
座り、一日中、火と湯を絶やさなかったというものだ。
熊楠のような
学者も寄ったかもしれない。
それにばあちゃんがどう対応したかだ・・
北ノ川・モチノキとは
そこは、先祖の地であり、江戸期より昭和の初めまで先祖が住んでいた。テレビ番組の秘境なんてものでない。本当の山の奥の奥だ。私の父豊(ゆたか)はここで生まれた。31代目、長右衛門の市朗(いちろう)従兄はここから移転した樫原・色川で生まれた。彼は「北長」と言う材木業を経営していたのですでにこの地は手を離れ大手の所有であったが、あたりの地形には一番詳しかった。
ただ、北ノ川付近の江戸期の地図(興図)を見ると、請川、日足(ひたり)、小口を経て、色川から那智に抜けるルートが見える。
熊野川を下るルートは両側断崖絶壁のような道のないところは対岸に渡ると言うようなところが2か所あり、複雑だった。それで修験者が本宮から那智大社に行くには内部の道を使用した。モチノキはその道より外れているが中間だ。いずれにせよ難所だが修験者の常識では難所も難所ではない。修行だ。私もそれと同じような決意で向かったが・・・



少しの記録も今回見つからず、ブログ「ピグの部屋」様の画像を借用した。新宮市熊野川町畝畑、中平の様子を画像のごとく見事に収めている。
道すがらはまったくこれらの画像の通りであった。
1回目の訪問
最初の米国勤務を終えて帰国した1977年夏、小口の章夫(ゆきお)叔父の家を訪ねた際だ。中平の野尻さんのガイドだった。
章夫叔父の車で畝畑の野尻家まで行き、そこから野尻さんの車で行けるところまで、そこは中平か、あとは徒歩だ。米国で使っていた山歩き用の靴や装具を身に着けていた。
1時間半くらいとても険しい道を歩き、犬2匹が先導した。
歩き出して直ぐにここが寺だったと言うところを通過。「永詳寺」だと。
昔、人々が暮らしていた空間はすべて植林された杉や欅で蔽われていて、昼なお暗い山林の中を歩いた。やがて石垣の壁が見えて、その後ろに母屋があった。10間x5間くらいか、高い大きな建物だ。母屋は山で作業する人々用にまだ使われていたようだった。土台を石で持ち上げてある、と野尻さんが説明してくれた。少し離れて納屋・牛小屋の跡が。大体、田舎の大きな農家は同じような配置らしい。
母屋と納屋の間から下に降りる幅1間ほどの石段が20段ほど。
そこから川まで平たい空間だったのだろうが、その時は20mほどの高さの植林された針葉樹に覆われていた。
野尻さんの案内で、母屋、納屋、石の階段、神社、ご神木、墓地の跡、それに労働者用の家の跡数か所、川、学校の跡などが確認された。
1時間ほど滞在し写真を撮影し、スケッチをした。帰りも同じルート、修験というほどの体験ではなかった。
野尻さんの家には章夫叔父が待っており、小口に戻ったが、帰ると顔を見た恵美子叔母が「着ているものを全て脱いで」と言う、野尻さんの奥さんから電話があり叢にいるダニが犬にいるのを発見して、僕がかまれるのを恐れ注意してくれたのだった。叔母さんの前で裸になり風呂に入った。
やはり山の中は大変なところだったようだ。その時の記憶をスケッチにして、市朗従兄に見てもらった。
下の観光案内は市朗従兄、88歳が私のスケッチをもとに描いてくれたものだ。
植林された檜や杉がないころは開けた心地よい空間であったのだろう。

2度目の訪問 父の散骨
米国滞在中、1995年春に私の父親豊が亡くなった。彼の思いは、墓は要らずの散骨主義で、遺骨の一部を生まれた地に撒いてくれという遺言だった。それを私に言いに前年、母とニューヨークに来た。
その年秋に、次男、恒次(つねじ)と一朗従兄の案内で行った。確かこの時は小口から田辺の方角に抜ける林道を市朗運転の4輪駆動車で走り、途中に止めて、さらに細い道を行ったがおよそ1時間の山歩きだった。

18年前に訪れた時とはモチノキあたりの植林された樹々が大きくなった分、家は崩れていた。川だけは同じくとうとうを流れていた。幅数mだが水量は多かった。
昔、家を構えるとご神木を四方に植え、家の中には火を絶やさず、家はできるだけ乾かしたという。モチの木(とりもちの材料となる常緑樹、都会でも建物周りの植栽に植えられているが)はどこにあったのか・・見なかった。この木もご神木として植えたのだろうが。
モチノキの家のご神木は直径2mあろう杉の木だった。
この時は市朗従兄が連絡しておいたのか、現地に到着したら、直ぐに橿原方面、川の向い側の斜面を3人の親族、知人の人達が降りて来た。
散骨に立ち会ってくれたのだ。天気も良く散骨は無事に済んだ。川のほとりで弁当を食べた。
かくして父は生まれた場所に戻り眠っているはずだ。
そんなわけで2回の訪問とはるゑさんなどへの聞き取りでモチノキの様子を描いてみたのが先の市朗のイラストの元だ。植林された樹木が無い景色を想像するのは難しいが、斜面ではあるが、日当たりの良い高台と感じた。
野尻さんの話では、モチノキの須川家はいろいろな行事に熱心で、そのひとつが祭りの「餅撒き」だったそうだ。芸人なども出て、かなり遠くから山の中を人々が集まり、賑やかであったと言うことだった。
昔の北ノ川モチノキ
昔の人々が歩くのは苦にならぬとしても、大変な一帯だ。
道がちゃんとしていない。

