昭和20年8月15日
真夏の太陽が照り付ける暑い日であった。
朝、何時もの様に電車を乗り継ぎ、後は歩いて飛行場裏の、勤労動員現場迄行く。一時間程の行程だったと思うが、既に汗で洋服はグショグショ、その儘、朝の点呼が終り、作業開始の合図を待っていたが、なかなか合図なく、半時間も待たされた頃「今日は此の儘解散、連絡の有る迄、明日から自宅で待機する様に」。との事、何か狐に摘ままれた様な気持ちで、それでも休みに成ったと云う嬉しさで浮き浮きと家路に付く。まさか此れが友人やら恩師達との永の別れに成るとは気付かずに。市電で新設町に着いた時、豊兄と出会い一緒に家路につく。
その時、豊兄が「どぅも日本は負けたらしい、昼には無条件降伏の放送がある筈」との事。家に帰り12時を待ち兼ねラジオに齧り付いたが、ガーガーと言う雑音ばかりで殆ど聴き取る事が出来なかった。
それでも無条件降伏の敗戦には変わり無く、特に新設町は近くが朝鮮人部落の為、その日から不穏な空気に包まれ、「実質的家長であった母の決断は早く」、その日の内に内地への引き揚げが決まった。
先ず家財道具の荷造りが始まり、牛車を雇い何台も発送したが、結局宛て先の湯川に着いたのは最後に出した2個だけであった。後で聞いた話しだが、釜山で暴徒に因る奪略に遭ったとの事、お陰で引き揚げてからは、着のみ着の儘の生活と成る。
敗戦の日、町の方で飛行機が墜落したとの噂が流れて来た。早速荷造り作業をほったらかし、自転車で見に行く。家から40分ほど行った本町の映画館が火事に成り自警団に依る消火活動で大方鎮火していたが、焼け残った翼の日の丸が強烈な印象として今でも瞼に焼き付いている。京城の空の守りに付いていた、血の気の多い飛行士に依る自爆だったらしい。
もう、その頃になると、町には日の丸を塗り潰し拵えた、急造の韓国旗を打ち振り乍ら「マンセー・マンセー」(万歳・万歳)と叫び乍らの朝鮮人が町に溢れ、我々日本人は電車バスにも乗せて貰えず、昨日迄の地位は完全に逆転しており、蓬々の体で逃げ帰った。それ以来19日の引き揚げ迄一歩も町に出る事は出来なかった。二日目・三日目と荷造り→発送に追われたが、荷物の中に金属の物を入れると途中で金属探知機、様のもので調べられ、中を開けられるとの事、結局大事にしていた、電気機関車・空気銃、それに日本刀等、置いて行く事に成った。
日本刀は予てより、一度、実際に物を切って見たかったので、此れ幸いと裏山に持って行き、歯がボロボロに成る迄木を切り倒し、土に叩き込み全部処分した。
空気銃と電気機関車はクラスで只一人の朝鮮人だった李屋君に電話を掛け、取りに来て貰い、別れの記念として受け取って貰った。
荷造り、発送の傍ら、持って帰れない家具類を、買いに来た善意の朝鮮人に売った様だが、果たして幾らに売れたものやら。
久、宮崎 昇を除き家族全員京城にもどる
その頃に成ると、城津(北朝鮮)から最後の列車に乗って父・芳子姉・輝一、宮地さん(家の良き時代、軍の物資をオート三輪で運んでくれた兵隊さんで、除隊後須川洋行に勤めていた)の奥さんと女の子が、引き揚げて来る。
又、昇兄に付いて咸興(北朝鮮)に行っていた喜美子姉も、当時乳飲み子だった敬久も連れ、此れも最後の軍用列車とかで、間一髪帰ってきた。夫々最後の列車に乗れなかったら輝一も敬久も、今頃は北朝鮮孤児と成っていた事だろう。

今迄、割と静かだった新設町の家も、急に賑やかに成ったが、まわりの治安は益々悪く成って行く様だった。
未だ城津に残っていた久兄(現地招集で憲兵隊にいた)。咸興より北の方に転進したと云う昇兄(戦後ソ連の捕虜となりシベリア抑留、昭和25年頃復員)達の消息が解らなかったが、ともかく女子供を一刻も早く、引き揚げさせねば、と云う事と成り、私の他、お腹の大きかった芳子姉が輝一の手を曳き、節子姉は、長男の薫雄が消化不良で調子が悪い為、残る事となり、次男の恒次(此れも・とびひ・とかで調子は良く無かったが)丈をおんぶし、私は大きなリュックを背負い水筒を下げ、それに宮地さんの奥さん親子と合計7人での引き揚げ第一陣となった。

