ん坊の次女泰江を胸に、荷物を背負い、長女の美江は歩かされた。大変な道中だったらしいが、母はこの、引揚げ時のことは語りたがらなかった。父岸 龍太郎(りゅうたろう)と祖父岸 達之介(たつのすけ)、そして、達也(たつや)、幹二(かんじ)の私ども兄弟は昭和20年11月に引揚げてきました。

帰国の際に岸家が埋めたもの
引揚げの際に父はある場所に宝石などとともに、閔妃(びんひ)暗殺に使ったという刀や伊藤博文直筆の檄文を埋めた。閔妃は李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃で、親ロシア派として、強い実権をもっていた。宮廷内の激しい権力闘争があったと言われるが、反閔妃派の朝鮮人とロシアの朝鮮半島支配を恐れた日本人が参加して、その刺客は様々な箇所から出たという。閔妃も暗殺を予見していて、侍女にも自分と全く同じ衣装を着せていたが、侍女も含めてすべて刺殺した。閔妃を切ったという刀は“菊池けんじょう”某という侠客が持っていた名刀の菊一文字貞宗である。この刀を朝鮮在住のある貴族が譲り受けていたが、終戦間際に所持していることが不安になり、達之介が依頼を受けて買い取った。閔妃は現在の韓国では国母として、敬われているが、実態はそれほど、敬われる人物ではなかったようだ。伊藤博文の檄文は父が引き揚げて後もしばしば話題にしていた。達也兄はそれらを埋める場所や作業の一部始終を記憶している。父龍之介、達也兄、三雄は親族一同と共に1985年ごろに京城(現ソウル)を訪れている。私も1987年5月に日韓合同セミナーという学会に出席する時に、(戦後)初めて、ソウルを訪れました。父が書いた地図を頼りに地元の人に案内されて、岸の自宅のあった場所に行きました。ここに間違いないと言われた家はキムという門札がかかっていた。門から覗いたら、丁度、住人がいて、睨まれたので、早々に退散した。庭も廊下も日本式だったが、あの家の付近のどこかにくだんの刀や伊藤博文の檄文が埋まっているのかと思ったものでした。家の周囲は開発中で、相当、土地も掘り起こされていました。もうあの家もすでに、壊されて整地されたことでしょう。

岸家の場所と突然の終戦
濟(わたる)叔父が最後の出征の時、叔父が操縦する飛行機が岸の家の上空にも飛来した。家族、従業員、そして近所の人々とともに、低く旋回していく飛行機に日の丸を振って見送った。達也兄は家の前の坂を下った広場まで降りて、日の丸を振った。広場からはその雄姿がよく見えたからである。前もって連絡があった。叔父は覚悟していたのだろうか、最後のお別れだった。その3か月後、夜間、中国の日本軍基地から機体を失った戦闘機パイロットを後方に移動させるため、飛び立った。まもなく、30機以上のもの米戦闘機に襲われ戦死した。暗号は筒抜けだったらしく、戦闘機でないので反撃のしようもなかった。弱冠26歳だった。
達也兄は昭和20年8月15日、家の前のお寺で朝鮮独特の丸い土盛りした墓が並ぶ墓地で遊んでいた。にわかに拡声器から大音響のラジオ放送が鳴り響いた。“耐えがたきを耐え忍び難きを忍び”の天皇陛下の玉音放送で、その時には放送の意味は分からなかった。その直後、その寺に隣接する大理石張りの裕福な日本人会社社長宅から、飼っていた犬の処分法を相談しているのをもれ聞いた。早速、内地に帰る算段で、犬は連れて帰ることが出来ないからである。翌日、岸の家に朝鮮半島人が犬の肉はいらないかと売りにやってきて、母がとんでもないと追い返した。その肉が裏手で飼っていた犬の肉かどうか、わからない。終戦時には多くの日本人が飼っていた犬が処分されたのであろう。その後、毎晩、近所で強盗に入られて助けを求める声が鳴り響いたと母から聞いている。
祖父達之介はこのくだんの前の家の社長さんや若い頃、一緒に大陸に渡った実業家の今津氏などから、日本は戦争に負けるから、財産は内地に移した方がよいと強く勧められたが、達之介は神国、日本が戦争に負けるはずがないと、かたくなに彼らの助言を聞こうとはしなかった。父は満鉄の歯科診療所を経て、京城で開業していたが、地元の人達に大変慕われて、朝鮮に残って、歯科を続けてくれと言われて、本当に、その気になっていた。
終戦直後に同居した「金 九(きむ ぐ)」

