明治初期28代長右衛門、「村上」菊次郎の時代と謎

ちょっと長い文ですが、終わりまで読んで下さいー

長右衛門家先祖はなぜ二つの系統・・となっていたか?

章夫叔父の調査では、長右衛門家は古座川の村上 重夫氏の先祖、清和天皇(9世紀)系源氏、村上 清重公(13世紀初頭)から18世紀初頭に分家した、としたと結論つけた。
元は清和天皇から発した源氏一族、17世紀以前は聞いたこともない名前の羅列であった。
この理由を私は宝永4年1707の大地震でそれ以前の資料が失われたのが理由ではないか、と考えた。
一方、大正時代の南方 熊楠の「紀州で一番古い須川 長兵衛家」の口述文にある大和 須川家は(13世紀初頭)からと言う具体的な一層古い時代からの系統が示された。

先祖、どちらが良いとかの議論ではない。
親や先祖は誰しも選べない。こうなるとどちらが科学的、論理的かつ現実的な説かとの視点で考えるべきと私は考えた。

そして、なぜ清和天皇論が生まれたのか、それは明治初頭の長右衛門家の菊次郎に原因があるのではないか、と推察した。

28代長右衛門 菊次郎 (明治10年1977家督を継承―明治40年1907没 )

長右衛門家のように18世紀からでも10代続く家では、その各々の代の主が同じさまであったわけはない。各々個性が、各々の時代に生きたわけだ。大地震など自然災害、飢饉、疫病にあった代は大変だった。
山林が主な生業だから、材木の需要供給バランスは収入に大いに影響した。そして時代の変化だ。江戸期でも17、18、そして19世紀と世の中は大きく進化した。

長右衛門家は江戸期、600町歩の山林を保有していたそうだ。
(寛永7年1630、徳川家安堵状)
熊野に入り、畝畑、中平、北ノ川(モチノ木)に250年間で移動した。全部、自分の土地だ。誰も文句は言えなかった。
別に逃げ隠れしたわけではない。材木の伐採のためと大地震など自然災害のせいだった。中平、モチノ木は修験者の巡礼の道筋のひとつだっただろう。半島の奥に入るが本宮大社から那智大社に近づいたわけで過疎の地に行くと言う感じはなかったかもしれない。

幕末を生きた、27代長右衛門(嘉永4年1852家督を継承、明治10年1977没)とその息子、菊次郎28代長右衛門は様々な面で頑張った人だ。19世紀半ば、日本の幕藩体制が揺らぎ始めた時期から明治維新を生きた2代だ。
なぜならば、この2代が生きた時代は、幕府、紀州藩が認めていた
長右衛門家の山林所有とか管理、そして新宮藩が販売していた、材木、炭などの産物の流通などが、明治政府の新しい施策でどのようなものになるか、家の単位ではなく、地域全体住民の生活として重要な変革に直面しとその対応に迫られていたからだ。

林業は幕末より明治と続く材木需要拡大で大いに活気があっただろうが、新しい地域制度や郵便、交通など近代化に関して、地域の指導者として活動した。明治初期には、「小口村」の人口は1500人だったが、季節労働者の流動的人口があり、恐らく倍くらいの人がこの地にいたのではないか。(当時、新宮藩収入の6割は炭で、池田役所には上流から多量の炭俵が運び込まれたので、炭焼き人口は山中でも増大していた。笠原 正夫著 「近世熊野の民衆と地域社会」)
北ノ川、モチノ木の家は多分、安政地震のあと、嘉永年間に建てられたものだろう。立派な屋敷だった。しかし今は崩落してしまった。
須川、「須」と言う字はもともと杉の木、樹木の神を意味したそうだ。
ひげの象形で生えると言うことだ。
それでか、章夫叔父の調査では長右衛門家は江戸期まで村上姓、明治の皆姓で須川姓にした、としているが、逆なら理解できるが・・・
現実的ではない。(江戸期の農民に姓はない、庄屋は帰農する前の武家、先祖の姓を屋号として残していた。)