その時、ヤットの事で京城迄辿り着いていた喜美子姉は、重い発疹チブスに掛り、高熱の為、敬久共々残る事と成った。
引き揚げに際し、途中はぐれ、別れ別れに成る心配から、だったのか、各自多額の現金を渡された。金額は覚えて無いが、今迄見た事も無い程のお金であった。それを各自、腹に巻き持ち帰ったが。節子姉など、途中、汗疹に成り、湯川に辿り着いた頃にはおなかの皮が「かぶれ」大変な目に逢ったとの事。
京城から釜山に 8月19日
8月19日の昼頃だったと思うが、北鮮ではソ連軍が南下中との情報も有り、追われる様にして、生れ育った京城を後にする。駅まで歩いて一時間程の道を、勿論、電車にも乗せて貰えず、豊兄の見送りのもと、歩いての ”引き揚げ“ となった。
その時、新設町停留所前の交番に、龍中の担任だった三浦先生にそっくりな巡査が立っていたが、まさかと思い、確かめる事無く引き揚げて来たが、戦後平成五年の冬、三浦先生が東京で健在だと聞き、当時の同級生だった田所君と尋ねて行き、その時、確かめた所、やはり三浦先生であった。先生の話しでは、敗戦と同時に治安維持の為、軍経験者の先生方は警察に徴用されたとの事だった。
我々引き揚げの時点では、未だ米軍は進駐して来ておらず、京城駅初め町のあちこちに土嚢を積んで、日本の兵隊が守っていたが、その前を例の韓国旗を掲げた群衆が我が物顔に行進し、往年の帝国陸軍の威厳は無かった。
駅で豊兄より朝鮮総督府発行の「引き揚げ証明書」を各自渡され、無賃で汽車に乗る事が出来た。列車は止まり止まりし乍らも翌日には無事釜山に到着。 その儘駅前の名前は忘れたが日本人経営の旅館に泊まる。

釜山から50km、島の内部で50km移動して玄海灘の航海は130km
天候に恵まれていたのだろう。
当時釜山は38度線より遠く離れていた故か、京城の様な緊迫感も無く、未だ日本人経営の旅館とか他の商店も店を開いていた。私の嵌めていた腕時計(母に買って貰ったスイス製エルジン)が京城を離れた頃より動かなく成っていたので、早速修理の為町に出てみた。幸い旅館の近所で時計屋を見付け、明後日迄に修理を頼み、序に町をウロウロしていた所、船着き場の近くの倉庫に、沢山の日本人が、何時来るとも解らない「引き揚げ船」を待っている様子だった。北鮮から国境を越え命からがら脱出して来た人も居たのであろう、皆さん着のみ着の儘、持てる丈の荷物を持ち、地べたで寝泊まりしている様子だった。それに引き換えヌクヌクと旅館に泊まれる我々は何と幸せなのか、チョット悪い様な気がし乍ら旅館に帰る。
その頃釜山にも未だ米軍は進駐していなかったが、米軍からの停船命令が出ており、折角、蓬々の体で南下して来た我々も、そこで足留めを食らって仕舞った。
旅館に居たのでは何の情報も得られず、何時停船命令が解除になり引き揚げ船に乗れるものやら。……そこで情報収集の為、宮地さん親子が、他の引き揚げ者と行動を共にする事となり、翌日よりそちらに合流する。
私が町をウロウロしている間に、姉達は旅館で偶然出会ったとかで、芳子姉の実家(元山の大村)に勤めていた平手さんと云ぅ方が見えていた。平手さんは応召で海軍に入り他の戦友達と引き揚げの途中とか。以後、女子供達丈の我々に執って内地迄の力強い道連れと成る。
その翌晩、(8月20日)真夜中だったと思うが、突然その平手さんが見え、「闇船が手配出来、海軍の連中がそれに乗って行くが一緒にどうですか」との事。我々も何時、出るとも解らない引き揚げ船を待っているよりは(渡りに船)とばかり同行する事にした。船は直ぐ出港するので、と急がされ、宮地さん親子に連絡する時間も無く、大事な腕時計を取りに行く暇もなく、旅館を出、平手さんの案内で船着き場に急いだ。
船着き場には、密航船の為、電灯一つ付いてない、まるで幽霊船の様な90トンの貨物船が横付けされており、既に海軍の兵隊達は乗船していた。
我々も恐る恐る板梯子を登り、梯子を伝って船内に入る。船内と云っても貨物船故船底型に成っており、板子一枚下はすぐ海であった。
船は我々が乗ると直ぐ出港したが、勿論ドラを鳴らす事も無く、電灯も付け無い、寂しい出港であった。
真夜中に起こされた故か、永年住み慣れた朝鮮を離れると云ぅ感傷も無く、兵隊達の停船命令が出ているので米軍に見付かったら撃沈されるのでは」と言う話し声を他人事の様に聞き乍ら寝入って仕舞う。
平手さんは芳子伯母の実家、大村の番頭だった人だと言うことで、偶然に出会ったのか、誰かが依頼したのか、博多に到着するまでの用心棒だったようだ。
対馬に漂着 8月21日

