父(豊)の兄 三十代須川 長右衛門 正雄(まさお)
私は彼には10回ほどしか会ったことはない。
最初は小学生3年、昭和26年1951、父の母、祖母とめ、が亡くなり、お盆に橿原、色川の家を訪れ、墓参りをして一泊した。この家は数年前に市朗従兄が連れて行ってくれた。なるほどこんなところだったか・・前方にずっと山並みが開けているひときわ大きい峰が大塔山だろう。(その風景がこのHPのトップページアイコンだ)
祖母の墓は家から奥に少し歩き、脇に下る道の先にあったが、今は新宮の墓地だ。
正雄伯父はがっちりとして体格で頭は禿げていた。眼鏡を掛け、何かを思い出すしぐさは彼の弟、私の父に似ていた。
弘資(ひろすけ)叔父(母の弟)は「威厳があり近寄り難い人」であったと。
私が大学3年、昭和40年1965,2月、伯父は亡くなり、新宮で葬式があった。59歳であった。
寺で市朗従兄が金のダンヒルライターをカチャカチャしていたのを覚えている。早い死だった。
父、豊や私たちは神戸にいて、朝、起きたら父は新宮に向かっていた。
血圧が高く、急死だった。
東京の家にも来たことがあったが、記憶に残っているのは母方の祖母とせ を訪ねて来てお茶を飲みながら四方山話をしていたことだ。少なくとも2回は記憶にある。
話題は墓のことだった。彼の死生観も述べていただろう。内容は覚えてないが先祖を思う気持ちが墓を話題にしたのだろう。とせ とは気があった。とせ はとても彼を誉めていた。
正雄は新宮市営墓地の最高の場所に墓を移すと。財力もなければできないことだった。駐車場に一番近く、電話ボックスのそばだと。今はイオンの隣になり駐車場も電話ボックスもない。
私の母節子は兄弟皆で箱根旅行に行ったとき、雨が降ったのだろう、「一雨100万円」と言う彼の言葉を良く覚えていた。雨の水で木が伸びて100万円収入が増えると言う意味だが、その裏には彼が子供のころから苦労した物語が秘められていた。
私たち兄弟は容貌から「うみぼうず」と呼んでいたが、山の人間だ。
日本ひと時代前、長男の役目
現在、日本社会では「長男」の概念はとても薄いものになった。ほとんどが長男だけか長男もいない家庭が多いからだろうが、社会そのものが変わったのだ。昔の大家族では最初の子は死ぬまで大変だった。職業を継ぐ、家を保つ、財産を相続する。そして一族、親類縁者の世話をする。しかも地域の指導者だ。
弟たちは何でも欲しがるし。従兄の市朗がその最後の世代ではないか?
正雄は父、竹吉(小口村村長)が大正13年、53歳で没した時に
19歳であった。弟 豊13歳、章夫10歳。竹吉は46歳から長患いで、新宮で療養していたので、正雄は早くから家の主として家業に専念しなければならなかった。(日本には徴兵令があったが、正雄の時代は軍縮期であり、跡取り長男、庄屋との条件から免除されたと推察する。)
世の中は近代化が進み、この時期は第一次大戦の好況期であったが、やがて大恐慌の余波を受けた。直前、
大正15年1月1926、モチノ木から橿原に移転した。一大決心だった。
このころが一番大変な時期だったのではないか・・栗栖 和夫(くりす かずお)さんの文には、「橿原へモチノ木の、父が創設した小学校分校建物と物置
(6x2間,総二階と言うから大きな建物だ)、先祖の墓も移転した」と。学校の建物は橿原の公民館になったと。歩けば急な坂を上り、2時間くらいかかったのではないか・・
これらの事実から当時はモチノ木と橿原は牛馬の搬送がなされていたのでは。
小口の郵便局は叔父の金五郎が局長をしていたが、従兄の謙一が継ぐ時、謙一が若いかったこともあり、その申請のため、正雄は船便で東京に出て、関係筋に手続きをしたと。それに弟たちの教育だ。
