龍山中学に入学
昭和18年、当時、朝鮮半島では京城中学と双壁と言われた名門校、龍山中学に2倍半の難関を突破して合格する事が出来た。
京城中学は、京城帝国大学予科への登竜門であり、それに比べ龍山中学は、スパルタ式の学校で陸軍士官学校・海軍兵学校それに中学2年生から受験出来た陸軍幼年学校への進学校として名高かった。
両校とも各小学校(当時は国民学校と云った)から成績優秀な者しか受験出来ず、なかなかの難関で有ったが、無事合格出来たのは、一家挙げての協力のお陰が有ったからで、決して自分だけの力では無かったと思う。まず小学校5年生の頃より、学校から帰ると(名前は忘れたが京城帝大の学生)が待っており、夜の9時頃迄、夕食もそこそこに終え、みっちりと絞られ、やっと解放されると、今度は豊兄か節子姉が部屋に来て、その日のテストの反省とか、翌日の予習やら、毎晩11時頃迄、頭の冴えてない時など、夜中の12時を過ぎることはしばしばであった。
龍山中学に的を絞ったのは、岸の竜太郎・それに当時陸軍航空部隊で華やかに戦っていた済兄が共に龍中出身と云う事もあったが、陸士か幼年学校に行き、どうしても飛行機乗りに成りたかった一心からである。
燃ゆる大空(実写編)
当時通っていた小学校(京城師範付属第一国民学校)から8人程受けたが、合格したのは私の他、讃井・梅沢・神田の4人だった。
龍山中学での生活
晴れて入学出来、戦闘帽・戦闘服・ゲートルに身を固め背嚢を背負って登校した。校門には上級生の門衛が5人位銃剣を持って立っており、その前を歩調を取って「頭右」の敬礼をしながら入って行くのだが、此れがなかなか煩く、敬礼の仕方が悪いの、ゲートルの端が真横に来ていないとか、慣れるまで大変だった。


遅刻でもしようものなら、一時限が終わる迄校門の横で立たされ、教室に入ってからは、今度は先生に殴られるし、お陰で二度と遅刻はしなくなった。
入学時の校長は河野宗一先生で、入学の挨拶で≪何事にも熱鐵呑下の精神で≫とハッパを掛けられる。以後校長とは云はず「熱鐵呑下」との渾名が付く。
一事が万事、軍隊式の校風だった故か生徒も先生も気性が荒く、殴らなかった先生は校長位だった様に思う。
生徒も、特に新入生の頃は各出身校同士の勢力争いがあり、入学者の一番多かった龍山小学校出の連中から付属出身者は生意気だと因縁を付けられ、決闘を申し込まれた。夫々一番小さい者が代表で戦う事となり。龍山小は細川君が代表、付属からは私が代表となり、当時の白砂道場(今で云う砂場)での決闘と成った。