翌朝、皆のざわめきで目を覚ます。
何事かと甲板に出て見ると、島の近くで船が座礁し斜めに傾いており、自力での脱出は到底、無理な状態との事。
不幸中の幸いか、岩に乗り上げているので沈没は無いとの事、ひとまず安心する。対岸の島は、対馬の北の端とかで、私には初めての日本・本土であった。それから半日位その儘の状態で、船員達と兵隊達で善後策を相談している様だった。手持ち無沙汰な私は船縁に掴まり船に打ち寄せて来る波を眺めていたが、その内、気分が悪くなり、その儘、昨夜来食べた物を全部海に吐いて仕舞った。
その時、端にいた水兵さんが「海軍では船酔いして吐いた時には、その儘、帽子で受け、それをもう一度飲んで仕舞うと二度と船酔いしないから、そうしてみろ。」と親切に教えてくれたが、残念乍ら、吐いて終った後で、もう唾も出なかった。

弘資叔父は最初に陸地に渡り、光景をローライコードで撮影していた。
この難破は、当時の情勢、機雷が多く浮遊していたことから考えるとラッキーだった。
座礁した海岸の海は透明で、岩の間にサザエやら魚類が、取りに来る人も無いのか、沢山見えていた。その内、対岸迄泳いでロープを渡しに行った兵隊さんが、帰りに潜っては取っていた。昼過ぎに成り、対岸迄のロープが固定され、船からの脱出が始まった。
ロープに滑車を付け、一人ずつぶら下って降りるのだが、兵隊さんが先に見本を示し、私が先に降り、輝一・恒次は兵隊さんが、腹の大きい芳子姉・腹に金を巻き、此れも腹の膨れた節子姉と、次々と事故無く降りて来た。
その二度と見られない光景を、済兄の遺品のローライコードで一部始終写したのだが、残念な事に、それから10日もしない内、大阪迄の列車の中でフイルム共盗まれて仕舞った。今と成っては貴重な記録で有ったのに。
無事全員が上陸し、岩だらけの海岸にて小休止する。その時、名前は知らないが、海軍の将校に缶詰の練乳とビスケットを貰って皆で分けて食べたが、吐いて終い、腹ペコだった私にはこの世のモノとも思はれ無い程美味しかった。
対馬 志多留の農家に世話になる
8月20日―27日
暫くすると、人跡未踏の僻地と思い込んでいた我々の前に、何処から来たのか島の人が現れ、我々を村迄案内してくれる事に成った。道無き道を掻き分け山の尾根つたいに随分歩いて、ヤット海岸近くの小さな村に辿り着き、そこでお世話に成る事となった。皆何人かに分かれ、夫々農家にお世話に成ったが、他の兵隊さんやら船員達は、平手さんともう一人を残し、間も無く何処かへ移動して行った様だ。村は「ひたる」と云ぅ名前だったが、今思うと10軒か20軒位の小さな農村で、我々5人がお世話に成った家は、名前は忘れたが、夫婦と、小学校の先生をしていると云ぅ娘さん、それに予科練から復員して来たばかり、と言う息子の四人暮らしで、母屋に住んでおり、我々は別棟の上等な部屋を空けてくれたが、私達にはどうしても、牛小屋か馬小屋位にしか思われなかった。(志多留と言う村)