地域には医者、獣医がいない。それらになることを望んでいたそうだ。
家業や山林を継ぐと言うことは、一家、親族の世話まですることを意味したのが、「長男」の役割であった。
戦後、再び材木ブームになった機会に新宮に移転した。
橿原には昭和30年頃まで30年間くらいしか住んでいなかったことになる。恐らくあの家が須川 長右衛門家が徳川の世から一番短い期間だったのではないか、時代の速度が変わった。
市朗従兄の話によると正雄はこの時に久彦にかなりいろいろな話を聴いていたそうだ。
正雄は日本林業盛衰の波を生きた
正雄の人生には、大きな世の中の流れと家庭や地域の状況から幾つかの段階があった。
1, 少年期 大正13年1926、昭和元年20歳 父竹吉の闘病
2, 青年期 昭和10年1935、30歳 橿原からの山林運営と村長
3, 壮年期 昭和30年、1955、50歳、新宮へ移転北長商店経営
青年期は第一次世界大戦後の大恐慌、全国的に材木の需要は激減していたに違いない。だが、北ノ川の自分の山々に植林を続けたそうだ。それらが戦後の材木重要の高まりの際に「一雨100万円」と言うほど成長したと。昭和30年ごろの100万円は今では数倍だ。
植林や炭の製造などしていたが戦前に、結局は北ノ川から樫原(色川)に移転した。植林は鎌倉時代に畿内で始まった。恐らく須川の森林経営は古くからこういう伝統的手法を身に着けていたはずだ。
この時期までは彼の母、とめ(私の祖母)の助けが大きかったのではないか。
色川村で、勃発した太平洋戦争に関して正雄は公の場で「日本は負ける」と発言したそうだ。そのことで物議となり、警察も来るとか来ないとかだったそうだ。(市朗従兄の話)
彼の代は日本の歴史も大きく変化した。軍国主義から戦争そして敗戦。戦後復興の材木需要増大。日本林業の衰退。目まぐるしく変化した。親代わりだった末弟章夫(ゆきお)が出征した。
長男として章夫の出征の準備をした。和歌山のデパートで軍刀や装備品を購入した。
昭和10年1935頃は田辺を発生の地とする「紀州備長炭(びんちょうたん)」の製炭を行っていた。備長炭はうばめがし、樫を材料とするが、橿原は名前にあるよう樫の木が多かったのではないか。特別な技術がいるので人を雇用し、材料、土地、生活条件を与える方式だった。章夫叔父は学生時代、東京江東区の炭問屋に、こぼれた炭の清算金を貰いに行き学費にしたと語っていた。炭は歴史的にもタタラ製鉄などに使われた重要なエネルギー原だったが、統制品となり、売りはぐれがなかった。しかし、市朗従兄は、ある時、雨が続き製品が濡れて正雄も困っていたと語っていた。
第二次大戦 直前、戦争中は山林は氷河期であった。多くの若者が出征し山の中は深刻な人手不足であった。
戦後の正雄
戦後、彼の姿は弘資(ひろすけ)叔父が同志社大学を卒業して、須川洋行を手伝っていた頃、昭和26-28、1950年代初頭、正雄伯父と、共同で山を伐採した時、検品に同行したそうだ。北長には当時、珍しい運転手付きのジープがあり、それに乗車して行ったと。
彼らは親戚ではあったが、顔を合わせたのはこのころだった。
正雄は昭和25年1950,45歳の時、色川村村長になった。村役場に国民服、ゲートルで行っていたそうで、今度はその戦時ファッションを言われてらしいが、着るものがこれしかないと答えたそうだ。
(市朗従兄の話)
