久彦家のルーツは「長七」(26代長右衛門)

文化14年1818 長七、長男、次男彌吉6歳


須川 久彦家の先祖

久彦は私の母方の祖父だった。父方と同じ地域、同じ姓であったが、久彦の父、亀太郎とその子供たちが色川にいたことは判明していたが、それ以前に関しては不明であった。
久彦は北ノ川をみて反対側の小口に思いがあったようだ。
先祖の墓を昭和10年ころ、1930に小口の寺に創立した。
そのころ京城から私の母節子と妹喜美子を連れて旅行した。節子は見たこともなかったような山の中で、吊り橋が怖かったと言っていたが。私と輝一も、幼いころ、久彦に連れられて訪れた。長右衛門家の美一(よしかず)宅に泊まった。


吊り橋を渡る喜美子そして一つの手がかりは彼の本籍地だった。3男、濟(わたる、支那方面派遣軍飛行隊所属、昭和19年11月戦死)の同志社大学時代の操縦免許証の記載だ。本籍地は「北ノ川」になっていた。北ノ川は細長い「117」番地はどのあたりを示すのか、中平辺りでないか・・

永昌(詳)寺記載の文書から、亀太郎(かめたろう)の墓はそこにあり、その父は彌吉(やきち)と言う名で、没年と年齢が記されていた。(長右衛門家の菊次郎、竹吉などの記載もある)

弘資叔父は幼少のころ、豊は兄だと思っていたそうだが、ある時、本当の兄ではないと聞いて、両親に尋ねてそうだ。多分、母、とせであったろうが、「うち、久彦家は長右衛門家の隠居であった」と言っていたと彼は記憶しているそうだ。本当の兄ではないが、豊は兄も同様と理解していたようだ。今でも「豊兄」と言っている。

熊野で言う隠居と散居(いんきょとさんきょ)

普通、日本語では「隠居(いんきょ)」は家督を退いた者、さらに家督が孫の代になる「散居(さんきょ)」と言い、新しい隠居(子の代)と特別した。もしくは分家を隠居、孫分家を散居とする。
ところが熊野では、家督を継いだものは「本家(ほんや)」と言い、独立した次男を「隠居」、三男を「散居」と呼んだと辞書にあった。(ブリタニカ小項目辞典)
速水 融博士もその文のなかで「隠居には違う解釈があるのではないか?」としていたが、紀州に詳しい学者の彼をしても知らなかった。

「隠居」系列、次男が久彦家であるとすると「彌吉」はどの時代かの長右衛門の次男と言うことだ。

久彦家、久彦が明治10年1880,生まれで父親亀太郎は嘉永1850頃生と推定できる。先に書いたように、久彦の祖父、彌吉(やきち)ははっきりしている。没年が明治35年1901で89歳であったから、生まれは文化8年1812だ。

長右衛門本家(ほんや)でみると、27代長右衛門、文化4年1810ころの生まれが、彌吉の兄と推定される。
27代長右衛門は嘉永4年1851に家督を継ぎ、明治10年1877に没した。26年間、本家だったが、安政元年1854の大地震で家や事業は被害があり、中平からモチノ木に移転したと考えられる。

久彦より3代前、久彦家先祖は長右衛門と兄弟であった。

昭和16年久彦・とせ


父親は、26代 「長七」(ちょうひち)だ。
長七は安永、天明年間1780頃の生まれと推定される。彼は文化5年1808、に家督を継ぎ、嘉永4年1851、に没した。43年間と言う長期にわたり須川 長右衛門家の本家だった。
「長七」は言い伝えでは、例えば栗栖 和夫さんの記録でも
大変な学者であり、「教育勅語を一字間違わず暗唱していた」と知識豊富、頭脳明晰な人と言われていた。(この時代、教育勅語はないので、朱子学、論語か何かであろうか)
「学問を誰から教わったのか、親から子へ・・」としていた。
「長七屋敷」と言う家に住んでいた。場所は不明だが中平辺りか。
長七の時代、全国的には飢饉が続いたが、学問は進んだ。長七は武家ではないので、朱子学(林羅山)的な学問より、同時代の二宮尊徳 的な学問であったのではないか・