そこで約一週間、お世話に成る事と成ったが、毎日する事も無く、海岸に行って戦時中、敵の機銃掃射でやられ、沖に擱座した儘に成っていた輸送船まで泳いでいったり、近所の山に登ってみたりの、気儘な生活を送っていた。
その頃の姉達は、毎日母屋の炊事の手伝いをしている様だったが、おやつに初めて食べた芋団子やら芋粥などが、今と成っては懐かしい味として残っている。
8月27日だったと思うが、いよいよ「ひたる」村を出て、厳原迄行く事になる。山道を越え小さな漁村迄の間、お世話に成った家のご主人の牛車に乗せて貰い送って貰う。そこの船着き場でお別れしたのだが、長い間嫌な顔もせず良く置いてくれたものだと今でも感謝している。機会が有ったらもう一度、お礼に行きたかったが……。
そこの漁村からは小さな漁船に乗り、厳原迄二・三時間だったであろうか、船着き場前の旅館に泊まった。そこの旅館では難破した時、ビスケットをご馳走になった海軍将校と再会したが、その後どうされたのか記憶に残って無い。
ここ対馬にも、未だ米軍の進駐は無く海軍の船舶部隊(あかつき部隊)が健在だった。厳原では二日間程の滞在だったと思うが、その間、する事も無く、只町を歩き回ったと記憶している。

此処でも、それ迄行動を共にして来た平手さんが見付けて来たと思うが、朝鮮人の闇船を雇い、いよいよ日本・本土へ渡る事に成った。船賃は当時としては法外でたしか一人70円位だったと記憶している。それでも日本に着いてから、平手さんが交渉し、多少は値切った筈。
今度は小さな「6トン」のポンポン船で、船縁から足を出し波で冷やし乍らの航海だった。途中暑さの為か恒次がぐずり出し、かわいそうに成り、脇を抱え海に漬けてやったが、何を勘違いしたのか、節子姉が本気に成って怒っていた。

およそ合計100万円くらいか・・ここで恒次が海に落ちらたらもとも子もない。
この航海も130km、6トンの小舟ではよほど天候に恵まれたラッキーな
ものだったにちがいない。7-8時間かかったのではないか。
今考えて見ると、若し手が滑ったら一巻の終りだったかも?
何んだ、かんだ有り乍ら、壱岐の島を横に見乍ら無事、博多に着く事が出来た。
博多から湯川へ 8月31日
此処で色々とお世話に成った平手さんたちとも別れ、駅迄歩いて行ったが、先ず驚かされたのは電車の運転手が日本人だった事、我々の常識ではそう云う仕事は朝鮮人の仕事としか考えていなかったのだ。街も一面の焼け野原と成っており、それと初めて見る米兵に、日本は本当に負けたのだと云う実感が沸いて来た。
その晩は駅の近くの旅館に泊まったが、さすが疲れていたのか、夜中に何か話し声が聞こえた様な気がし乍ら、その儘朝迄ぐっすりと寝込んで仕舞った。
後で聞くと、旅館に着いて直ぐ、節子姉が恒次をおぶって、博多に住んでおられると云う豊兄の恩師の所迄、挨拶に行って来たとの事。それから直ぐ息子さんが(おにぎり)を握って持って来てくれたとの事で、夜中の話し声はそれだったらしい。お陰でそれ迄、暑さで糸の引いて来た、(おにぎり)ばかり口にしていた我々だったが、久し振りに美味しい(おにぎり)に有り付く事が出来た。
翌日、(8月30日)満員列車に乗り大阪に向かったが、まず気が付いたのは列車の狭かった事、朝鮮での広軌と内地の狭軌の違いか。
途中原爆を落とされたと云う広島で長い間停車していたが、当時の列車は窓のガラスは無く、代わりに板を打ち付けており、板の隙間から垣間見る程度だったが、何も無く、それこそ一面の焼け野原だった。