戦後まもなく、新宮市池田町7563に3万5000円(市朗従兄の記憶では35万円だが、当時のハイパーインフレの時代・・・昭和20年12月から3年半で物価は100倍になったから分からない、350円だったかも)で二階建てのかなりの家を購入した。僕ら親子は湯川から引っ越しここに住んだ。
父は夜、親類縁者だったろうが患者を診療していた。母が乳鉢で薬を作った。昭和22年12月の南海トラフ大地震が無ければ、そこで父は開業してそのまま僕らも新宮弁になっていたかもしれない。
何しろ4歳の記憶だからおぼろげだが、市朗従兄も色川から来てこの家から旧制中学に通っていた。家の前の急な坂は新宮川の入り江みたいなところ行く。そこから列車の鉄橋が見え、父は尾鷲の保健所長で通っていた。
家の斜め前の山側には正雄の姉 浩江、川村 恒二(本州製紙に勤めていた)の妻、伯母が住んでいた。市朗従兄の目付役だったようだ。
我が家には東京に行っても使いきれないほどのわら半紙(質は良くなかった)があった。ここから来たのであろう。
もう一人の正雄の姉、保栄は岸根 義光(もと近衛兵)と結婚していた。
正雄は新宮に出て、「北長」北の川 長右衛門という材木製材の会社を立ち上げた。昭和40年 1965ころ北長にはランクルがあった。
材木は自分で植林したもので、当時はかなり広い山を幾つも計200町歩、所有していたし、戦後、成長期の重要で事業は栄えていた。
町の真ん中に家を建てた。「鬼が城」とよばれ、三重の観光地を彷彿とさせる、巨岩の石垣があった。
昭和31年1951,のことだ。
栗栖 和夫さんの手記にみる正雄
彼の山林運営作業に関しては、請川で長年山林作業をしていた栗栖
和 (くりす かずお)さんの手記にある。
栗栖さんはこの手記を平成3年1991,12月から平成15年2003、12月まで3通を、小口郵便局長の謙一に送り、それらのコピーを長男の真澄から貰った。栗栖さんは写真の日付などから彼は昭和初期の生まれではないか。記憶内容には彼が伝承した部分もあっただろうが、具体的な記述で情景はよくわかる。
栗栖さんは画像のようにモチノ木の須川家の屋敷の前に、檜の苗を植え、その経過を見てくれた人だ。
彼は書いている。
「須川の旦那が健在の頃は、北ノ川に来て、橿原には知っている家が50軒ほどあるが、この辺りには知っているものが少ない。良く覚えておいてくれと地名、神中谷、北の中谷などあちこちを説明した。」と。
山林業にとっては自分の持山の境界は大きな意味があること。
「須川の旦那がよく話しておりました。モチノ木から、筏で材木を出した。鉄砲堰をつくり、水に載せると、付けたタバコの火が中平までもった速さだったと。」 正雄を現場管理の実務もしていたようだ。
「祭りの時、旦那は餅をまき、山で働く人や炭焼きの家族一同集まった。夜は本家の家で酒盛りをしたと。」これは栗栖さんの前の時代の話か・・野口さんからも同じ話は聞いた。
「モチノ木に学校が無かった時代、(正雄)は中平に出て、寺で山伏とか修験僧に読み書きを習ったと」 半端でない勉強の仕方だ。修験僧は読み書きだけでない、今では学校でも塾でも教えない、何かを教えたのかもしれない。
栗栖さんにいただいた写真、いずれも同じ場所、モチノ木の須川本家の入り口のところだ。右手に石垣と母屋の屋根が見えている。
石垣の大きさも普通でない。木は大体、4-50年しないと商品にならないようだ。
そして彼が亡くなる頃から、高度成長期の日本はおかしなことに日本産の材木需要が減少しだすのだ。
余談だが、
現在、私が山荘のある福島の山で眺めていると、商品化する杉や檜は植林して10年間ほどで数Mの高さ、それから40年間ほどで3-40Mの高さに成長し、伐採できるのではないかと。
しかし昭和40年代、日本の林業は急激に衰退した。