長七 薬草を採取

彼の時代、材木の需要は全国的飢饉で多くはない。
庄屋としての名前、長右衛門でなく、長七と呼ばれていたのは、何か公の職、藩か代官所の、を兼ねていたのではないか・・
(過去にも長市と言う名が見られるが)
山林の家業は長いスパンのビジネスだ。樹木は30-60年間を経てようやく商品になる。それでも切り出して、運搬し、最終的に材木になるいは2-3年かかったそうだ。戦乱、火災、時代の変わり目に合わねば収入は一定しない。
全国的には農政改革が活発になり、勤勉革命(速水 融博士の説)が進行し、生産効率は上昇した。
紀伊半島は本草学の本場である。後に南方 熊楠も研究の地としたように熊野には様々な植物が生し、人間の体に役に立つ自然物を数多く産した。
だが本草には学術的な知識も必要であり、紀州藩あげてその拡大に勤めていた。長七、須川 長右衛門家がそれから逃れることはできない
地理的な条件が整っていた。と考えられる。

長七が生きた時代

家督を継いでいた期間は、江戸期後半、文化・文政、天保、嘉永と時代は目まぐるしく変わった。西暦1915-1955年
農村にも貨幣経済が浸透し、生産力は向上した。貨幣経済は熊野では比較的早くから広まったと言われているが、生産者には大いに追い風だった。
一方、自然災害は多く、気候変動による大飢饉も何度もあった。
国にとつては外圧、ロシアも来る、オランダと英国の戦争は長崎のフェートン号事件、シーボルトも来ていた。
お伊勢参りが盛んになり、ついでに本宮や那智まで足を伸ばす人たちがいたそうだ。一方、大塩 平八郎の乱、など統治も乱れた。
次男の名「彌吉」は、彼が命名したのであろうが、とても意味深い。

長七生涯の時代背景-民間の力が活躍―

異常気象や火山の噴火で農業生産が減少し、飢饉が発生し、東北などは大きな被害を受けた。
熊野は本州の最南端、気候は温暖であっただろうが、全国的な不況は材木や炭の需要も減る。けして楽な時代ではなかっただろう。この時代、吉宗から続いた様々な新しい産業が生まれた。民間では生産性の向上と勤勉を唱える民間人が各々の地域を牽引した。

二宮 尊徳


二宮尊徳は金治郎と言う名でも知られている天明7年1786生、歿年安政3年1856、享年70歳で長七とほとんど同時代だ。
18世紀末の日本全国は自然災害と飢饉に見舞われた。そのようななか、農民の生きる道、生産性を上げる方策を学問的に説いて評価された偉人だ。学問と言っても武家のそれと異なり、農政論理で報徳思想と言われる。矛盾が大きくなりつつあった米本位経済の立て直しに功績があったそうだ。(小田原報徳会館展示)
勝 海舟は実際に尊徳に会った感想の言葉で「時勢が人をつくる例だ」としていたが、同じような個人は全国津々浦々にいたと推察する。熊野の報徳がいても不思議はない。

紀州は先進医学にも熱心で花岡青洲はその代表例
華岡青洲は宝暦10年1760生、天保6年1835没、享年76歳、

自画像と言われている

紀の川 西の山村で、外科医、麻酔医として薬物、山に産する6種の薬草から通仙散を開発、実験、数百例の使用手術実績があった。藩医だが御典医ではない。

麻酔の原料のひとつトリカブト

本草学は薬草と鉱物など自然に産するものをその特質に基づいて、人間の体に効用のあるものを見つけていく学問で、やはりこの時代、紀州では盛んであった。源 伴存(みなもと ともあり)寛政4年1792生、安政6年1859没、享年67歳、畔田 伴存(くろだ)とも言い、紀州藩の学者だ。小野 嵐山の弟子で藩の薬草園を管理していた。「和州吉野郡郡山記」と表し、熊野で出張中に死亡した。薬草だけでなく、地理、博物、地形、文化、習俗にも詳しい学者であった。