車内も超満員で姉達は夫々子供を抱いて座る事が出来たが、私は立った儘身動きも出来ず、洗面所に余所の荷物と一緒に積み上げて来たリュックが気に成り乍ら、確かめに行く事も出来ず、何とか大阪に着く事が出来た。
そこから城東線で天王寺に行き、阪和線に乗りかえ東和歌山に着く。それから紀勢線に乗るのだが、なかなか列車が来ず三時間位待ったと思う。
当時の和歌山も戦災に遭った様で、駅のホームから今の丸正百貨店の残骸を眺める事が出来た。
列車を待っている間、気に成っていたリュックを開けて見た所、大事に閉まっていた筈のローライコードが無くなっているのに気付いたが、後の祭りだった。
リュックを身から離した大阪迄の間の出来事に違い無い。
やっと来た列車には、皆無事座る事が出来、六時間程掛りヤットのこと最終目的地の湯川に着いた。
駅から「喜代門」に電話を掛けると、突然の事でびっくりした様だったが、千里・叔父がすぐリヤカーを曳いて駅迄迎えに来てくれ、歩いて「喜代門」の客室に落ち着く事が出来た。昭和20年9月2日の事だった。
おわりに 昭和20年9月2日
以上の様に、全員湯川迄辿り着く事が出来たが、今から振り返って見ると、良くも無事帰れたものだと思う。
現在では大阪から僅か一時間ちょっとで行けるソウルから、「半月」掛かっての逃避行だったが、これも途中での皆さん方の親切のお陰だと今でも感謝している。
又若し、帰る当ての無い引き揚げだったら、そこらの闇市からの出直しだったかも知れない我々だが、両親が(そこまでは考えてはいなかったとは思うが)、湯川に大きな旅館のあとと沢山の田圃を買ってくれていたお陰で、後にバラバラに引き揚げて来た家族たちの絶好の、目的地となり、一人も欠ける事無く帰れ、その年より食う為の百姓が出来たのは一重に父母のお陰である。
(この文は弘資が脳梗塞で倒れリハビリ中にワープロで書いたものを次女が打ち直した)
(この一行が一番苦労の連続だったようだ。現金を腹に巻いてきたと言うが実質的に現在でも一人が携帯できるのは現在の紙幣で3000万円くらいと言う。節子は妊婦に化けて腹に、荷物や赤ん坊の荷物に紛れ込ませて、総額数千万くらいのものか・・節子、芳子は23歳、今なら入社一年目くらいの小娘クラスだ。良くぞこの旅を乗り切ったものだ、が感想だ。なお彼女は後々まで宮地さん親子に連絡しないまま釜山を離れたことを悔やんでいたが、宮地さん親子も無事に紀州に来て、娘さんは市朗従兄の話によると新宮の商家に嫁ぎ長く暮らしていたそうだ。)
岸の兄より聞いた引き揚げ ”時“ の話
(平成8年1996、2月18日聴取)

