
須川氏の歴史で言えば、16世紀から17世紀へ、慶長年間は創始と現在の丁度、中間点に当たる時期だ。
16世紀末、地域をまたいだ集団移住は珍しいことではなかった。
もっとも中世末は大和も紀州も同じ地域と考えられていたが。
移転は江戸期も同じで大名の国替えは頻繁に行われたことの始まりだ。
新秩序を確立するために移封や転封は政策であり、逆らうより新天地を見出す日本人の柔軟性の表れだったのではないか?
大和須川氏熊野に向かう
須川氏の大和からの移住は1560ー1590年頃に行われたのではないか・・と
様々な資料から考えられる。
天文12年(1543)、須川 長兵衛 藤八が筒井の軍勢と戦い敗れてことは多門院日記にあるとおりだ。このあと一族は離散した。一部は大和以外、熊野へ逃れ、一部は大和、須川城に戻ったそうだ。1970年頃戻った記録がある。その間は近隣の柳生、福岡など親族や、興福寺、三好家のもとにいたと。
「奈良県史11、大和武士」には天文16年1547、東山内、貝吹城に須川の弟がいて、この城は落ちなかった、とか元亀元年1570、松永方の須川は郡山城附城におき、吐山というものと守っていたが、吐山が裏切り打ち取られてとの記述があり、他にも須川一族の名が戦乱記録に散在している。つまり一世代ほどは大和で戦い続けていた。
従って熊野に移住した時期は1560年頃と豊臣政権樹立後の1590年頃だったのではないか?だから長兵衛家と忠兵衛家に温度差ができたのはないか?大和を追われた須川一族にはさまざまな時間差があり、たとえば、長兵衛家と忠兵衛家のように同族でも付き合いのない状態ができたのはないか?
これは私の推測が。
熊野への道
またルートには自分でドライブしてみたが2通りあったようだ。

一つは三重県側の東ルート、柳生から宇陀、吉野、上北山、下北山を通り熊野川上流に出る。もう一つは西ルート、天理、橿原、明日香、五條、十津川から本宮大社に抜ける。東ルートは難所が続く。西は古代よりのルート。
例えば、長兵衛一家は天文年間1550年ごろ、敵から逃れ東ルートで小口、畝畑に入る。
忠兵衛一家は30年くらい後、豊臣秀長、浅野家のもと、西から請川に入る。
など。大和では苗字、家紋が同じであり、この両家はごく近い親族だったのでは。
もとより大和の国は戦国以前、寺社勢力が強靭で大名はいなかった。
豊臣 秀長の大和の国制覇
全国統一を果たして豊臣家は「秀長」が紀州、大和を治め、太閤検地を実施した秀長は大和の寺社と武家勢力の切り離しのために武家の移転もしくは帰農を布令し、その実施はかなり厳しいものがあったようだ。(奈良市教育委員会)
秀長は大和の国に主をして天正13年1585、郡山に入る。大和大納言と呼ばれ統治に腕を振るった。寺社勢力の強い同地の検地を行い、大和在住の寺社関連勢力の地盤を切り崩したのだ。

天正18年1588、彼の配下の代官が熊野材木の代金を着服したことが秀吉に知れた。翌年秀長は病没したが彼の政策は引き継がれた。
従って、残っていた、奈良、須川城と周辺の須川一族も熊野への移転を決めた。
熊野一揆による山林産業の空白
熊野は1586年、速水 融博士の研究にあるように、大規模な一揆が起こり、秀長により厳しく弾圧され多くの農民が排除されて、地域的空白が生まれていた。
須川氏の大和から熊野への移転は秀長の政策に大いに関係していたのではないか・・速水 融博士の「熊野一揆」、竜神から北山までの農民勢力の一掃が背景にあったのではないか・・・800人が処刑されたとある。当時の地域の人口から考えたら、ほぼ全滅だ。