チョウセンアサガオ

「彌吉」(やきち)

須川 久彦(私の母方祖父)の祖父は長右衛門家26代長七の次男であると考えられるが、その名前「彌吉」の由来は何であろう。単なる農民の名とは思えない。
と言う字は、とても良い意味があるそうだ。弓は遠くまで、それに太陽と花が燦さんと輝くと言う意味をもち、大きい、満る、伸びる、深いなどだ。読み方では「ひさ」、ひろ、「わたる」、などがある。
17画あるので、略字が弥だ。平民の名なら、略字だ。
久彦家の家系には薬科大学に進学した女子が2人はいる。一人は
弘資叔父の長女で歯科医に嫁ぎ、まだ現役の薬剤師だそうだ。彼女の長女は検事と言うので、そういう頭脳があるのだろう。
久彦のひ孫たちたちには医師,歯科医、薬剤師などが多い。

久彦は少年のころ、山(色川)から勝浦方面に出たがこの経緯は明らかではない。
久彦の父、亀太郎の時代にすでに色川まで出ていたのか・・
彼の妻は色川の出身で、兄弟も色川にいたから。
久彦が面白おかしく話していたこと。「山を出て峠に来たら海が見えた。漁船を見てあれが軍艦か・・と」、何か話すときにこれから何かが起こるときの、そのわくわくした気持ちを伝えてかったのが感じられた。

久彦、初めて海を見る。

久彦家と須川姓

苗字を許されていた庄屋はともかく、隠居や散居には苗字はないから、明治、皆姓になり、隠居の家系だから「須川」としたのだろう。(須川家がモチノ木の移転したのはもしかしたら安政の大地震1954直後であったなら、長七屋敷は中平あったのでは)

久彦 昭和10年ころ

久彦家が長七の次男(いんきょ)から出ているとすると、私の祖父須川 長右衛門家 29代竹吉と母方祖父久彦は、26代長七より3代を経ており、私はそれより3代経ている。両方の血筋の元は長七になる。DNA的に考えれば、父から子には1/2に、孫には1/4になる(そうは簡単な数式でなく、男女により比率に差があると京大の女性教授の話を聴いたが、天皇男系の理由の題で、)
私の父も母も長七から5代目なので1/16、彼のDNAを引き継でいる。
長七は江戸期後半、激動の時代に生まれ生きたが、言い伝えではとても頭の良い人間であったと言うことなので、一応一安心だが。
人間、頭の良さだけでは尊敬も評価もされないことは今も昔もおなじである。久彦は勝浦出身の生駒 とせ と結婚した。

とせ と喜美子 勝浦中の島、昭和12年ころ

久彦のルーツは

「長七」である。
長七の妻は「カツ」と言う名で明治4年1871に亡くなった。長寿であっただろう。彌吉の妻には記載がない。
文献や資料による確定的なものではないが、伝聞と証言、それらを計算した時代的な考証から検証可能な科学的結論であると考える。
章夫叔父作成の系図には「久彦家」の項目があり、現在その記載は久彦家関係の家族にも重要な情報だ。
それによれば、彌吉の子、亀太郎の妻名は不詳、「色川須川村上家」とあるが・・(この部分は検証が必要、村上にこだわっているが、その確証ない)

彼らには5人の子が記されている。

長男 虎太郎 妻 こう→ 須川 のぶ恵(養子 秀夫)
長女 たみ  中口猪之助に嫁ぎ→ 中村 正男 妻 中村 都雅子(つがこ)とせ 生駒の出、その子が元宣(もとのり)と2女あり
次男 久彦
三男 三郎
次女 玉枝 養子 重十(ママ)

この家系では、久彦家と中村家以外は殆ど交流もなく、未知である。
でも長年不詳であった、久彦家のルーツは小口郵便局長男、須川 真澄の協力でだんだんに明らかになってきている。

