須川(長兵衛)藤八親子討ち死す 天文12年1543 4月

筒井 順昭(じゅんしょう)の軍勢6000と戦う須川 藤八

16世紀になると大和の国は戦乱に明け暮れた。巨大寺社興福寺の権威が衰えて、衆徒の実力者、古市氏や筒井氏の力に変化があり、内外の様々な勢力が進出してきた。それらは木沢氏、越智氏、松永氏、そして阿波の三好氏だ。その勢力が応仁の乱以来、入り乱れて戦った。
先祖、大和、簀(須)川城の須川 長兵衛家もそれらの戦いにもろに巻き込まれた。須川城は大和 奈良、興福寺より北東に10㎞のところにあった。

寺社荘園と大和武士

興福寺

もともと衆徒は寺の学問、修行、運営実務を司る者たちであったが、興福寺内では一条院、大乗院の二派が各々、有力な門跡、武士、名主など衆徒として。簀(須)川は初期には興福寺20衆徒のひとつであったが、15-16世紀には一条院方の衆徒であり、春日大社の国民派でもあった。筒井と須川は同じ一条院派であったが、応仁の乱以降、古市なども巻き込み互いに争うことになっていた。つまり、
寺社の荘園も安穏としておられない。その時、その場で誰かについて戦うしかなかった。小規模領主の須川、柳生、狭川・福岡は地域性を生かし同盟関係を作った。

多門院日記に記された須川 藤八の討死の様子

多門院日記は興福寺多門院が主に近畿地方の出来事を様々な情報源から収集してまとめたもので、日本では「第一級歴史資料」として権威がある。
天文12年1543、4月16日に「今暁従筒井簀川へ被取懸了」と始まる記録だ。「筒井 順昭、自ら出向き、簀(須)川の3つの城のうち2城が落ちた。簀川では須川 藤八と息子、20数名が討ち死にした。本城は未無退城、筒井の手負いは数限りなし、討ち死にも多数。寄せ手は6000騎以上、城のなかには僅か5-60騎云々。弓を取りて名誉
不過は簀川、誠に可ちょう良の武士かな」と、須川への最大限の誉め言葉で書いてある。杉田 定一さんは南方 熊楠先生にこの落城後の一族の様子を探すとしていたが、一族全員が死亡したわけでなくて、本城から多くの一族が逃れたようだ。(「奈良県史」大和武士などによる)
逃れ先は興福寺、その関係の寺々、柳生に福岡と逃げ隠れできる
ところは沢山あったし、筒井方もそこまでは追求しなかったようだ。

多門院日記、天正12年、
現在は電子的に検索できるが、杉田 定一さんは興福寺に行き閲覧してきた
筒井 順昭(つつい じゅんしょう)大永3年1523生、天文19年1550没 高野山に出家した。須川城攻めのときは20歳。

須川 藤八 討ち死に に至るまで

昭文社分県地図12万分の1奈良県より
須川は笠置山と興福寺など中間に位置して山城と大和間の
要所であった。奈良中心部までおよそ10㎞

その2年前。天文10年1541、11月26日、山城の木沢方の笠置城、
「伊賀衆笠置城に放火」の記事の中に付近の権力者、小柳生、簀川、六角、細川、三宅、伊丹、池田、三好、伊賀衆と畿内の権力者古市の小競り合いに出てくるのは伊賀の忍者と一緒に簀(須)川の名前がある。なかなかきな臭いし、ドラマチックな展開だっただろう。
このように様々な勢力間を興福寺の威力のある限りわたり歩いていたのだが、筒井勢が力を増すと形勢が悪くなったのだろう。
笠置城は後醍醐天皇、倒幕の元弘乱、1331年の最の拠点であり、須川城からわずか5kmの距離にあった。
古市は須川に近い山添郡を拠点として興福寺大乗院衆徒で14世紀にはその代表的な存在だったが、15世紀になり没落した。
越智は清和源氏の係累であって、15世紀に力を持っていたが16世紀後半、豊臣家に滅ぼされた。
三好は阿波守護であったが、16世紀、近畿に進出た。
三好 義継の時代、大和で力があった。

三好 義継


松永は出自不詳であって16世紀、三好に代わり力を持ったが地域からは放逐された。
大和の武家勢力はいずれも16世紀の終わりを待たず滅亡した。

須川城の様子

新人物往来社日本城郭体系10、三重奈良和歌山編には以下のごとくある。
「須川城」

須川は笠置に流下する白砂川の支流、前川の上流にあり、その下流は狭川である。簀(須)川庄の下司簀(須)川氏は、康正三年(1457)に初見する一乗院方の国民である。応仁の乱では古市方に従い、以後、戦国初期にかけて、狭川氏と共に大体、古市方であったが、福智庄大柳生をめぐって狭川氏としばしば対立した。天文10年(1541)に木沢 長政に従っていたが、小柳生と共に裏切って木沢方の笠置城を襲った。長政の死後、筒井 順昭と対立し、同十二年四年十六日、順昭自らが率いる六千余の大軍に攻められた。当時、簀(須)川に城は三つあり、まず二つの城が落ち、簀川方の屈強の者たち二十余人が討死した。
死者の中に簀川 藤八親子の名が知られる。和束(わずか)の者も一緒に討死した。本城は五-六十騎で守っていたが、翌日、多田氏の仲介で簀川氏は当尾(寺)、城は破却された。(多門院日記)