木材の重要が減少したのと、外国産の廉価な木材輸入が盛んになったこと、国や自治体が日本林業の道筋を見つけられなかったことなどが原因だろう。日本の杉、檜、その他堅木の質はとても高いが、良いものだ。その違いが消費者には分からなかったからと、
注文建築が減ったからではないか。住宅は商品化された集合住宅やいわゆる建売が一般的になった。悲しい現実だった。
私は自分の家を新築するにあたり、先祖の地、紀州の材料にこだわった。友人の設計者飯吉 信一さん、建築会社池田専務、長男と4人で紀州に行った。
弘資叔父の手配で、檜、杉など主たる材料は新宮から届いた。
その自宅はすでに築35年になるが檜の床、杉の建具はまだ良い匂いがする。
正雄の家族
竹吉の妻、とめ は色川の大前家の出身だ。
とめのことは私の母は知らない。会っていない。初盆に行っただけだ。
恵美子叔母(章夫叔父の妻、米国生まれ)は叔父が復員するまで、橿原の家にいたが、とめはとても怖い人で、毎日、料理の仕方が悪いと怒られたと言っていた。
とめは橿原が属する色川村の大前家の出身で明治10年1878年生まれ、昭和26年1951、没。享年75歳、気丈なひとだったそうだ。
彼は古座川町松根出身、ヨリ子 大正元年1911生と結婚し4男1女あった。松根はモチノキから山を越えて徒歩2時間くらいの割合近距離だ。ヨリ子は昭和49年1974年没、享年63歳であった。出身の地は、村上 清重の一族の一帯でその末裔であろう。
細面、美人であった。この時代は嫁に来ると言うのは女性の宿命であり、そして今では考えられないほどの苦難があったと言う。特に長男の嫁は・・・この辺りの話も今の日本ではすっかり忘れられているが。
長男は31代長右衛門 市朗だ。
次男、泰次(やすし)彼は私より1年上で日本大学に通っていたころ、章夫叔父の国分寺の家で頻繁にあった。背が高く、穏やかだがユーモア溢れた人で堺の郵便局長になったが若くして亡くなった。
民江は新宮にいる。
次男修二、三男正三はいずれも大阪の南東地区で自営業をしていた。修二は亡くなった。この従弟たちは私の母が良く語っていたので記憶がある。いずれ詳しくは知らないが大勢の子供がいることだろう。
皆近い親戚だ。
色川村
正雄は戦後色川村の村長であった。
色川村は現 那智勝浦町で9つの集落があり、189世帯、327人が住む。恐らく当時は数千人の規模の大きな地域だったらしい。
戦前に色川愛国婦人会がたすき掛けでモチノ木まで、正雄の家の前を通り、恐らく、彼の敗戦発言を非難するためか行進したそうだ。日本軍国主義、津々浦々まで浸透していた。色川はお茶を産す。
現在、小学校1校(那智勝浦町8のうち)中学校1(同4)存在するからそれ相当の地域であろう。章夫叔父、市朗従兄も通った。
だが私自身は自分が関係の深いこの地域に関する知識はあまりなかった。最近までその位置関係すら認識していなかった。意外に開けた地域で、須川 長右衛門家が暮らして来た
北ノ川エリアに比較すると農地が広い、米がとれる、林業にも便利、それに海岸に近いと言うことで、産業は栄えていたのではないか。
南方 熊楠(なみかた くまぐす)の姉はここに嫁ぎ、彼自身もこの辺りを拠点に調査活動をしていた。ただし、正雄がまだモチノ木にいた頃だが。
「色川」名の由来は
妙法山や橿原にも銅山があり、銅鉱を産出していた。鉱石のため、
川の色が変わり「色川」と言う地名になったそうだ。