紀伊続風土記

ちなみに、幕末の紀伊の地誌をみると長右衛門家の暮らした地域は以下のように記述されていた。

紀伊続風土記」は紀州藩が仁井田 南陽等の学者に文化3年1807から文久13年1831と天保9年1839にかけて編撰させもので菊次郎の祖父、長七の時代だ。作成におよそ32年間かかった記録だ。

この地域は「小口川郷」とされており、南は「色川郷」、西北は「四村荘」、東は「三村」と「浅里郷」に囲まれた東西4里、南北5里の10村である。大雲取と小雲取の2つの高い山の間に位置する。
東西に谷筋2つ、南と北の2つの川が交わる。南の川は滝本に、北は色川郷樫原に源を発す。この北の川は「北(野)川村」と「畝畑村」に流れる、とある。
雨後は畝畑まで舟の通行ができた。田畑は少なく生産はやりやすい。
社(神社)はなく、木を神体として森と科すと。
10村の名は、椋井、赤木、長井、西、東、大山、鎌場、流木、北川、
畝畑である。寺は永昌寺(熊野町史では永詳寺)。

お寺の跡

神社はなかった。この風土記には「極山中」と記されているから江戸期、和歌山の人間にもへき地と言う感であったのだろう。

ちなみに、北西の「四村荘」は24村あるが南西、大塔峯にかけて人跡未踏のところがあるとの記述、北東の請川は商業が盛んで富豪がいると言う。つまり、小口川郷から東への道の記録はなく、小原谷を経ても古座川には直接、走破不能だったのではないか・・村上家は小原谷を経由して小口川方面に進出したと言うのも無理があった。

この記述では、
私が1978年に見たモチノ木「高倉神社」、ひとは村上神社とも言うは、江戸期天保までには存在していなかったと言ってもよい。
その後、神社は無社殿、幅3m、奥行き7mほどを高さ1mほどの御影石の柱で囲い、奥に石造りの小型の祠があった。周りは植林されていて樹木は相当の高さであったので、その後これらの樹木を伐採、搬送する際に神社全体は分解されたのであろう。現在はその石材は積み重ねてあるようだ。祠は右横に置いてあり、灯篭に無くてはならない灯(あかり)部分がない。
桐村 英一郎さんの写真では形状が異なっていた。

桐村 英一郎著「木地屋と鍛冶屋」同じ写真は2016年「祈りの原風景」にもあった。左市朗従兄
桐村さんの本

菊次郎は新しい行政府のもと、小口村となった地域の植林など山林の永続や管理、材木の切出し、運搬、河川や道路の整備などのインフラ、作業員の生活その他教育など福祉の整備に尽力しただろう。
明治、彼の時代には日本は帝(みかど)の世になり、先祖が熊野に移住して生きてきた250年間とは異なる社会・産業構造になり、資料によれば林業は興隆した。
ではなぜ徳川家末から明治にかけてモチノ木高倉神社にあるように「村上 菊次郎」と名乗ったのだろうか。

菊次郎は勤王派

大仏 次郎著「天皇の世紀」には大和の南部から熊野にかけての「勤王思想」に関しての記述がある。討幕派が最初に行動を起こしたのは十津川代官所の攻撃だった。討幕派が期待したのは、地元の勤王派だった。しかし幕府の統制はまだそこまで弱くなく討幕派は蜂起に失敗した。熊野方面に逃れた残党も紀州藩と庄屋グループの厳しい探索にあって、壊滅した。

鎌倉 時代、後鳥羽上皇、制定の菊紋

私が察するに28代須川 長右衛門 菊次郎と先代は勤王派だったのではないか?「菊次郎」と言う名がそれを表わしている。「菊」は天皇家の象徴でありロゴだ。それを名前にしたところが尋常ではない。かなりの勤王だ。でも浪人が勤王を旗印に立ち上がるような軽薄なものではなかった。
ではなぜ「村上」とわざわざ灯篭に彫り込んだか?
これは別な理由だ。

