二人の結婚
京城で昭和18年1943に結婚した。
宮崎 昇(みやざき のぼる)叔父は千葉県、房総半島真ん中あたりの出身だが、それ以前のことは知らない。翌年、長男 敬久(たかひさ)が生まれた。
昇叔父は大正9年1920生まれ、昭和50年1975 1月12日没、享年55歳だった。喜美子(きみこ)叔母は昭和元年1926生まれ、昭和63年1988 3月5日没、享年62歳だった。二人とも他の兄弟に比較すると20年くらい早く世を去ったわけだ。結婚した時は23歳と18歳、とても若いカップルだった。
喜美子叔母は私の母、節子の2歳違いの妹だった。
宮崎 昇は京城帝国大学法学部を卒業し、終戦当時は陸軍将校だった。
この叔父は血のつながりはないが、僕を抱いている写真が残っている。剣道の有段者でがっちりし軍服が似合っていた。
喜美子叔母と婚約した時は幹部候補で、結婚直前に少尉に任官、とせが久彦家の刀を彼に贈った。(弘資叔父)
終戦の時、ソ連国境の砲兵隊にいてシベリアに抑留された。
シベリアには5年間いて最後の最後に復員できた。だから喜美子叔母と敬久は湯川の家で、僕が3-4歳の時、地震で預けられた期間、4-5歳、彼らと一緒に暮らした。
宮崎 昇叔父と法曹界
昇 叔父は復員してから法曹界に入り、その経歴は、京都そして、岩手県一ノ関 地方裁判所の裁判官をしていた。
彼はシベリア抑留時代も法律関係をしていたと思う。
彼自身はシベリアのことはあまり話をしなかったが、左翼思想はまったくなかった。僕の父とは酒を飲みながら四方山話をしていたからシベリアの体験は出たかもしれないが。父も何も言わず。軍事法廷の弁護士くらいはしていたのかもしれない。帝国大学卒業後司法試験に合格していたはずだ。ソ連の法律、ロシア語に堪能で、僕が見た限りはたいがい机に向かい本を読むか、執筆をしていた。
後ろにはキリル文字の背表紙の法律本が大きな本箱にぎっしり詰まっていた。本は彼の死後、喜美子叔母がとても高く売れと言っていたが。「ロシア法」研究で法学博士号を取得した。
最後は東京高裁の判事であった。
僕が小学4年の夏、弘資叔父と岩手県一の関の地方裁判官だった一家を訪問した。平泉などに行き、歴史の説明をしてくれた。また東京に転勤になり、彼らは僕の父が新潟に転勤になった後、麻布の家に住んだ。敬久も僕が通っていた本村小学校に。
彼の法律書が詰まっていた本箱は久彦祖父が、分厚い檜板の頑丈なものだが、分解組み立てが楽なように作らせた特注品だった。転勤で各地に行ったが、その後僕が貰い、現在、山荘にある。
僕が大学生のころ、昭和40年1965、ソ連と東欧に長期出張した。
羽田空港に従兄たちと見送りに行った。法律の仕事だが、具体的な内容はしらない。東欧で剣道に興味がある人達に技を披露して受けたと。
土産はソ連製のネクタイと民芸品のパイプだった。僕らは土産を期待していたのだが、これには少しがっかりだった。
ところが後にこのネクタイの話が大学の気賀 健三先生ゼミの発表会で大いに先生から褒められた。ソ連のネクタイは材質、色や柄、縫製がひどいだけでなく、種類が無かった。僕と従兄 玄海は同じ柄だった。叔父から聞いたソ連、東欧の状況を交えた面白おかしく話したのだった。気賀 健三先生はソ連崩壊を日本で初めて予測した研究者で、我が意を得たりだったのだ。民芸のパイプは1980年代、同じものがモスクワ空港でまだ売っていた。
若き日の喜美子叔母
喜美子叔母は母とは似ていると言えば似ていないが、普通の姉妹だっただろうが、口論はよくしていた。早口でまくし立てることもあったが。彼女は姉を今は死語だが、「おねえさま」と呼んでいた。京城では母は第一高女にいったが、叔母は別な女学校だったと。
久彦・とせは子供たちにえこひいきはしなかったが、彼女の言は、お姉さまは両親に私より良くしてもらったとも愚痴っていたが・・
どうも姉妹は僕をダシにしては出歩いていたようで、検診から買い物、写真撮影、2歳の時には幼児教育研究者の知能テストまで付き合ったいた。後にそのことを彼女が何かと話題にしたのには参った。
夫が亡くなったあと、松戸に家があり、そこで犬と暮らしていた。
裁判所の「調停員」をしていて、その仕事は彼女のとても合っていたようだ。調停以外にも真逆な仕事、「縁結び」をして彼女の紹介で結婚したカップルの幾人かはとても感謝していたと言う話だ。
僕が大学生の頃、松戸に行くと半端ない量の焼肉を食べさせてくれた。
敬久は専修大学に進み、現在は勝浦の遠洋漁船に日用品や食料を納める仕事をしている。妻の実家だ。2女がいる。
彼は主に東京で育ったが、紀州勝浦に戻った。
敬久の下に年が離れて妹がいて、真面目な保険会社勤めの人と結婚した。
思えば喜美子叔母は僕にとり第二の母であって、敬久は第二の弟だ
宮崎 昇の系譜
京城市東大門区新設町の久彦家の近くに帝国陸軍「龍山」駐屯地があった。また龍山は帝国陸軍「朝鮮軍司令部」だった。そこで幹部候補生コースをしているとき久彦家の借家にいた主計中尉が喜美子叔母への縁談をもってきたそうだ。
(龍山、現在は米軍陸軍の駐屯地で在韓米軍の司令部があり数千人の兵力、3平方kmの規模だ。)
彼は京城帝国大学法学部を卒業、司法試験には合格していただろう。
妹がひとりいたと喜美子叔母から聞いた。
結婚直前に少尉に任官した。弘資叔父より彼は陸軍でも法務関係か主計の仕事をしていたのではないか?