須川城 物見取でから降りて来たところのくぼみにある池

天文年間(1532-55)に三か所あったと言われる須川の城のうち、当城がどれに当たるか不明であるが、現在、須川で確認できた城跡は当城だけである。当城は須川から大柳生へ越える道を扼する山上にある。長辺29mの梯形の城郭の四周に低い土塁が巡っている。北隅に小さな腰郭が付属するが単郭の小城郭である(方形単郭)。立地を規模から推して、物見の砦であろう。土塁に囲まれている形は狼煙台を想定させる。
昭和五十三年に、関西電力の鉄塔工事の影響で南面土塁の東半分が破壊されたのが惜しまれる。」とある。

簀(須)川の城に関しては、永井 隆之博士の研究と論文がある。

永井 隆之著「室町・戦国期大和東山内北部の政治構造」
―狭川・簀川氏の動向を中心にー「大乗院寺社雑記」内
より 永井先生は⑭御所屋敷、⑮砦、⑯政所が須川の3つの城であろうとしている。
⑰は筒井の野陣


永井博士は城館跡を歩き、この地域の在地領主の分布を調べた。
簀(須)川氏に関しては、現須川ダムの南側に数か所の城館跡を
しるしている。城と言うより、小規模城館に分かれて存在してのではないかとしている。(須川ダムは現奈良市の水源)

奈良大学、城郭史研究家、千田 嘉博博士は在地における階級の矛盾を城館で理念化したが、これも正しい論理である。
城の規模とか格とかで、領主の生産力が分かるとして、狭川
簀(須)川では領主はもとより領民にそれほど力はなかったのだろう。

大和須川城などは関西に多くいる城巡りの研究家の訪れる城のひとつらしく、様々なサイトに現れる。峠にある中学校の横から入り、上まで登った感想などが掲載されている。

戦国期後半の大和

須川 藤八親子が討ち死にして、城は破壊されたが、その後しばらくして、須川氏は一部が戻り、また大和で戦国の戦いを続けていたようだ。日本の中世が終わり、近世が始まるまでの宿命であっただろうが。
戦国時代末期には狭川、柳生と両氏と組んで万亀年間(1570-73)の松永・筒井両勢力の抗争時は、松永方にあって須川は郡山の付城に在番した。
なお、永禄2年1566、藤八親子の討ち死にから23年経っていたころ、須川は筒井方になっており、付近の勢力と共同して松永氏と対抗していた。(大乗院雑記)
大和北部のこの勢力を山中4個郷衆と呼び、それらは須川、狭川福岡、柳川(柳生)と、とも地、であった。
須川氏は16世紀後半も戦国の戦いを続けていたようだ。

勝ち目のない戦いに臨む者たち

須川 長兵衛 藤八親子4人が筒井勢との勝ち目のなり戦闘に及んだ、その時、推察するに藤八は40歳を少し超えたくらい、息子は10代後半だったのでは。記録では3人の息子が討ち死にしたとある。
その他にも和束(わずか)北五郎と言う者も。55騎の勢力で、
寄手、筒井方6000に大きな損害を与え、筒井方では中坊 保利茂と言う武将が須川方に討たれ、その死傷者は数限りなかったと。
和束(わずか、京都相楽郡)の北五郎は須川に笠置山を挟み隣接しているが、
なぜ、須川と一緒に筒井を戦ったのだろう。
須川 長兵衛 藤八らは残りの一族の安全のために時間稼ぎか、武士としての名誉が理由で戦ったのではないか?
いずれ興福寺のためだけに戦ったのではないであろう。
家族、一族のために戦ったのであろう。
多門院日記では彼らの武将としての名誉をこれ以上ないほど礼賛していたが。落城した二つ以外の、城は開城したが、一部一族は他地方に逃れるか、残りの一族はまだしばらく様々な戦いに巻き込まれた。

天文12年1543年は種子島に鉄砲が伝来した年だ。いみじくも日本の中世はこの武器により終わりつつあった。近世をみることなしに
死んだ藤八親子、もしかしたら時代の変わり目は感じていたかもしれない。大和武士の最後にふさわしい死に方だった。
いずれにせよ、大和武士の寿命は信長の時代、そして豊臣家が
絶大な力で「太閤検地」慶長年間 1590年代、を実施したことで完全に尽きた。
柳生 宗矩のように徳川家に仕官した者を除いては地方に移転するか、帰農するなどした。

大和須川の山道

いみじくも、大正時代後半、1920頃、南方 熊楠先生が知人の大和歴史研究家杉田 定一氏に「須川 長兵衛家」のことを尋ね、その調査結果から、熊野須川家は大和須川家から発していると明らかにしたわけだ。そして多門院日記は、先祖が480年前に戦国時代を戦い、討ち死にしたとあった。また、柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)の外ひ孫の須川 長兵衛は柳生家に入り、柳生 内蔵助(やぎゅう くらのすけ)として元禄期には高名な剣術家であった。(杉田 定一氏「柳生六百年史」)

自分の体験を須川 藤八の討ち死や一族の戦いに重ねてみると、どうも須川一族は負ける方に付く傾向があったのかもしれない。もう「少し上手に渡れば上まで行ったのではないか」・・というような生き方もあったかもしれない。例えば、
会社などでは、いかなる理由でも上司に逆らっては駄目だが、わかってはいるが・・という性格の家系だったのかもしれない。

現在の奈良市須川町の田園風景
左手上のような石垣のある頑丈な家が特徴的であった。

(この項以上)

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