明治政府の近代化は妙なところにこだわった。日本の民俗的信仰もそのひとつだ。天皇を神格化していない自然信仰はその対象になかった。熊野では石や水を信仰する無拝殿の神社が沢山存在した。各々の単位で庄屋が神社を維持していた。これらは古くから続いていたが、原始的であり、近代日本にふさわしくない土着な信仰だと。祠、稲荷、氏神、道祖神、恵比寿大黒などは否定された。

27・28代 長右衛門は自然信仰から始まった神社をつぶしたり、統合したりする明治政府や県の方針に反発した「レネゲード」ではなかったか・・・(「レネゲード」は宗教的異端者)
(南方 熊楠の活動も神社併合に反対する立場から始まった。)

和歌山県の明治政府による神社併合率は異様に高かったそうだ。

だから菊次郎は敢えて明治時代になりモチノ木に神社をつくり、天皇の子孫を示す「村上」、と明治の年号を、その神社の石に彫り込んだ。一種の自己防衛的精神ではなかったか・・。
多くの地域の自然信仰の神社が明治政府により整理・統合されたが、モチノ木の「高倉神社」は規模を拡大された。それも住民がいる明治・大正年間だけだったが・・
そして菊次郎のこの演出に、章夫叔父は影響されたのではないか?

28代 須川 長右衛門 菊次郎の明治期天皇崇拝

彼はなかなかの曲者だったと想像する。
明治政府は以前否定された天皇家の全て、つまり武家、鎌倉幕府に対抗した天皇家を再評価した。その象徴が楠 正成であり、清和天皇だ。だからこの地域から直線では遠くない古座川地域の村上氏の子孫の威光利用を図り、関係を持ったという可能性は否定できない。

当家の五三の桐と菊紋の入った笄 

笠原 正夫著「近世熊野の民衆と地域社会」によれば、新宮藩の牟呂郡統治は紀州藩内でも独立しており、口熊野と内陸、合わせて161村だった。そして山林が主なる生業。
廣本 清著「紀州藩農政史の研究」では、天保年間の村役人「長右衛門」の石高は約30石、給人名に下村、浅井、井上の名は見えるが庄屋は農民だから姓は記されていない。他の庄屋、村役人も姓はない。
モチノ木でも西川でも「村上」と言う名は文書には見えない。
先祖伝来の「須川」は屋号として残していても。
(石高は地域、個人の収入を表す米の単位だが、天保年間、その定義に変更があった。供与米は銭と記してあった。)

大塔の宮 護良親王の兜と盃は、その時代まで長兵衛家にあったと推定する。
明治政府は旧南朝の遺産収集にやっきだったから、噂を聞きつけて調査に来たに違いない。何か条件を出して、明治政府が持ち帰った可能性は否定できない。熊楠も上野国立博物館で見たと言ってその経緯をいぶかんでいた様子だ。熊楠は明治37・8年まで須川 長兵衛家にあったと口述していた。
現在、私が文化庁に問い合わせても彼らの体質から正直には答えないだろうが・・

大塔の宮 護良親王の兜と盃、大和で須川 長兵衛が賜った品、もしかしたら、親王が世話になった人々にギブアゥエイ的に用意してあったものかも知れないが・・・ 家と周りに伝わる伝承では存在しただろう。しかし熊野では親王との接点はみられない。

結論から言うと菊次郎の意図は、「村上 菊次郎」と神社の柱に彫り込むこと、大塔の宮、護良親王の兜と盃を渡すこと、明治政府や和歌山県の木っ端役人を一蹴したかったのではないか?
それが27・28代勤王派 長右衛門家の策であったと推測できる。

古座川の源氏

若宮神社

古座川の若宮神社、村上 清重公を祀った由緒あるところだが、行ってみるとその位置関係が、モチノ木の神社はとても似ている。
小さな川を渡り、対岸の斜面にあるのだ。苔が綺麗だった。