「熊野川通史」によるとモチノキには船運があったそうだ。
北ノ川は樫原あたりが水源でモチノキ、中平を過ぎて小口に流れている。川には伐採した材木を流した。材木は大きなものは半分に割り、長さ4mほどを1本ずつ流し、途中で筏に組んだ。また川をせき止めて筏に組んでどっと流すこともあった。「鉄砲」を撃つ様だったのか、「テッポウ」と言った。このような堰(せき)は簀(す)と言い、簀川→須川の姓になった。

川は材木とは逆に船で荷物を積み上がったそうだ。新宮から請川まで12時間ほどかかったが帆と河岸から引っ張ると言う大変な苦労で、下からは米やその他食料、生活用品を運び、上からは山の産物を出荷したそうだ。この方法だと一度に多量の荷が運搬できる。

大正の頃、29代長右衛門 竹吉(たけきち)、私の祖父がモチノキに畝畑小学校の分校を設立した。ある程度通える数の子供たちがいたのであろう。章夫叔父が最初に通ったのはこの畝畑の分校であったそうだ。この分校の先生が山の中で遭難して大変な騒ぎになったという話も様々な文献にでている。
いずれにせよ、もう北ノ川モチノキに行くことは無理だ。
モチノキの地勢と気候
熊野参詣道の地図では中辺路の本宮から那智大社に行く道は熊野川沿いではない。小口から那智に抜けている。
北ノ川は位置的にはその中間の西だが、果たして修験者などが通る道筋であったのだろうか?
海抜は地図で見る限りそう高いところではない。那智山の裏側だが、山は険しくとても那智に直接行くことは不可能だ。
海岸に出るには、正雄伯父が移転した橿原に出て、色川から太地と湯川の間に出なければならない。
また、古座川の村上源氏、清重の西川の一帯、ここからは須川の嫁が古くから来ていたと(正雄の妻)思われ、距離は10km未満と近いが険しい山で、昔は徒歩で越えたのであろうが、現在、行き来はできない。色川、湯川などからも嫁は来た。また嫁に行ったのだろう。
下手すると近隣の集落まで徒歩では3-4時間は掛かろう。
紀伊半島中心部は温暖な気候だ。17-8世紀、小氷河期で、東北地方は大変であったが、西日本、紀伊半島は本州の南だ。布団が無くても凍死することはない。恵まれた地方だっただろう。
北ノ川を今思い出すと、昔の姿は想像の世界だった。
家の周りも、神社も、畑も、広場もすべて植えられるところは空いている地面はないほどに植林されていたのだ。
自然の破壊と言う意味では植林、針葉樹は考えさせられるものがあろう。更に自然エネルギーの施設は自然の破壊以外に何ものでもない。

現在の地図と南北が反対向きだが、南の上は「塩見崎」潮岬
折り目の、左「新宮」右「田辺」、右下に高野山、左真ん中に請川、日足、小口(小の字しか)、そして妙法山に至る当たりの山の画の中に北ノ川は存在したのであろう。
年寄りの役目
北ノ川、モチノキの話で妙に記憶にあるのは、父や章夫叔父から聞いた話だ。それは、家の中には火を絶やしたことがなかったと。
ばあちゃん、彼らの時代は菊次郎の妻か?が囲炉裏の前に座り、絶えず、木をくべていたと。そのマキは子供に集めさせたのだろう。
囲炉裏の火には大き目の茶釜がかかっており、湯が沸いていたと。
人が来るとばあちゃんが応対したようだ。もしかしたら、南方 熊楠も粘菌調査の途中、この家に寄ったのかもしれない。

茶釜は章夫叔父の話では、先祖伝来のもので、鉄に金を混ぜた金属で作られており、それは家が移転してからも残されていたが、自分が持ち帰らなかったと、後悔していた。今から取りに行くのも無理だ。
いつモチノキに来たのか?
宝永地震のあと、そのままモチノキに移転したのか・・
18世紀からの須川 長右衛門家の系譜はかなり明らかであり、長兵衛に始まり、長市、長七などの名も見える。何か庄屋以外の役目、本草などに就いていたのであろうか、次なる調査の題目だ。
それに幕末明治の28代菊次郎だ。この人は別な項で書く。
モチノキに来た経緯は記録にないが、私たちが見た大きな家は古いとは言え1995年は存在していた。推定では安政の大地震後の新築したものと思われる。
母方久彦家の系譜
濟(わたる)伯父の航空免状昭和13年頃の本籍地でも北ノ川と記されている。住所で言う北ノ川は細長く、モチノキから畝畑までを包含していたようだ。縦の長さは15kmくらいあったのではないか。
中平も住所的には北ノ川で、久彦の父亀太郎とその父彌吉(やきち)明治35年1901没、享年89歳と言うことは、文政2年1817生まれだ。久彦の祖父ではないかと推定されるが彌吉が中平あたりの人と
すると久彦の小口に対する思い入れもわかる。
彌吉は何をしていたのであろうか?どこから中平に来たのであろうか?文化・文政、19世紀初頭の日本は17世紀初頭、大和から須川長兵衛一族が熊野に移転した新時代は終わり、鎖国体制は徐々に成り立ち行かなくなった時期だ。この辺りも新たな研究テーマであろうが・・・
私の父はあのモチノキで生まれ、そして眠っているわけだが、なぜかとも遠い遠いところ、宇宙の果てのように感じられる。
(以上)