昭和24年1949暗殺された
しかし、何故、父が帰国を決意したかというと、祖父(達之介)の知り合いであった金・九(キム・グウ)という人が、終戦1ヵ月後、岸の家に3人の妻と一緒に乗り込んできた。祖父との関係は不明だが、祖父が日本人居留民団長であったことと関係があるのかも知れない。この人物は反日独立運動の英雄として、韓国でも、北朝鮮でも切手になっているほど、有名な人らしい。後に政敵だった李承晩大統領の手先により暗殺された。キム・グウ記念館という所で、文大統領が、閣議を開いている。金九に朝鮮ではもう一度大きな戦争が始まるので、ぜひとも、日本に帰った方がよいと勧められ、やっと帰る気になった。大きな戦争と言えばその後の朝鮮戦争があてはまる。その頃、朝鮮では3人まで妻を持つことが出来たそうである。達也兄はこの3人の妻を見たそうで、いずれも“ものすごい美人”だったと言っていた。しかし、そんな小さな子がよく美人の判定ができたなと思う。
引き揚げの荷物
いよいよ内地へ帰る前に、石鹸を割って挟み込んだ小切手を荷物に紛れさせて送金した。結局、送った荷物は一切届いてなかった。恐らく、すべて駅に着く前に盗まれたものと思われる。小切手と言えば、父は一足先に内地へ帰った須川 久伯父から、小切手を預かった。
久叔父は終戦時、北朝鮮の城津で憲兵隊員だった。場所柄、終戦と同時に共産パルチザンが進出してきて、保安隊に2度捕まったが、2度とも脱出した。動いている貨車の下をくぐり抜け、必死で逃げたが、捕まって貨車で連れ戻される途中で、一緒に捕まった日本人と飛び降り、その人は叩きつけられ亡くなった((この時の話は弘資叔父の記に詳しい。まるで、映画のシーンのようです)。久叔父は内地に帰って後、何度かクレー射撃の県の国体代表に選ばれている。また、狩猟で捕ったカモなどの獲物を頂いたことを覚えている。銃の腕前は久彦おじいさま、久叔父、薫雄さんとつながっているようです。私の父龍太郎も朝鮮全土の射撃の大会で準優勝したことを聞いたことがあります。
追われていて内地帰還を急いだ久叔父から預かった小切手を父は石鹸をくり抜いて隠し、持って帰ることとした。達也と私は担げる限りの貴重品や石鹸をくり抜いて隠した現金などをリュックで持たされて、引揚げることになった。畳の上で、準備する時、私はリュックを担がされ歩くたびに、重さで転んだ話は引き揚げてから、何度も聞かされました。子供は調べられることはないと、貴重なものは全部子供に持たせたらしい。達也兄は大切な物を自分が預かっている自覚があったので、乗船する前に、米兵に中身を開けられて調べられた時、子供心にもやきもきしたらしい。カモフラージュがうまかったらしく無事通過した。
弘資叔父も記しているように、生駒 俊介叔父(後に湯川で“楓”旅館を経営)が乗船前に置き引きにあった。全財産をなくした俊介叔父はどういうわけか、私達子供のリュックを引きはがし、海に放りこんでしまった。達也兄によると、舞鶴上陸直前だったという。私はこのことは全然覚えていませんが、達也兄はしっかり覚えているので、その後、相当トラウマになったのではないか。俊介叔父は一人息子を引揚げ直前に亡くしたことも影響したのであろう。達也兄のリュックには600万円ぐらい入っていたという。現在の価値にしたらどれくらいになるのだろう。私のリュックの中身は聞いていない。これで、岸家は文字通り、ほとんど無一文になったわけです。父達の心境やいかばかりかだったかと思います。だが、引き揚げの途中、北朝鮮から逃げてきた人達が、あまりにも悲惨な状態だったので、父は自分が持っている石鹸など日用品を半分、分けてあげた。その時、久叔父から預かった小切手入りの石鹸が入った荷物をうっかり、この誰ともわからない人にあげてしまったのだ。引揚げて、大分経ってから、ある学校の先生から、手紙で、頂いた石鹸を風呂場で使っていた所、その中から100万円の小切手が出てきたという。そして、この小切手は無事に返ってきた。久彦祖父の新宮市での材木会社の復興の礎になったのはいうまでもない。ちなみに、その頃、勝浦港の中之島が温泉、旅館とも島ごと2万円で売りに出されていた。久彦祖父は旅館経営を嫌って、その向かいの空き地のある島を同額で購入した。確かにこの空き地を父は生活の糧に塩を作るのに大いに利用したが、現在、中之島ホテルは勝浦随一のホテルとなっている。