古座川の源、村上家は幕末、須川家で言えば長七から27代長右衛門の頃に紀州藩が編纂した「「紀伊続風土記3」に書かれている史実でこの内容は客観性がある。

「古座川西川は石高324、52軒、266人と中規模の集落だ。添野川、平井、井野谷、下露からなり、源太夫(げんだゆう)が名主。
その先祖は承久の乱1221に朝廷側に付いた、村上 清重公と73人の者である。永和年間、孫の清定が南朝方に付く、慶長年間、源之承が浅野家から材木販売の「口を取る」(手数料をとる)ことを安堵された。舟の往来が可能で、材木を出せると・・

この地域は「七川谷郷」と記されて8村、東西4里、南北5里の面積的には小口川郷と同じくらいだが、問題は松根より先を「深奥の地であり大塔峰から連なる山に隔てられていると・・だから「小口川郷」は隣ではなかった。小原谷は先の先。
従い、江戸期後期まで北の川と西川は直線では行き来がなかったようだ。
距離的には近いが。8村は佐田、下露、西川、松根、添野川、井野谷、平井、成川である。

幻の滝

そして西川には旧家や神社の記述が多い。
ただし江戸期だ。「村上」と言う姓の記載はない。

菊次郎と父は哲学者―幕末維新の世相―

この27・28代長右衛門はちょっとへそ曲がりなところがあったのではない?と言うのが次の疑問だ。
彼らの人徳がなければ地域は成り立たなかった。
世俗的だが、石段の上からお祭りごとがあると餅撒きをしたらしい。
餅撒きは地域の評判で多くの人達、子供や老人も、が遠くかれも来たと言う。一つのイベントの演出であり、旅芸人の娯楽もやったかもしれない。この家は坊とよばれ一時すたれたが続いている、とある。

幕末の争乱と明治維新への変化は人流を不規則にした。鳥羽伏見の戦いや大阪城の開城で多くの幕府関係者が徳川親藩紀州に逃れ、そこから東を目指したそうだ。幕末、維新は承久の乱とならび、日本の最大の時代変革だ。熊野は変動の源に近い、何が起きていても不思議はなかった。

江戸期から明治にかけての日本人の精神構造の大きな変革は仏教と神道にあったと言う。

安丸 良夫著「神々の明治維新」によれば、明治初期の廃仏毀釈や民俗信仰(熊野には多く点在した)への熱狂的な排斥は日本人の在り方を大きく変えた。日本は「近代的民族国家」にならねば、と言う政府の指針は全国津々浦々まで復古の動きとなった。徳川幕府は統治に寺や僧侶を利用したが、その反動だ。氏神を整理せよと言う動きのなかで神社を作る、28・29代長右衛門はある意味、哲学者だったのではないか・・福沢(諭吉)先生ですら祠を愚弄した記述があった。
28代長右衛門 菊次郎の人柄やリーダーシップ、地域の人望などを詳しく知りたいが、今となればなかなか難しい。

菊次郎とその父は明治政府の山林政策が徳川期(250年間)とどう変化するのか、山林の私有は従来通りなのか?租税は?と県や国家とやりあう項目が沢山あり、それに対応する立場を作りたかったのではないか?

彼の子、金四郎が那智の隣、狗子川(くしかわ)の坂口家に養子に行き、その子が宇久井の伯父さん(30代長右衛門 正雄や豊の従兄)と言う方で、地域では知らぬ人はいない人格者であったことから、この人の生き様をもう少し研究した。

昭和23年1948、宇久井の伯父さんが皇太子殿下(平成天皇)に浦の
カツオ漁の様子を説明していた、私の父宛てに送って来た写真

また、宝永大地震のあと、当時「長兵衛」と言っていた21代、享保元年1716没、をついだ22代の「長市」宝暦4年1754没だ。彼は初代の長右衛門と言われているが、紀州藩の何かの用務に就いていたのではないか・・と言うことだ。彼はこの家の名前が、「長兵衛」であったことを証明している。「長兵衛」を「長右衛門」にすること自体も当時の社会制度からはお上の認可が必要であった。