立ち会い人は龍小出身者から三人、付属からは讃井君の予定だったが時間に成っても現れず、止む無く一人丈での戦いに成ったが、先方も意外にフェアで、立ち会い人は「立ち会い人」に徹し、細川君とは心行くまで殴り合い、お互いに顔は腫れあがり服もボロボロに成る迄戦って帰ったのを、今と成っては懐かしい思い出としてのこっている。その細川君とは平成五年、龍中の同期会が韓国で催され50年振りに再会する事が出来、思い出の白砂道場跡で二人で記念写真を撮り、決闘の決着は、ゴルフで付け様と云う事に成り、平成六年五月三十日京都にて「立ち会い人」付きのゴルフコンペが計画されたが、残念な事に前の晩、私が脳梗塞で倒れて仕舞い、そのまま延期となっているが、今と成っては無理な様である。それ以後も、彼とは親しくお付き合いをさせて貰っているが、私が病気に成ってからは、わざわざ新宮迄、奥さん同伴で見舞いに来られ、その誠意には全く頭の下がる思いである。
龍中に入学してからは、まともに教室で勉強できたのは一年生の時丈で、後は勤労動員の毎日で、疎開家屋の取り壊しから始まり、二年生から三年生の夏、終戦迄の間、防空壕掘り、海軍施設での板干し、瓦の運搬、飛行場での掩対壕(えんたいごう)作りにと汗を流し、殆ど学校に行く事は無くなって仕舞った。
その間に校舎は支那本土より撤退して来た陸軍航空部隊(戦後解ったのだが、奇しくも19年に戦死した済兄の部隊だった)に接収され、京城中学と同居する事になり、一日中引っ越しの手伝いに駆り出された。
その時が校舎とのお別れとなり、終戦時、学校に集まり校旗を焼いて廃校式を執り行った様だが、終戦後は日本人と云う丈で電車にも乗せて貰えず。自転車で行くにも危ないからと家族に止められ、とうとう廃校式には出る事が出来なかった。
勤労動員では毎日が肉体労働で、暇が出来ると教練と、自給自足にとの畑の開墾にと追い回された。当時クラスは六人づつの小隊に分けられ、私は勿論一番小さい組に属していたが、ある日、教練の時間、鉄砲が足りないので小さい組は畑の豆蒔きに行ってこいと、クワと種を渡され、不承不承乍ら一時間程の道程を引率の先生無しで、何とか豆を撒き、無事帰って来たが。それには大変な後日談があった。暫くして今度は全員で畑に行った時の事、先生が何時に無く恐ろしい顔付きで我々チビ組の側に現れ、往復ビンタの洗礼を受けた。初めは何の事か解らずひっくり返るのを堪えるのが精一杯だったが、一段落して先日植えた野菜を植え変える様にとの命令でハット気が付いた。先日種蒔きに来た時は、皆気がムシャクシャしており面白半分に一箇所だけ、何と書いたか忘れたが先生の渾名を書き、そこに種を蒔き土を被せて帰って来たのが、見事に芽を出し立派に育っていた。その日は意気消沈し、トボトボと帰路に付いたが、今に成ると忘れられない、楽しかった思い出の一つに成った。
その後の龍山中学同窓生
平成五年六月に母校訪問の同期会が催され、私も節子姉同伴で参加する。
総勢40人程で現地からの参加者3人で結構盛大な同期会に成った。
現地では現在の学校長が自ら親しく校内を案内して頂いたが、懐かしい校舎はそのまま使われており、さすがに、白砂道場は無くなっていたが、皆はその時だけは少年時代に帰り、楽しい一日を過ごす事が出来た。名称もそのまま龍山高校(ヨンサム高校)と言い、やはりソウルでは一・二を争う進学校との事だった。
只我々と同年配位で、日本語教育を受けた筈の校長が、懇親会で韓国語で挨拶をしたのには皆何を言っているのか分からず、同級生だった海東君の通訳で事無きを得た。当時日本人学校とは云へ、各クラスに一人づつ韓国人が入っていたが、夫々が家柄の良い優秀な生徒ばかりであった。
♦通訳をしてくれた李種浩(旧姓海東)君は元海軍中将で韓国第一艦隊司令長官 だったとの事。退役後は我々の泊まったホテル「ラマダルネッサンス」社長。
♦又三年生の時一緒だった李栄吉(旧姓李屋)君は李王家の一族でソルボンヌ大学を出て、現在、仁萪大学の海洋学教授。 〔彼には引き揚げ時にお別れの記念にとドイツ製の電気機関車と空気銃を貰って貰う〕
♦趙成圭(旧姓小月)君は延世大学英文学教授の現職で、65歳の定年後には同志社大学の客員教授として京都に移り住むとの事。
♦李撥龍(旧姓清原)君も元・李王家の一族で、現在悠々自適の毎日を送り、同期会で節子姉と行った時には、新設町の家跡とか夜の繁華街の案内をしてくれた。もう一人日本名「張間」君云ぅ男がいたが、朝鮮動乱の時、北に連行され、そのまま行方不明との事。戦争の傷跡をまざまざと見せ付けられた思いで有った。
京城の実家での生活
当時住んでいた新設町の家は昭和13年、新築で屋敷が3千坪、建坪は200坪あったと思う。全館スチームが入っており、そのボイラー室は地下に有り、ボイラー炊きの為、チョンガー(韓国人の少年)が住込みで雇われていた。
その他、日本人の女中さん一人にキチベー(韓国人の娘)が一人か二人位、それに庭の世話係りとして金さん(日本名・金山)と云う40がらみの男一家を、屋敷の中に家を建て住まわしていた。

2階建ての家で、二階には豊兄の部屋そして私のベット付きの洋間・それに客室。
一階は表玄関・裏玄関・台所用入り口と、あり、表玄関横に応接間・サンルームを挟んで客間(たまに城津 “北朝鮮に在った製材工場” から帰ってくる父用の部屋)、廊下を挟んで女中部屋と物置、家の中心で一番大きな部屋が母の部屋、奥に節子姉の部屋、隣に喜美子姉の部屋、それに食堂と台所・風呂場と便所・キチベー用のオンドルの部屋・その地下がボイラー室と成っていた。便所は二箇所になっていたが、当時は落とし込みの為、真冬になると大便が凍り、上に支えて来るので時々金槌で砕いていたが、今では考えられない思い出となった。
家財道具も当時としては珍しかったのだろぅが、外国製の電気掃除機・電気冷蔵庫・電気蓄音機が揃っており結構贅沢な暮らしだった。
家は山の中腹に在り、下の方には16軒の借家が並び、その他にも大分借家を持っていた様で、集金日には母のタンスには札束が積まれており、少し位頂いても解らなかったと思う。