知られていない引き揚げの実態
北朝鮮からの引揚げは本当に悲惨だったようだが、その実態はどういうわけか、日本ではあまり、知られていない。日系のYoko Kawasima Watkinsさんが北朝鮮からの体験を書いた“So far from the bamboo grove (竹林はるか遠く)” とその読編の“My brother, My sister and I”の2冊の本がある。米国では全米の中学校の教科書として使用されていたが、在米韓国人から捏造ではないかとの抗議があり、一部の州では採用中止になったようだ。韓国では販売中止だ。私もこの本を読んではじめて、父が全財産を失った後でも、北朝鮮からの引揚げ者の人に石鹸などの生活用品を分けてあげたのがわかる気がした。北朝鮮にいた、いとこの輝一君や敬久君は最後の軍用列車で間一髪のところを帰ってきたわけですから、相当危なかったと言える。
財産は必要だったか?
我々の荷物を放り込んだ俊介おじさんの経営していた“楓”も旅館を閉業し、売ってしまいました。敷地内に3つの夫々、泉質の異なる温泉を持つすばらしい旅館だったが、跡取り(多分、俊介おじさんの孫)はいずれも東京に出て、活躍している。旅館を継がないで、一人は医師、そして、もう一人は受験対策本などの教育本で有名な老舗出版会社社長になった。生駒の家系は頭の良い人が多いようだ。
両親から俊介叔父さんへの恨み言などは聞いたことがないのは不思議です。引揚げ時に莫大な財産がほとんど、無に帰したことで、この荷物が無くなっても、50歩、100歩の心境だったのかもしれません。かくして、父は身軽にはなったが、どういう訳か釣り竿(中には現金を仕込んでいたが)や重い鉛がついた投網を勝浦に持って帰っていた。達之介は筆と硯とインク壺だけである。勝浦にたどり着いてからは、本家の旅館、貴司の湯の風呂場の横の物置に住まわしてもらった。歯科医院開設まで、塩作りなどの他、これらの魚採り道具は我々、家族を食べさせるのに大いに役立ったのである。
以上
注1:
閔妃暗殺事件は明治28年1895年、李朝朝鮮下の出来事で乙末事件を呼ばれている。
李朝内の内紛と外国勢力が複雑に絡みあい、露西亜の朝鮮半島進出を図る勢力の代表、
明成皇后閔妃(びんひ)が宮殿内で日本人、朝鮮半島人などのグループにより殺害された事件で、首謀者は日本人だった。閔妃を殺害した刀と言われるものは複数記録されて
いた。

注2:金 九(きむ ぐ)
1876年生まれ、朝鮮の民族主義者、朝鮮半島では知らない人はいない人物。北と南の
両方で認められて英雄である。親日派の殺害などもしていた。
戦後、米軍の元、南朝鮮、大韓民国建国に李承晩と共に携わるが、対立し1949年に暗殺された。

注3:岸家の住まいのあった龍山区
龍山駅と三角地駅の中間くらいの右手山の上にあったとのこと
(弘資叔父の記憶)


この教会のある山に岸家はあったのではないか?
龍山区は川に隣接し、現在のソウル中心部である。観光客が訪れるイテオンも
同区。ソウル特別市の現在の人口は2600万人、龍山区は230万人。
日本帝国陸軍、戦後は米軍の司令部があった。河の向いは金浦空港。
以上