村上家伝説への答え

小口出身の須川 真澄(父の従兄 郵便局長須川謙一長男)から質問を貰った。以下、彼の文
「先祖を村上系の須川とした場合、請川系須川との血族関係に関する資料は私の手元にはない。(#17世紀初頭の長兵衛家と忠兵衛家)
34代村上 重夫宅には詳しい系譜図があるようだ。村上源氏清重は承久の乱に敗れて後、大島浦を経由して西川村に蟄居・開墾して西川庄を作った。その後、仲家、西家、松葉家、と分家した。(村上の姓はない)その孫、清定は南朝に属し挙兵。その後、末 源之亟の代に浅野家から「近郷にて売買の材木を取ることは前々のように許す。」と文章にあると。「丸山神社」は、4家で持ち合い、祀ってきた。(「村上神社」はない」寺・宝光寺は臨済宗海部郡由良興国寺末。(北ノ川の永昌寺と同じ。)畝畑には定福寺と言う寺もあったようだが、その後は不明。
市朗従兄が見たと言う村上 清重の位牌、須川 菊次郎の石碑、お送りした栗栖 和夫氏の手紙をどう扱うか?
はるゑ婆さんは、「年に一度の村上神社の祭りには、西川の村上家から使者が来て、儀式をした。地理的に見て、ひょっとしたら、北ノ川の方が格上だったのかもしれない。」と残している。
栗栖 和夫氏は「村上一族が小原から中平へ出てきたこと、当初は阿之平と呼んでいたことは村人から聞いた」としている。「村上神社には色川から愛国婦人と書いたタスキ掛けの人たちも来ていた」とも書いてあります。(風評?)か」#薫雄注

請川の須川 忠兵衛家の家系は大庄屋であり、請川は商業が栄えていたので、藩の「仕入れ方」をしていた。(新宮藩資料)
文化2年1805、大庄屋、「須川 助左衛門」は池田役所からの要請で山中に入り滞っていた炭の産出を促しに回った。
このように山林経営が主(製炭もしていただろうが)の長右衛門家と、17世紀初頭は兄弟であったとしても時代を経て両家は異なる環境下だったと考えられる。(長右衛門家が新宮市池田町に家を持っていたのは偶然ではなく、池田は新宮藩の炭役所(倉庫や仕切り場)のあったところだった。)

臨済宗宗派の共通性は熊野の宗派は、興国寺の臨済宗と禅宗が多くを占めており、両家が同じ宗派である確率は高かった。

栗栖 和夫さんの手記について

栗栖 和夫さん 昭和44年1969モチノ木 自分が植えた樹

小口、郵便局長であった須川 謙一に、2000年前後、1年余りの間に3通の昔の記憶を記した手紙を送っていた。
その中に「村上うんぬん」と言う記述がすべての手紙にあった。
「村上一族が小原から中平に出て来て当初は阿之平と呼んで、阿之平には8軒の家があった。村上一族が小原から出てきたときに中平の寺を建て替えた。」
「モチノ木の村上 菊次郎刻は村上家が一緒に寄せて小原大明神」
「村上義重神社は小原で三百年くらい住んだ。」
「畝畑は平家、島原の乱の中村 文之助」・・クリスチャン伝説か・・
「村上 清重神社の祭り」がモチノ木でもあったようだ・・
小口の須川 はるゑばあちゃんも、モチノ木の祭りに村上家から使者が来た」と言っていたそうだ。
この中で経緯は不明だが、「300年間、中平に村上と言う姓の一族がいた」と言う伝承だ。1600年前から1900年前すると、どこからかだれかが中平に来て、それから出て行ったと言うことか?謎だ。

