1,叙勲に際して 「岸 達之介と須川 久彦」

岸 幹二(きし かんじ)

この度は、はからずも授賞の栄に浴し、身に余る光栄と思っています。原稿の依頼をお受けして、改めてこれまでの私の来し方とともに、岸家と須川家の関係について述べてみたいと思います。

私の生まれた所は、現在のソウルで日韓併合時代には京城と呼ばれていました。丁度、太平洋戦争勃発の年に生まれ、かろうじて戦前生まれとなります。父「龍太郎(りゅうたろう)」は須川家の長男として生まれ、14歳の時に岸家の養子となりました。私ども、(長男達也、次男幹二、長女美江、次女泰江)は朝鮮の地では3代目ということになります。三男の三雄、三女紀公子は引き揚げて後、内地で生まれました。引揚げの時、私は4歳、兄は6歳でしたから、この記述は大部分を兄の記憶に頼ることになります。

岸達之介(きし たつのすけ)と須川久彦

岸達之介は西南戦争の年、1877年(明治10年)南紀勝浦(現那智勝浦町)の生まれで、体格もよく、若い頃から秀才で目立つ存在であったという。岸家は古くは、「船奉行」を務めていた。船奉行を辞書で調べてみると、軍船、水軍・船路を司る軍事輸送職とある。(岸家は)幕末のペリー来航の際、浦賀に馳せ参じ、軍備増強のための軍艦建造に関与した。

大正時代の勝浦港、那智勝浦サイト

達之介は勉学に励むことが出来る環境にあったと思われるが、港町生まれで、このような家柄を背景に、商船学校航海科(後の東京高等商船学校、現東京海洋大学)を目指したのもうなずける。東京高等商船学校は終戦までは一校、陸士、海浜、高等商船と並び称された難関校で、当時のエリートの養成所だった。卒業時に遠洋航海に参加することになっていたが、父が危篤とのことで、やむなく、郷里へ帰らざるを得なくなった。

東京商船学校 月島丸
明治32年1900駿河湾で遭難

ところが、帰京中にこの商船学校の練習帆船「月島丸」は嵐で遭難し、学生79人を含む全員が死去した。達之介は危うくの難を逃れたのである。この事件は達之介の海運への情熱を陸地での事業に変換させた大きな動機となったに違いない。南紀に帰郷した後、下里の資産家佐藤氏の援助を受け大陸へと渡った。その時、一緒に渡ったのが、田辺の今津某で、この人は満州を拠点に銀行業や材木商として財をなした。一方、達之介は主に朝鮮で事業を展開した。最初は色川で木材を採り、勝浦港から朝鮮半島へと運んでいた。その時、色川に大変、頭の良い子がいると聞いて朝鮮半島へ連れて行ったのが、「須川久彦(すがわ ひさひこ)」ということになります。達之介は木材の事業はわりと早くに久彦に譲った。

 岸 達之介 昭和16年

達之介自身は次に朝鮮半島で金山を発掘した。露天掘りで山全体が金山で、最初は鉱石を北九州の八幡製鉄所に送って精錬していたが、コストがかかりすぎた。その後、砂金から、金を取り出す技術を導入して、効率をあげた。その後、この事業も重役に譲り、現在の北朝鮮のケソン(開城市)に肥料工場を建設した。ケソン市と言えば韓国と北朝鮮が共有事業を起こし、昨今、何かとニュースになるところであるが。この工場は後に、東洋一と言われるほどまでになったという。この会社も売り払い、事業からは撤退し、京城の元町で借家経営をしながら、終戦まで住むことになる。
一番近い借家に田中さん一家が住んでいて、そこのお母さんは岸の祖母みねととても、仲がよかったそうです。田中家のお嬢さんの愛子さんが利発で、私どもの両親がとても可愛がっていた。九州大学を卒業後、検事を経て弁護士。藍綬褒章を授賞。愛子さん曰く、岸家は孫の代まで、何もしなくても暮らせるほどのお金持ちだったという。

岸 龍太郎 昭和16年1941

そのまま、3代目にあたる私達が育っていたら、ろくな人間に育ってない気もする。達之介は事業が成功して後、終戦まで「日本人居留民団長」の責にあった。伊藤博文に直接上奏文を書き、面会を許された。その際、その場でしたためた檄文とともに、日本人居留民団長に任命された。団長の条件は1.学問があること2.お金持ち3.演説など弁が立つことで、達之介はこれらの条件に適っていた。名誉職で報酬が出るようなものではないが、そのためもあってか、岸家にはいわゆる大陸浪人のような人々が常に出入りしていたという。節子叔母曰く、殺し屋もいたとか。
達之介は晩年朝鮮で落馬したこと。内地に帰ってから列車から落ちたことなどで、精彩を欠いていた。動く列車に飛び乗るのが得意だったと聞いた。列車から落ちて、戸板に乗せられて、家に運ばれてきたのをおぼえている。孫の私にも達之介はちょっと、怖かった。ある時、達之介に連れられて田んぼの細いあぜ道を通っている時、向こうから来る人が避けないので、無礼者と田んぼに杖で叩き落したのを覚えています。今、考えれば、引き揚げてからはやや、認知症になっていたと推察される。
それにひきかえ、須川久彦は私達にとって、畏敬の的で、我が家に来た時は、兄弟で通信簿など見せて、お褒めの言葉をもらうのがうれしくて、楽しみだった。達之介は次々と事業を起こして、起業家として成功したが、長く事業を継続していない。
一方、久彦は譲り受けた材木業を発展させ、内地にひきあげてからもその事業は続けていた。2人の関係は事業を通してでのみならず、義兄弟でもある。達之介の妻みねと久彦の妻とせは生駒家の4姉妹の長女、次女である。ちなみに3女つぎえは私どもの母方あいの母で日足の医師、玉置貞一に嫁つぎ、4女みなえは湯川の温泉旅館生駒千里に嫁いだ。岸の祖母みねは達也兄が生まれる前に亡くなった。次女とせと3女つぎえ祖母は姉妹でも性格がまったく違っていたようで会えば口喧嘩することが多かった。しかし、どちらも芯が通っていた。
つぎえ祖母は真面目で、よく勉強し、新宮高等女学校の4回生で優等生だったという。なぎなたの名手で、ある時、家に泥棒が入った時、一喝して、隣家の玄関まで引き連れていって、大声で呼ばわった所、それまで、素直についてきた泥棒は我に返り逃亡したという。
一方、とせ祖母は勉強嫌いだったがいわゆる、商才、交渉事にかけては卓越したものがあった。朝鮮で材木業がピンチの時、銀行と交渉し、見事に融資を勝ち取り、その後の発展につなげた。また、引揚げて間もない頃、新宮でだれも見向きもしていなかった二束三文の広大な土地を買おうとして、銀行と契約した。銀行から連絡を受けた久伯父がびっくりして、母がぼけたなどと言い訳して大慌てで取り消した。ところが、その後、その土地はうなぎ昇りに上昇、後で、久伯父は大いに悔やんだ。後に、警察署や市役所が建つ新宮市の一等地である。内助の功の枠を超えて、久彦の事業を大いに助けたのはいうまでもない。

(この項以上)

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