戦後、皆がどんどん引き揚げていく中、歯科医の兄は近所の朝鮮人より慕われ、「是非、残って歯科医を続けて欲しい」と頼まれ、本人も多分に、その気に成っていたらしい。然し情勢は益々悪く成る一方で、須川の父(家や財産の事で追っかけられ李サバンの家に匿われていた)の居所を教えろと、」あちこちより責められ。 又義父、達之介さんの知り合いだった「金・九」と云う人(朝鮮に傀儡政権を作るべく北鮮より来ていた政治家…後に暗殺された)にも、“朝鮮ではもう一度、大きな戦争が始まるので、是非日本に帰った方が良い” と勧められ、やっと帰る気に成ったとの事。
従って引き揚げて来たのは、我々の兄弟の内では一番遅く、先に須川の父と共に、妻(あい姉さん)と女の子二人(美江・泰江)を帰し、自分は11月に入ってから、男の子二人(達也・幹二)に夫々小さいリュックを背負わせ、持てるだけの荷物を背負い、年老いた義父(達之介叔父)を連れての逃避行だったらしい。
引き揚げの直前に、当時城津(北朝鮮)より命からがら、歩いて逃げて来た、久兄より、内地への送金小切手を預かった。 追われていた久兄は小切手を預けたまま、先に引き揚げた為、石鹸をくりぬき、その中に隠し、自分が持って帰る事と成る。
一緒に帰って来たのは、親子三人と、親戚の生駒春介叔父(引き揚げ後、木本で製材工場を経営、その後、旅館“楓”経営)、と桜井の祖父さん(孝太郎さんの父親で当時は大分ボケかかっていた)、とであった。
釜山にて、引き揚げ船を待っている間、春介叔父が便所に行くのに、全財産の入った鞄を、桜井の祖父さんに預けた(積もり)で出掛け、帰って見ると鞄が無くなっており、祖父さんも知らぬとの事。……置引にあったらしい。
そこで荷物の無くなった春介叔父は、腹立ち紛れからだったのか、皆にも、要らぬ荷物を捨てて身軽に成れと、達也・幹二のリュックを海に放り込んで終った。
そこで同じ捨てるなら、北鮮より着のみ着の儘逃げて来た人達に、荷物を分けてあげた方がと思い、その人達に半分わけてやり、身軽に成って無事引き揚げて来たが、その時、例の送金小切手入りの石鹸の入った荷物も何処の誰とも解らぬ人に、間違ってあげて終ったらしい。
その時、気が付かなかったが、子供達のリュックには、途中調べられまいと、現金を隠して持たせていたが、後の祭りだったとの事。
岸の兄も身軽になり、身の回りの物と、釣竿、だけ(中をくりぬいて現金を隠していた)を持ち、達之介義父は結局、筆と硯とインキ壺丈を提げて、勝浦に辿り着いたとの事。
“その後大分経ってから、四国の学校の先生とか云う方より手紙を戴き、……釜山で戴いた石鹸を使っていた所、石鹸が割れ、その中から小切手が出て来たから……と,無事返って来たとの事。”
以上の様に、大変な目に逢い乍らも、何とか勝浦に帰り着き。暫くは「貴司の湯」の風呂場跡に」畳を挽き、住まわして貰い、病院再開迄の間、食う為に塩焚きと、魚釣りに明け暮れたとの事。(以上)
久兄より聞いた北朝鮮から脱出の話
(平成8年1996、2月20日聴取)

8月15日敗戦の時、城津(北朝鮮)の憲兵隊にいた。
当時北の方から侵入して来たソ連軍の捕虜に成った場合、憲兵と警察は皆銃殺されるとの事、やむなく脱出を決意する。
一旦、父や家族の引き揚げた後の家(城津の製材工場)に寄って、後片付けを済ませ、未だ残っていた職員(日高・中さん)二人と、引き揚げの準備をしていた所、突然表より「須川の息子がおる筈だ」と保安隊(朝鮮人)が入って来た。
捕まっては最後と間一髪、裏から一人で逃げ出し、その儘、着のみ着の儘で、京城に向かい歩き出す。
途中、日の有る内は山に隠れ、夜に成ったら歩き出し、畑の物を「盗み食い」し乍らの逃避行だったとの事。
元山に着く直前に保安隊に見付かり、動いている貨車の下をくぐりぬけ、命からがら逃げ回ったが、遂に捕まり、又北に向かって貨車で護送された。
この儘では命は無いと、一緒に捕まっていた日本人の方と、走っている貨車から飛び下り逃げようと相談、直ちに決行したが、自分は丁度、草むらに落ち助かったが、もう一人の方は、土の上に叩き付けられ、亡くなったとの事。
一人になった久兄は、又夜中のみ歩き続け、やっと元山(北鮮)の大村(芳子姉の実家)に辿り着き、元山では城津で別れた儘に成っていた日高さんに再会し、以後二人で南鮮への脱出行と成った。(日高さんと一緒だった中さんとは、途中ではぐれたが、後に京城に辿り着いた時には、既に逃げ着いていたとの事。)
元山から国境の38度線迄、ソ連軍の警戒が厳しく、これも夜中だけの行動だったが、途中川を泳いで渡り、無事38度線を突破する事が出来た。
南鮮に渡ると米軍が進駐しており、そこからは列車に乗せて貰い無事、京城に着く事が出来たが、思えば城津から京城まで、一か月掛かっての逃避行だったとの事。(以上)
以上の話に加え、須川 久彦家は祖母とせ、宮崎の叔母、中村 正男、薫雄、敬久の一行(9月中旬に湯川到着)、豊、久、久彦の個別の旅が続き、
大変な難民旅行であった様子だ。この難民の記憶は孫子の代にまで語り継がれなければならない。