久(ひさし)伯父は久彦・とせ の次男で家業を継いだ。
大正4年1914、生まれで平成8年1996に亡くなった。享年82歳。若いころはひょろひよろで、私の父と学生時代を一緒に過ごしたようだ。
同志社大学を卒業してから、朝鮮半島に戻り久彦の事業をしていた。

名古屋出身、元山の材木商大村家の娘芳子(よしこ)と結婚して、輝一(てるかず)昭和17年生まれをはじめ、4男1女がいた。芳子伯母は大正11年1922生まれ平成24年2012没。享年90歳。
芳子伯母は色白の美人、明るい人であった。私の母とは同年齢、引上げ難民と言う大変な海外旅行でずっと生死を共にしたのか仲が良かった。
朝鮮半島での事業
最近、弘資叔父(昔の須川洋行の住居にいる)が送ってくれた写真だ。
朝鮮半島城津(じょうしん)の須川洋行の写真だ。
2L版で4様ある。


城津は朝鮮半島の形状をウサギに例えることがあるが、ウサギの耳の裏にあたる、海岸の町だ、日本海を挟んで日本列島に面しているが、一方ソ連国境に近い。
電力が豊富であったそうで、重工業化の拠点となり大規模な製鉄所が建設された。漁業も盛んで活気のあった地域だった。
株式会社「須川洋行」は久彦が1930年代に創立し、久伯父も勤務していた。
写真で見るかぎり開放的、効率的な製材工場のようだ。強制的に連れてこられた徴用工などがいる雰囲気ではない。
普通の中小企業の工場で、この規模なら50人の雇用、売り上げ現在の金額で30億円規模であろう。
久彦には本社があり、そこでは朝鮮半島人女性タイピストも雇用していたそうだ。この時代の文書はタイプ打ちになっていた。
久伯父の逃避行
久伯父は、日本敗戦のときに31歳、北朝鮮城津にいた。憲兵隊の一員だった。敗戦の日、外が騒がしく、地元の人間が騒いていたそうだ。
その話は何度か聞いたが、映画の話のように彼は明るく語るので実感がなく深刻な話ではなかった。これは他の従弟たちにも同じ印象だったらしい。

だが、実は金 日成の共産軍、抗日パルチザンが入ってきていたので、地域にいた日本人は大変な目に合わされた。現在の「拉致」などに通じる酷さだった。相手はソ連軍がバックにいる非人道的共産軍だ。
統計では終戦時、朝鮮半島38度線以北には30万人の民間日本人がいたが、約15%は命を失った。
ソ連軍占領下では満州も同じであったが、組織的な日本人の日本への帰還はほとんど行われず、自力脱出だった。
久伯父は京城までおよそ400kmをどのように移動したのか、ほぼ全行程徒歩であったことに間違いない。
列車で移動し始め、直ぐに列車が止められたので避難民と一緒に徒歩で南に向かった。また南に行く列車を探して、貨車の下に潜り込んだりもした。だが途中で、本格的に捕まり、北に行く列車に載せられた。武装した警備がいた。
もう一人と目くばせし、走行中の列車から危険を承知で飛び降りた。彼は幸い、怪我なく着地したが、もう一人の男は首を折り死んでいたと。それから昼間は隠れ、夜に歩き、ようやく38度線を越えた。この行程、家族が一緒ならとても無理だっただろう。寝るところも食べるものもない。彼のことだから何か代償となる金目のものを持ち、ハングル語も多少はできた、から成功したのだろう。またパニックにならない、現実を受け止め、直ぐ次の手に対処する的な能力もあったかもしれない。
普通の人間ではこの逃避行はなかなか成功しなかったと思う。
京城の久彦家に着いたら無人で荒らされていた。南に来たら命の危険はないが・・家族のアルバムだけが散らばっていたので、写真を剥がして、持ち帰った。父の久彦はまだどこかで残務整理をしていたらしい。彼が久彦を除けば最後の家族で、湯川にたどり着いた。
幸い、芳子伯母と輝一は先に列車で京城に戻っていたので、久彦家の第一陣でこれもさんざんな目にあいながら、私の母、弘資叔父と引き揚げた。芳子伯母と輝一や喜美子叔母と敬久など、4人が命からがらだが、終戦直後に北から列車で逃れていたのは、久彦の手配があったのかもしれない。
久彦が帰らないので、久伯父と私の父、そして甥の中村 正男が3人で仙崎に行き、もう一度朝鮮半島に渡ろうとした計画があったが、途中で引き返して来た、と弘資叔父の話だ。
久彦、久の事業の再開
戦後まもなく3年くらいで、久彦と久は新宮の堤防町、前が貯木場、製材工場が多い地域に「須川洋行」を再建した。その横に家も建て、隣接し事務所があった。一日中、鋸の音と、木材の匂いがするところだったが。
僕が小学生3年くらいの時に東京から訪ねたら、久伯父は車を購入していた。同志社大学自動車部だった。
ピカピカのトヨペットクラウンで彼の息子たちと僕らを乗せてあちこち走った、と言っても新宮はあまり行くところはなかった。