キリスト教に関しては栗栖さん以外にも太地の西、浦神と言う半島があり、そこに私の祖母、とせの妹の長女が嫁いだ。浦神(浦上ではないが)の切士(キリシ・・タンだ) 和歌山藩は、紀州山中に多数のキリシタンを送り隔離した労働させた記録もある。

また紀州藩の創始のころ、17世紀初頭、重臣に来島(くるしま)、村上水軍系の「村上 道清」がいた。彼の子孫が熊野の方を歩いたということはあり得る。

栗栖 和夫さんの記述は無論創作ではなく、彼が実際に親の代から聴いていた内容であり、正しいものだ。

だが元の情報、「村上家であった長右衛門家が明治改姓で須川になったと言うことは」、もしかしたら菊次郎の撒いた情報かも知れない。
なぜなら、ありえない逆転だからだ。

北ノ川の祭りに西川から使者が来たと言う話は、割合新しい時代ではないか?恐らく、明治初期には小口村と西川村には大塔山の裾になる山脈を通る道が開発され、小原谷を通じ、行き来をしていたのではないか。
正雄の嫁、ヨリ子は松根の人だが、彼らが結婚した昭和初期、須川家は色川村橿原なので、南側(海側)の道か中辺路で行き来したのでは。

宇江 敏勝著「森のめぐみ」-熊野の四季を生きるー には、筆者が中平からモチノ木へ愛犬と向かう記述がある。

「須川家は曽祖父の代まで小原谷に住んで、村上姓を称し(ママ)ていた。往古は清和天皇の流れをくむ村上一族につながり、永昌寺の火事で焼けたが家系図もあったと言う。」うんぬんで、この文は1990年代初頭に書かれたと思われる。恐らくこの活字になり紙に印刷された記述が、長右衛門家は清和天皇系と言うことになったのではないか・・

「村上清重」公の位牌に関しては、今のところ現物が古座川の村上重夫宅以外、どこに存在するのか、どうようなものか?を確認していない。

果たして、須川 長右衛門家が村上一族であったのか?

この検証は難しい。科学的な証拠がないうえ、論理的にも無理がある。
ただし、須川家と古座川の村上家には幕末以降、何らかの強い関係が存在したことは確実であろう。姻戚関係とか。
大正時代には山を越えて行き来できる道もあっただろう。

でもなぜ長右衛門家が村上家から分かれたと地元では言われていたのだろうか・・源氏、清和天皇論にもどると。

源氏と平家、元は天皇家の分家である。天皇と血の繋がりのある人々が都で官僚階級として確立され、荘園の管理などで武力を保持するようになった。平安時代後期。(倉本 一宏著「公家源氏」)
須川家がそうだったと言う清和天皇家は大筋では河内、大和、信濃の3つの系統だ。古座川の村上 清重公は河内の系統であろう。
河内源氏は源姓だが身内の戦いで自滅し、頼朝公が最後の人と言われていたが、一部村上姓もあり承久の乱まで2代ほど生き残っていたようだ。(元木 奏雄著「河内源氏」より)

清和天皇嘉祥3年830-元慶4年967

その一族が承久の乱で敗れ、古座川に70数名で逃れ
地元と協力し、かなりの山奥で過ごしていた。この一族は清和天皇系村上一族であることに史料から確かであろう。
では須川はなぜ17世紀初頭に村上から分家したのか、須川と言う姓をなぜ保持していたのかは明らかでない。
村上はそのほかにも村上天皇系の源氏にも多くあった。

村上天皇62代延長4年926-康保4年967

また紀州藩、17世紀以降、来島の村上水軍の末裔、村上 通清がかかえられ、重臣であった。彼は村上天皇系の源氏だった。
以上のような要素を鑑みるに北ノ川の須川一族が清和天皇系の村上清重一族から分かれたと言う証拠がない。