歴史的には中世、大和 須川 長兵衛家を同じころからの豪族、国人衆の「色川氏」の地であった。色川氏は「平家」であった。文治元年1185、敗れた平家の平維盛(これもり)が源氏の追求を逃れ、勝浦山成島で入水したが、助けられ、山間に匿われた。その子孫が色川氏だとの言い伝えがある。色川一族は新宮、那智、勝浦、太地の水軍となった。秀吉に安堵され、藤堂 高虎の元、水軍5隻をもち文禄の役に参加した。関ヶ原で西側につき、後に、新宮藩、水野家の家老になったと。
色川氏が力のあった16世紀半ばには玉置氏や熊野三山僧兵と同盟していた。以上は色川文書と言う地域の庄屋に伝わる古文書にある記録だ。家紋、揚羽蝶、平家の伝統ある家紋だ。
維盛(これもり)は平 清盛(たいらのきよもり)の孫で正真正銘の平家だ。江戸期に大日本史編纂のために、色川の庄屋の古文書を調べた結果と言うがその後、誰も否定していないそうなので、古座川の清重と同じく全国一般にあるがそれなりの歴史であっただろう。色川地域では、地域の紋として平家の揚羽蝶紋の幟や幕が神社に存在し祭りで出されるそうだ。全国各地にある伝説の維盛でなくても誰か平家の重鎮が逃れてきていた可能性は否定できない。
色川は私にとっても父方の祖母とめ、母方の祖父久彦その兄弟、
そして祖父の義理の兄 岸 達之介の出身地だ。何等かまだ知らないことがあるだろう。
弘資叔父は終戦直後、湯川から自転車で久彦の姉か妹の中口 たみ の農家へ使いに行ったのが唯一の記憶で、米を貰ってきたそうだ。
私が所属していた会社の関西支社に土田 裕康とと言う部長がいた。新宮高校から関西大学卒で、背の高い、手足が長く、南方系の小さい顔だった。仕事で、足を引っ張る関西支社では、珍しい協力者であったが、多分彼は色川の出身だ。あまり語らなかった。
大前家とサッカー
正雄の母、僕の祖母とめは大前家の出身だ。大前の家は、色川の橿原に向かう坂道の両側に二階屋が並ぶ地域にあった。ほとんどが空き家だったが、この家は立派な建物だった。
父豊、叔父章夫は彼らの従兄の子、大前 卓也(たくや)、大前 和也(かずや)と親しくしていた。兄弟はその年には珍しく慶応義塾体躯会蹴球部出身だった。
和也は印刷コーディネーターをしていたが亡くなったとのことだ。鼻筋が市朗従兄に似ていた。彼にはサッカーのカレンダーの仕事、や「日本の火縄銃」の印刷を頼んだことがあった。」
小口の郵便局の須川 謙一の妻も大前家の人だ。
色川は須川 長右衛門家には近しい場所だった。私の父、豊も忘れてはいけない一族として「大前」の名を覚えておけと‥言っていた。
彼らがサッカーを始めた背景は、
日本に初めてサッカーを紹介した中村 覚之助(1878-1909)が天満の出身で、その由縁で、日本サッカー連盟は八咫烏(やたがらす)をシンボルとしている。八咫烏は神武天皇を熊野から大和に案内したとされるものだ。熊野は日本の道だった。
小口郵便局の須川 謙一、長男真澄から貰った経緯は以下のとおりだ。
須川 真澄 令和4年2月14日
「大前家も古い家だと思います。平家落人と聞いたことがありますが、詳しくは分かりません。
元々同じ山林業として須川とは行き来があったのではないでしょうか。
須川家と血縁が出来たのは、須川 竹吉と大前 とめの婚姻が始まりです。
この年代の大前家は、大前 才蔵(おおまえ さいぞう)が長男、とめは長女、4番目の子で、上に兄が二人いたようですが、戦死したようです。サッカーの大前は、末弟の美喜三(みきぞう)の家系です。その長男が大前 靖(じょう)で、慶應でサッカーをしておりました。卒業後、色川へ帰り、製材業や町会議員でした。新宮高校サッカー部監督、サッカー文献翻訳などをしておりました。彼は和歌山県のサッカー界に貢献したようです。その末妹が私の母、三千代です。(大前 靖 の)