久彦家を訪れては私を抱いた写真があり、勤務地が近いので頻繁に久彦家には来ていた。また濟伯父の帰省昭和19年夏には京城にいて濟伯父の集合写真に入り、車で金浦航空基地まで弘資叔父と見送りに行った。そのあと、本当に終戦直前に北に家族とも行ったようだ。敬久は京城で生まれた。(弘資叔父)北の部隊は砲兵隊であった。
私に砲弾の放物線の話をしてことも記憶している。
シベリアに抑留され、帰還は多分私が小学2年だから昭和25年1950ではないか?
5年間、20代後半を、シベリア抑留されていたわけだ。抑留者の組織的な帰還は1949年末で終了していて、1952,サンフランシスコ条約後(ソ連は非参加)赤十字が帰還を担当した。
敬久のおたふく風邪
昭和40年1965、夏だ。
当時、僕の両親は神戸にいた。僕と次男の弟は東京住まいで、休みにまず神戸に帰省し、そこから車(トヨタ「コロナ」大変な名だった)
で南紀を目指した。シニ(42)号線は曲がりくねり大変なドライブだが、3人で運転するので楽だった。岸のおいちゃんの釣り、海水浴など楽しいことばかり。熱いが温泉や旨い食べ物。叔父叔母からの小遣い。
敬久も松戸から来ていた。ところが彼が高熱を出した。おたふく風邪と言う診断だった。僕らは反対したが母親が一人で置いて行くわけにはいかないと、車に4人乗り、神戸に戻った。敬久は神戸でのんびりしていた。
そのあと僕ら兄弟もおたふく風邪に感染した。成年になってからのこの感染症は怖い、無精子になると・・幸い、大丈夫だったが、あいつは沖縄に行き感染してきた、許せないと。
東京に戻り、一人で寝ていた僕に敬久が喜美子叔母が作った焼肉弁当を届けに来た。
「諏訪 根自子」さんがいた借家
昇、喜美子は舞鶴から東京に出て来て澁谷区松濤に借家した。昭和
27年1952頃か、借家は大きな屋敷で庭が鬱蒼としていた。
松濤の借家はうちから都電34番で澁谷、澁谷駅から今のグーグルの本社横を登り徒歩10分くらいのお屋敷街だった。敬久は小学校に入ったばかりでおばあさまと新宮にいた。
僕は2回、泊りがけで叔父叔母を訪問し、叔母もしょっちゅううちに来ていた。その家は、母屋はL字型で、玄関右の洋間にバイオリンを弾く女性がいた。叔父たちは庭に面した大きめの和室にいた。その人は、「諏訪 根自子」さんで、深田 裕輔さんが書いた「美貌なれ昭和」に出てくる人だ。東北の出身、1930年代、バイオリンの天才少女と言われ、欧州に留学、そのままナチスドイツの宣伝に使われ、第三帝国崩壊後、米軍により帰国したと言う数奇な運命の人だった。
その人、恐らくドイツ語やフランス語は堪能であったのだろう。
叔父はシベリアから戻ったばかりで話が合ったようだ。
縁側でドテラ姿無精ひげの叔父と根自子さんが話をしていた。
恐らく叔父はクラシック音楽にも憧憬があったのかもしれない。
ロシアやドイツ、大きな時代の流れ、音楽や文学、話題には事欠かなかったかも。記憶では叔父は俳句はやった。
喜美子叔母はそれが面白くなくて、母に例のごとく愚痴っていたのが記憶にあるが・・「この子もバイオリンを弾く」と彼女に紹介してくれたが、彼女はフンだった。
深田さんの本によれば根自子さんはゲッペルスからストラスバリウスを貰ったそうだ。とんでもない有名人だった。
どうも僕はおばちゃんに根自子さん対策で松濤に連れて行かれた感がするが・・新潟に行くとき叔父叔母から野球のグローブを貰った
シベリア抑留
宮崎 昇叔父のことを語るとやはりシベリア抑留は避けて通れない。
第二次大戦後、いまだに解決されていない日本のロシアとの平和条約締結の領土問題とならび、根底にある問題だからだ。