一方、幕末から明治初期にかけての日本の社会はノスタルジームードが蔓延した。その一例がNHKさんの大好きな「源義経公」だ。
驚くことに義経は九州、四国、東北の山の中、北海道、熊本にまでその足跡が残されており、子孫もいたと言うことだ。各地に伝承、神社、絵馬、絵巻、石碑、足跡まである。
源氏や平家は日本人が大好きな伝承だ。彼らの先祖は天皇であり、天皇家ゆかりの人たちだからだ。天皇への信奉、崇拝、それらの究極の具現化だからだ。うちは清和天皇系だと言えば聞こえは最高だ。
何しろ江戸期より現在まで、錦絵、絵本、芝居、歌舞伎、そして映画、小説、漫画、アニメ、そして極め付きはNHKさんのどうしょうもない大河ドラマだ。源氏は皆、美男美女だし。

NHKさんの大河ドラマ

なお、あの「村上百景」の村上 清は「村上氏」の由来には詳しく、村上天皇系の村上と、清和天皇系とを混ぜてこの本を編集し事業とした。

菊次郎はこの日本人の回顧心(ノスタルジー)が盛大であった時代の人だ。彼は演出家でありプロデューサーであったのだったろう。あの神社の元は原始信仰の岩が置いてあった跡に、明治になり、彼が時代に逆らい、石の祠、柱、灯篭を製作させたものだ。形にあるもので人々に説明するのが一番効果的だ。信じない人たちも多かっただろう。

「ここを村上があるいた、ここから来た」と言う逸話は全国的にある。
「頼朝公」があそこで舟をおり、ここを通り、あの山を越えたと、先の方角に石の上につけられた足跡がある、などなど・・ドラマはいくらでも創作できる。
そういう横を見ないで世の中的雰囲気、源氏、平家、天皇家などの系譜や伝承だとする、に乗ったのではないか・・
歴史学的には戦国以降の源平の家ごとの定義は難しいらしい、徳川家ですら源氏系とは言えないとするのが一般的だそうだ。
なお、「須川家が天皇家と少しでも関係があった」とするなら、それは13-4世紀、大和においてだろう。
須川家の家紋は代々「五三の桐」、半端ない高貴なもので、かなり古くから家に伝えられたものと推定できるからだ。この由来は不明だ。

結論から言うと、須川 長右衛門家が清和・村上源氏系であったと言う説は10中8-9,あり得ない。

須川 長右衛門家が大和 須川 長兵衛家の系統、南方 熊楠の説は10中8-9、現実である。

「源氏」とは何か日本人の歴史、そして心の中にあるとても曖昧な概念だ。

本もいろいろ読んだ。

しかし書物は「うちは源氏だった」と言う言葉には何の確証を与えるものではなかった。

〇朧谷 寿著 「清和源氏」

源氏は個々に発生して天皇名を冠して、嵯峨、宇田、後醍醐、村上などと呼ばれた。清和もそのひとつである。(通常、村上源氏と言えば村上天皇系だが、清和にも村上はいた)
元々、出自は高貴な家柄であったが、ほんの数代のうちに中・下流貴族から地下人(じげびと)になった。村上源氏は平安から鎌倉時代にかけて要職を20名だしたが、清和公郷からはほとんどでなかった。
清和源氏は摂津、河内、大和が御三家である。
この三家は源姓であり、系図には村上姓はない。

〇倉本 一宏著「公家源氏」王権を支えた名族
源氏はもとより、藤原氏と共存しながら天皇の政権を支えてきた一族で、天皇家から出ている。12世紀、武家をなる一族が出る前は公家であった。家系は21流あった。この本は武家が成立する以前、天皇の系統が如何に平安の仕事をしながら地方にも展開し武家になったかを説明している。清和天皇系が早くから地方に行き、信濃、相模などに定着した源氏である。清和天皇は貞観15年873、清和天皇源氏が一番有名だ。鎌倉の源、室町の足利、戦国期の島津、江戸の徳川など。
低迷期もあったが、一番活躍した。
村上源氏は村上天皇が、貞元2年977、公家勢力では康和4年1102には公郷24人のうち、源氏は12人、そのうち8人が村上系であった。
村上源氏が武家になってからのことはこの本にはないが、天皇の血を引く、誇り高い一族であった。