又家には日本刀が六・七振有り、中には「左文字」とか「兼定」等、名刀が数本有ったが管理は当時中学生だった私に任されていた。済兄と昇兄が戦地に行く時に、良い刀から持って出たが、未だ終戦の時点で5振は残っていた。戦後周りが朝鮮人部落の為、治安が悪いので処分する事となり、裏山に行き、心行くまで木を切り、歯をボロボロにして土の中に叩き込み処分したが、今では苦い思い出の一つである。済兄が出征し喜美子姉も、北朝鮮に移動した昇兄に付いて行った為、皆が残して行った、写真機やら空気銃が皆私の物となった。空気銃は3丁あったが、鉛の弾が手に入らず。岸の兄に頼み込み、手作りの鉛弾を作って貰い、借家の屋根に群がるハトを何羽殺した事だろうか?
写真機はドイツ製の「バルダック」一台と、国産の「ベビーパール」が何故か二台あり、部屋に飾っては時々下手な写真を写して楽しんでいた。
写真機は此の他、済兄がドイツ製二眼レフ「ローライコード」を持っており、三越で父から買って貰ったのだが、当時家が一軒買える値段だったとの事。
買って貰う時、三越迄一緒に付いて行ったが、ショーウインドーの一番上に一ッだけ飾っていたのが印象に残っている。その時父に「僕も電気機関車が欲しい」とねだったが返事して貰えず、諦めていたが、翌日三越からその電気機関車が届き、天にも上る気持ちであった。今更乍ら父親に感謝。

写真をデジタル処理したら顔の表情が鮮明になった。
濟はおよそ3年間、戦場で幾多の死をみてきたのだろ、戦局も分かっていたのだろう、覚悟は出来ていた。家族は1年後の敗戦、何かしらの緊張感を抱いた様子であった。
そのローライコードだが、昭和19年済兄が戦死の二・三ヶ月前、内地に連絡に行った帰りとかで、戦闘機で飛来、一泊して行ったが。その時「戦地では勿体ないのでお前に預けて置くから」とローライコードを渡され、代わりにベビーパールを渡す。その時空襲で愛機を焼かれた時に一緒に燃やされたとかで、黒焦げに成った日本刀に鞘代わりに青い布を巻き付け腰に吊っていたが、それの代りにと「兼定」を持って行って貰う。この「兼定」は戦後、他の遺品と共に無事帰り、現在薫雄が大事に保管している。但し立派過ぎて戦場には持って行かなかったと云う「左文字」は遂に行方不明のままに成って終った。現在有れば国宝級の一品だった筈。
ローライコードも、それから三ヶ月もしない内に、済兄戦死の知らせが入った為、大事な遺品として、戦後引き揚げの際、リュックに背負って帰ったのだが、内地に着いて、大阪迄の引き揚げ列車の中で心ないドロボーに取られて終った。それ以来50年間、気には成っていたが、平成四年六月に豊兄達とドイツに旅行した際、ヤット同型のローライコードを見付けることが出来、今も兄の形見として大事に保管している。

以上の様に今と成っては考えられぬような贅沢をさせて貰い乍らの少年期を過ごし、物資不足の配給の時代に関わらず、当時関東軍の主計将校だった昇兄のお陰で軍のオート三輪で米・味噌の類から、軍用の羊羹に至る迄運び込まれ、何不自由ない生活で有った。
それに屋敷の山頂には軍の高射砲(探照灯)陣地があり、毎晩そこの兵隊さんを招待し、風呂に入れたり、ご馳走したりしていたが、今考えて見ると屋敷の下が朝鮮人の部落だったので、治安維持の為の母の打った布石だったのかも?
突然の敗戦と云う国家的転機を迎え、各自持てる丈の荷物を唯一の財産として、引き揚げて来たが、正に天国から地獄への思いであった。我々子供達は、その運命にはすぐ馴染んで行く事が出来たが、歳取った両親はどんなに悔しかったであろうか、その年令を越えて来た今になって、「万分の一」位は解って来た様に思う。
(この項おわり)