そのころは、玄海灘を腹のなかで渡ってきた次男「玄海」に、三男も生まれとても賑やかだった。家の前には朝鮮半島の須川洋行から戻った宮地さん一家、子供が2-3人いた、が住んでいて、以前と同じように洋行で働いていた。子供たちは皆一緒にいつも遊んでいた。宮地さんことは父方の市朗従兄が筏で来た材木の納品で覚えていた。宮崎 昇大尉の当番兵だったが、陸軍除隊後、須川洋行に入社していた。
久の従兄、中村 正男も須川洋行で事務一式、今で言う総人経を担当しデスクに座っていた。

多分、復興需要、戦後と地震の、で製材した材木需要は右肩上がりで事業はこの昭和29年にはかなり順調であっただろう。家族の後ろの金庫、今もあるが開かないらしい、が示していた。
久伯父の趣味、トラップ射撃
高校2年の夏に静岡から訪問した時は自分のトラップ射場に連れて行ってくれた。
射場は勝浦から湯川に抜けるトンネルを出たところの岩山を登った。かなり険しいが向こう側は山でその先は海だから射場としては安全だった。
照明も付いていたが、射座はひとつ、前にしか飛ばないが、それでも
大いに練習になった。長男の輝一もやっていた。僕も生まれて初めて銃を発射した。
トラップ射撃は主に12番の2連の散弾銃を使い、合図に従い飛び出すクレーの皿を撃つ競技で集中力がカギだ。
親子で国体に出たくらい一生懸命だったが、晩年にプツンと二人とも止めた。彼らは狩猟はやらなかったが。
久家のこどもたち

久、芳子の間には5人の子がいたが、最後に女子が生まれた。4人男と言うのはすごい。ある時、4人全員が僕を、自転車で新宮駅に迎えに来てくれた。一番下はとても小さい自転車で車の間を走り抜けてきた。彼は歯科大に進んだが横浜駅前東口が工事をしていた時、自分で運転していて事故死した。この事故は、久家は言うまでもなく、我が家にとっても、とてもとても悲しい事件で、彼を可愛がっていた僕の母の落胆ぶりは見ていられなかった。みんなで新宮での葬式に行った。事故の1カ月ほど前に僕の母がみんなで食事に出ようと、彼も来ることになっていたが、彼はとても遅れ、その食事会をミスしていた。
上の輝一は慶応義塾に行き、家業をついだ。ミス神戸大と言う人と結婚して2女がいる。上の娘は私と同じ会社の関西にいて一度だけ会った。
次男は日大卒で名古屋の粋な女性と結婚して同地で事業をしている。1男がいる。三男は日大を出て新宮で事業をしている。
皆、空手部だった。輝一は小柄ながらとても素早い技を出したのを日吉の演武で見た。
末っ子の1女は僕の弟、恒次の静岡高校友人外科医の弟、慶応義塾医学部卒外科医と結婚し、都内に住み、1男1女いる。
彼女は音大に進み、ピアニストだ。
長女はTBS系局アナであったが、結婚退社、2児がいる。
彼女の長男は幼稚舎から彼の父と同じコースを歩み、現在はヒューストン・テキサスの大手医療機関外科医だ。そこのサイトにいつもでている。
彼は久彦家の次世代のヒーローであることに間違いない。
現地で日本人医師と結婚して4児がいる。大きなコロニアル風の家を購入した。そして、現地のアマゴルフトーナメントで優勝した。
ヒューストンのアマトーナメントで優勝と言うのはちょっと聞いたことのない腕前だ。小柄な彼が大きな米人を負かしている姿を想像すると思わず微笑みがでる。
日本の学会にも来ていたそうだが、コロナ禍で中止だ。
この子を見ていると、久彦・とせの、DNAを感じる。
新しい未来を自分で開拓してどーんと行く姿勢だ。
済伯父の孫、ベイエリア・カルフォルニアでITの仕事をしている
子にも共通だ。
この子たちにも一度会って話を聞いてみたいが・・
Dr. Naruhiko Ikoma Andersen
https://faculty.mdanderson.org/profiles/naruhiko_ikoma.html