長男、卓也(たくや)も慶応でサッカーをしておりました。現、東京大田区在住で80歳過ぎの年齢です。
兄弟は皆サッカーをしておりました。次男 欣也(きんや)は東京農大卒で和歌山県庁に勤めました。
現在、78歳くらいでしょうか。三男 和也(かずや)も慶応でサッカーをしておりましたが、50歳くらいすい臓癌で亡くなりました。貴兄と関係があったのは、この和也だと思います。4男、四郎は東京農大卒と思いますが、教員になり、新宮高校の監督をやり、新宮市在住です。彼らの伯父、大前 圭も東京農大でサッカーをしていたようです。女の子が二人おり、一人は東京在住です。姉は勝浦の水産会社の家に嫁いでおりましたが
一昨年、亡くなりました。肝心の本家は交流がなく、良くわかりません。」
須川 長右衛門家のDNA
に関しての感想を言えば、正雄が昭和17年ころ、30代後半のころ色川村で要職のとき、
「日本はこの戦争に負ける」の一言が私には身近に感じられる。
自分でも言わなければ良かった思うところは沢山あった。
でもずばりと言ってしまうのだ。もし自分を胡麻化して世の中を渡れば、また違うことになっていたかもしれない。でもDNAなのだ。言いたいことは言いたいときに言いそれでよかった。父、豊も章夫 叔父も同じだったし、恐らく市朗従兄も同じだろう。ずっと先祖から継承された人間的習性ではなかったか。
現在の色川は女性と若者に人気の地
移住者の聖地である。
ネットやテレビ番組で頻繁に見る。
現在はかなりの人たちが移転してきて、農業をやり子供を育てているそうだ。市朗従兄もそのような人々の会で昔のことを話いたと言っていた。
おわり
正雄が生きた時代、日本の山林業、第一次産業全体が歴史上ないほどの大転換期だったに違いない。山林は農地解放は出来なかったが、大地主とは言え、産品の価格はもろに需要に影響されるのだ。バッファーはない。現在の政府より徳川幕府のほうがその政策は明確だったのではないか・・農業や山林業は政府が確固たる方針をださねば存続しない。
正雄は久彦に二次産業、製材業のノウハウを聴いたと言うが、大変な時代を生きた。
私の母は、正雄が昭和28年頃、豊、章夫を夫妻で招き、箱根に行ったことを良く話していた。冗談が上手でとても面白かったと。
僕らは彼を「海坊主」、実際は山の男だったが、と呼んでいたが、久彦家のおじたちや章夫叔父のように付き合いはできなかった。
須川 長右衛門家代々継続年数
章夫叔父の資料による
18世紀以降、私の祖父竹吉までの10代の系譜をみると下記のようになる。その代が家主であったと言うこと前提に前代が亡くなり自分が継承し、また自分も死亡して、次が継承する年数が一代だ。
宝永元年1707の大地震後は位牌や記録が残存し各代の名、亡年が明確だからまずは間違いない資料であろう。
21代 長兵衛 享保元年 1716 (長兵衛の前代没年は不明)
22代 長市 宝暦4年1754 38年間
23代 長右衛門 天明7 1789 35年間
24代 長右衛門 享和2年 1802 13年間
25代 長右衛門 文化15年 1808 6年間
26代 長七 嘉永4年1851 43年間
27代 長右衛門 明治10年 1877 26年間
28代 菊次郎 明治41年 1907 30年間
29代 竹吉 大正13年1924 17年間
30代 正雄 昭和53年 1965年 31年間
9代 239年間、一代が約26・6年間になる。徳川時代当初から400年間では15代、大和 須川 長兵衛家が400年間続いていたから、総代数は30代プラスで現在の代数と計算は合う。 以上