ソ連はロシア帝政時代からの矯正収容所での重労働を課す制度を拡大し、革命後、反共産分子を数千万人の規模で極寒の地に送り強制労働を課した。思想教育が目的だ。
第二次世界大戦後は、日本帝国には宣戦布告がなかったが、戦勝国として日本人に労働を賠償にすると言う論理で戦争捕虜を収容所に抑留し厳しい強制労働を行わせた。富田 武著「シベリア抑留」
そして将兵に思想教育を行った。本では将校には思想教育はしなかったそうだが、下士官以下の兵にはあらゆる手を使った。
将校と下士官以下は場所を分け、交流はなかったそうだ。
ロシアとの関係将兵の扱いは独自のものがあった。ソ連自体も第二次大戦の被害を大きく受け、労働力の必要性は高かったが、受け入れ態勢、人間的な扱いは極めて貧弱であった。日本人60万人以外にもドイツ人200万人、東欧諸国人100人が同じような処置を受けた。ドイツ人は100万人が死亡したと言われているが、抑留された日本人は少なくとも6万人が死亡した。ソ連は戦争捕虜の扱いを決めた国際条約ジュネーブ条約を批准していなかった。彼らの日本への帰還は遅れた。共産主義者による強制労働は戦争捕虜だけでなく、自国民に対してもロシア革命以前から日常的なことで、スターリンがその規模を拡大させ、過酷にさせただけだった。
その話はソルジェニツィンの「収容所群島」の内容通りである。
叔父が病気になり入院していた期間、昭和46-7年ころ、頻繁に見舞いに行った。そこでよもやま話をしたのだが、シベリアのことはソ連の話は一切出なかった。また彼との会話での感じでは彼はソ連思想にはまったく侵されなく、旧帝国軍人のままであったと記憶している。だが、抑留中、数年間で、ロシア語が堪能になり、ロシア法を勉強し、帰還後、それで学位を取ったくらいだから、相当努力家でもあるが、機会は逃さなかったのではないか。彼がどこで、何をしていたかは知る由もないが、恐らく法律関係のこと、国際裁判が行われたので戦犯容疑者の弁護士とかをしていて、ロシア法、ロシア語の勉強を始めたのではないか・・・
場所はずっと西のほう、もしかしたらモスクワ近辺かもしれない。
一切、聞かなかった。謎のままだ。
僕の人生のなかでも数人のシベリア抑留者の知人がいた。
会社の上司、江口局長ことエグダンは満州鉄道の事務員(学歴は中卒)だったが、シベリアでは材木の伐採作業をやらされていた。雪の斜面で故意に馬に丸太を衝突させ殺し、看守は怒るが、その肉を食べたと。
福島の山荘の近くの鈴木さんは千島列島からシベリアへ。幸い故郷は寒いところで山林業の地なので何とか生き残ったと。
百人町鉄砲隊の阪口さんはモンゴルに送られて、靴の修理をさせられたと。そこで反抗し暴れて処罰されたと。
彼らは皆、割と早く亡くなったが、シベリアの生活は体にこたえていたのだっただろう。
章夫叔父は復員して農林省の技官をしていたころ、瀬島 龍三さんの奥さんが同じところで事務員だったと言っていた。シベリアの瀬島さんはいろいろ言われたが、章夫叔父は我が道を行くで、家族くるみで付き合ったそうだ。
昇叔父の研究する、チャンスは逃さないと言うような生き方には大いに共感した。彼には聴きたいことは山ほどあったが・・
長男の敬久、頭はボケず、元気で78歳になる。和歌山県勝浦港で立派に事業を行っているが、父親のような勉強家、研究家ではない。パソコンはいじったこともないそうだ。ガラケー専門、現代の「ケーブマン」だが、遅咲きと言うこともあるから突然、目覚めるかもしれない。
妻や娘が助けているのだろう。
そして敬久にお願いしたいのは、法務省人事、厚生省引揚げ援護局と連絡をとり、彼の父、宮崎 昇の、経歴、研究、シベリア時代を調べ、この文を完成させてほしい欲しい。期待する。
Youtube
異国の丘 美空ひばり
諏訪 根自子 バッハ無伴奏