須川 濟 出征 久伯父が山に登りローライコードに三脚を立てて撮影した。濟の後ろでバンザイしていたのは豊。久彦家の庭
久彦が朝鮮半島城津(じょうしん)で経営していた「須川洋行」
久彦 昭和27年ころ、新宮市堤防町「須川洋行」前

紀州の本草学

自然の生産物、人間の体に良いものの例は、オタネニンジンだ。これに国家的注力を図ったのが、紀州出身の将軍吉宗だ。
様々な産品は薬問屋に卸されて藩の収入になった。
薬問屋、医家には薬箪笥と材料を合わせ引く道具薬研(やげん)が備えられていた。この箪笥は大きなものではないが、小引き出しが72個あり、中には内部が二つに仕切られてものも、およそ100種類の薬草、鉱物などが収容されていた。その名は引き出しに記してあった。
下には2個の引き出し、大きな方に薬研(やげん)が収められていた。

木の薬研(薬研)

江戸時代後期の薬箪笥

山のなかでも人々は活動的になりさまざまな新しい試みをしていたのではないか。だから学問にも熱心であったのでは。
この薬箪笥は檜製、漆しあげ、上手のものではないだろうが、完全品だ。高さ80㎝、幅62㎝、奥行21㎝で72個の小引き出しと2個の大中の引き出しが下に。引き出しは幅、高さ7㎝、奥行き20.5㎝。書かれている生薬の名前は今でも検索すると出てくる。
例えば「天南星」は解熱・鎮痛の中薬、「紅丹皮」はシャクナゲで外用薬と。

江戸期と災害、疫病
倉知 克直著「江戸の災害史」によれば、宝永、安政の大地震(南海トラフ起因)の2大地震意外にも多くの地震があり、気候変動、火山噴火などの影響で、18世紀、大規模な飢饉が発生したと。
それに加え、疫病などで、日本の人口は17世紀2倍以上に増加したが、18世紀は横ばいであった。日本の平均寿命は男43歳、女44歳ほどで、2-3代継続する家は半分くらいだった。
長七の時代はまさにその真っただ中であった。

木村 陽次郎著「江戸期のナチュラリスト」によると、本草は将軍吉宗が力を入れた事業であったと。天然物、自然のものから人間に役に立つものを見つけ、それらを育てる。食するものでも薬でも。
彼は青木 昆陽のさつま芋の全国拡大や、チョウセン人参の栽培に力を注いだ。小石川や目黒(現在の自然園)は大規模な薬草園であった。忍者、お庭番を使い、全国の天然物を調査した(松尾芭蕉も)18世紀末にはツュンベリーが来日して、日本の豊富な自然物を
「日本植物誌」として表した。貝原 益軒、平賀 源内なども。

おたねにんじんなどの生薬は江戸期、半ば吉宗の時代より関西方面で取引がされた。
大阪道修(どしょう)町がその中心で、明治以降、日本の天然ゆらい生薬が
西欧薬に変わられ現在までの薬品会社は、17世紀に創業されて薬種問屋から発した会社が多い。
例えば 塩野義は塩野義三郎が享保7年1721、武田薬品は1781年創業、田辺薬品はもっと古く、延宝6年1678である。富山系はもっとあと。

おわりに

長七が「本草」をしていたと言う記録はない。だが、彼の時代は地方の産業が勃興し、従来の生業に加え、何かそれらに加え新しいことに活動的であった、と言うことなしに、彼が「学者であった」と言う評価は受け難い。熊野にはさまざまな産物があったがそのなかでも、人間に良い植物の種類や特質を覚え、それらを採取して商品化するのが「本草」だ。長七はその知識に豊富であって、それらを村人たちに説明できた人物であったと、私は推定した。
恐らく、次男(隠居)の彌吉、孫の亀太郎も従事していたかもしれない。本草は明治になり急速に廃れたので、久彦の時代には別なことに挑戦しなければならなかった、と言う家族史があったのではないか・・・。

この項以上

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