須川氏の大和での荘園運営、材木と山林管理はそのまま熊野で生きると。
大和須川氏は奈良北部須川から熊野請川、小口までは直線で120km、家財や女性、子供連れでも10日間ほどの日程だ。先遣隊を出して、事前調査していたはずだ。
また一世代ほど前に大和から熊野に入っていた一族もいた。
このルート(西)は京からの熊野参りの道で古くから開発されており、熊野はけして僻地でなかった。
放浪するようなことはなかっただろう。何組かに分かれ、逐次出て着いたものと。
宿泊は寺社であっただろう。組織化されており、豊臣政権下の公式な移動だから鑑札も所持し、秀長の軍勢の護衛か監視があったかもしれない。
何組かの移転先は北山あたりから本宮を経て新宮近くまで現在の和歌山県だけでなく三重県にも。
大和の国を縦断したわけだが、画のようにわりに整然としていたのでないか・・
須川 長兵衛家の記録では永禄7年(1564)に中平に永詳寺を建立したとある。
もし寺が必要ならもっと古くから存在したはずだし、この年以前に須川 長兵衛家が
大和から同地に定着したのでは、時期的に合致する。
私の推定では一グループ30人、うち家族連れ、それらが数グループ、200名ほどが熊野に移住したと思う。少数が三重方面に。また柳生、福岡などの姻戚関係にあったものもそれぞれ大和を去った。
移転の背景の整理
1560年頃、永禄3年、大和は三好氏の勢力下ではあったが、細川氏との闘いが続いており、全国的には戦国時代真さ中、恐らく三好側に付いた須川 長兵衛が同じ三好家の支配下の熊野に移転したのではないか。
南方 熊楠の先祖は三好家の家老で同じような背景で紀州にきていたとのことだ。
1590年頃、天正18年は豊臣政権下で、刀狩り、兵農分離、身分制、の確立と寺社や一揆の抑圧で、大和に残っていた須川一族も行き場がなくなった。同じ時期、熊野、北山で天正14年(1586)に地侍の大規模な一揆が発生した。
畿内における材木需要の拡大で、その利益配分を巡ったものと言われているが多くの犠牲をはらったが、熊野統治に空白ができた。そこに森林経営の須川家が入った。源氏や平家の物語より時代的には後で天皇家との直接の関係はないが
現実的なストリーだった。
速水 融博士の研究と熊野

紀州の森林史を語るには1600年前後の熊野一揆だ。
速水 融著「近世初期の検地と農民」2009年には1600年前後、豊臣政権から徳川政権にかけての熊野の具体的な林政史が調べられている。特に一揆だ。
山の奥で森林作業をする農民層と施政者の戦いだ。
16世紀末、検地を行い、大和奈良を統治した豊臣 秀長、そのあとを継いだ浅野家は反抗する農民に厳しく対処した。多門院日記に竜神から北山に至る浪人の蜂起を湯川氏と山本氏の配下が対抗し秀長が天正12年1585年に出兵した。山林、材木の商業価値が近畿圏の建築ブームで高騰していた。
須川氏が移住した地帯はまさに一揆による空白ベルトであった。
私は速水 融教授の統計学を1965年、慶応義塾大学経済学部在学中に専攻した。また彼の恐らくほとんど最後の講義を交詢社で聴いた。

速水 融(はやみ あきら)教授,1929-2019、は、
日本の人口学、特に江戸期の人間の実態を戸籍や古文書から解明し、江戸期に労働比率分の分析から、時代を追うに生産性、社会の効率が向上し「勤勉革命」という現象が発生したことをデータで証明した。
従って彼の歴史学は家族史とも密接な関係があり、これは今回の私の調べの根底にある考え方だ。
教授の弟子が映画になった「武士の家計簿」を書いた。江戸期の研究では熊野以外にも長野県原村の戸籍古文書からその地帯の江戸期の変遷を解明した。文化勲章を受章したが、報道はされてないがノーベル賞の候補として検討された。
大和を追われた須川氏は・・他にもいるのではないか?
京都府丹後の一地区に「須川」姓が存在する。丹後半島の奥、「須川谷」と呼ばれる山中から、海岸舟屋にかけて。江戸期初期に始まると言うが、熊野に移った須川氏と同様、大和から丹後に移住した一族であったのか?
調査中である。
また三重県松阪市小野江町に須川村(松浦 武四郎出身地)があった。方角・距離から大和須川氏が移転した地とも考えられる
戦国期から江戸期にかけて、大和の柳生、伊賀、甲賀は徳川氏に仕官して江戸に移転したが、柳生の高弟となった須川 長兵衛以外は大和を離れ、近辺に散らばった。
「簀川」と言う姓は、その元の意味は川に簀を作りせき止めると言う意味から来ている。現在の奈良市の水源、「須川ダム」はまさしく簀川が川に堰を作り、水をため、材木を流したことから来ているはずだ。川をせき止める作業は一人ではできない。
大勢の人がかかわり、さまざまな専門の領域があり、誰かがリーダーシップを取らねばならない。一族はそういう体制になっていたことは想像できる。
その生き方は徳川政権における山林経営にうまく組み込まれたのであろう。
(この項以上)