〇元木 奏雄著「河内源氏」頼朝を生んだ武士本流
清和天皇、天安・貞観時代870年頃から9代を経て、その系図に「村上」の名が出る。源為国で、「村上判官代」と名乗り、信濃村上家の系統になるが、明治30年代に系譜をめぐる議論があった。
河内源氏は美濃の国、さらに東国に基盤を作り、河内では自滅しつつあったが、最後に頼朝(よりとも)が平家の呪縛から逃れたのが真相。
康治2年1143、多数の荘園が受領と言う形で源氏の支配となった。
関白が管理する興福寺荘園もそのひとつであり、為義は興福寺に手を伸ばし、河内の義朝が実力で奪い、時代は急速に武家の時代になった。(須川家が源氏であるとするなら、12世紀末、大和源氏の系統か河内源氏の出身であったなら、理屈に合う。承久の乱のころ源氏は興福寺周りでさまざまな活動をしていた。

〇坂井 孝一著 承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱
中公新書
山本 七平さんは「承久の乱」1219年は日本史上最大の転換と位置づけていた。その内容は3代に終わった鎌倉幕府の後期に朝廷が起こした鎌倉政権への反乱で当時の日本の人口800万人という規模を考えるとかなり大規模なものであった。

成立したばかりの武家政権、鎌倉で3代将軍実朝が暗殺された事件からぼっ発した大乱である。この乱は朝廷と武家政権のその後、中世400年間弱と近世250年間、計640年間の日本の在り方を決定したものと言えそうだ。
頼朝は鎌倉幕府創設に、東海道諸国の守護を御家人で固めた。そのころ京都公家の間でも権力争いがあり、村上源氏の公家、源 道親が主導権を握りつつあった。

平安時代以降、鎌倉、室町、戦国、そして豊臣や徳川の時代、つまり中世後期までの、日本の潮流をみると、源氏や平家とそれらの存在意味は、むろん物理的な差別化があるわけでなし、とても曖昧であることは確かだ。近代において自分は源氏だとか平家だと言える家族や人はまれであることは明白だし、一般的には憧れ、ノスタルジーに近い概念だと感じる。

菊次郎に学ぶことー「祈りの原風景」―

菊次郎は曾祖父で僕より3代前の人だが、明治初期に私家版神社をこさえた。現在、彼を思うと、僕が家の近所を歩いていて感じるのは無数にある神社だ。まさに東京都心版「祈りの原風景」だ。
これらの神社は殆どが江戸開府(太田道灌)から江戸初期に作られたものだろう。中には乃木神社など、明治神宮や靖国神社のように明治になり国家プロジェクトで作られてものもあろう。
歩いて30分以内のところに、愛宕、烏森、八幡、熊野、春日、氷川、広尾や十番の大規模な稲荷、小さい稲荷、すでにビルの中に取り込まれたものなどと、気が付けば神社に囲まれている。その他、民俗的な

地蔵とか道祖神、七福神など無数に存在している。
菊次郎は伊勢の大神宮をはじめ、三つの大社(本宮、新宮、那智)の三角地帯で生まれ暮らし、神社と言うものに何を感じて、考えていたのだろう。
これらの神は祈ればよい、個人の負担の少ない存在だ。八百万の神が日本には存在するとのことで、日本人は原理主義にも陥らず、土(つち)の地面もない都心を歩きながらも身近にいる。妻の祖母は信仰深い人で、バスの中からでも手を合わせていたと。

あらためて、菊次郎が明治初期に私の神社を創立した意義は何だったのか・・・まさに「祈りの原風景」だ。(題は桐村 英一郎著)
「祈り」は本来、人間の心にある自然な精神だから単純な方が良い。妙に理屈をつけるからおかしくなるのではないか・・・。

(この項以上)

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