
家族の絆の原点
須川 久彦家はとても結束が強かった。あのような家族像はドラマにはあったが、今はもう見ることはできないだろう。
一つの理由は朝鮮半島から着の身着のままで難民として逃れてきたがひとりも欠けることなく、全員無事だったことがある。
もう一つは湯川(現在は那智勝浦町)に大きな家があって、そこで各々の事情にあったが一時期、祖父祖母と共同生活をしてことだろう。
喜美子(きみこ)叔母(母の妹)の夫、宮崎 昇(のぼる)は軍人で朝鮮半島北部、ソ連国境にいたが、彼はシベリアに抑留されていた。(このことは後に書く)、喜美子叔母と長男敬久(たかひさ)は北からの最後の列車で逃れた。京城から私の母と弟、弘資(ひろすけ)叔父と5人、一緒に帰国した。(弘資叔父の手記がある)それは大変な難民旅行だった。
そしてもうひとつが、祖母とせ、の故郷、東牟呂郡湯川(現那智勝浦町)に不思議な家と田畑、そして親類がいたことだった。
湯川は鯨の港、大地(たいち)に隣接している。船で行けばなんてことはないが、路は険しい。東にトンネルを抜けると勝浦の港だ。
湯川は湯治場だった。那智大社を詣でた人々、大地や勝浦の漁業者そして、明治期には北前船も入ったそうだ。
難民旅行
僕は母から遅れて、祖母、喜美子叔母、尊敬久、そして母たちの従兄 中村 正男さんと難民旅行をしてきた。昭和20年1945、9月初旬、朝鮮半島京城を出て、釜山で興安丸に乗船、山口県先崎着、山陰線、京都、大阪、紀伊半島を下り、和歌山県東牟婁郡湯川までおよそ10日間かかったのではないか。列車の窓から見た満月を覚えている。
そして湯川の家に入った。
下の図は、家を大きくしてあるが、当時の湯川の家の周辺を思い出すままに描き、弘資本叔父91歳に監修してもらったものだ。

地形的には小さな川が流れ込む、直径数100mほどの入り江、周囲2km、それに接続し海岸まで続く広い川状のところ、そして海に出る河口だ。
周りは険しい山で、湾に面してところと勝浦に行く道、トンネルまでが比較的たいらで開けている。
昔はこの地域の真ん中を国道42号線が通っていたが、現在は山側のトンネルになった。もとよりとても静かなところだった。
祖父と祖母が朝鮮半島にいたころ、湯川旅館街のど真ん中に比較的大きな瓦葺き、ひさしは深く、外部は木製、2階建ての家を購入していた。近くの田畑も。その建物は不思議な感じで、表は7-8間あり、奥行きも4-5間あった。総二階で、表に面したところに低い手すりが。2階の居間は6畳くらい、その横に小部屋があり、弘資叔父が生活していた。南表がわには8畳ほどの部屋2室、トイレは各階に2か所。西側の縁側に出るとゆかし潟が一望できた。
階段も比較的広く緩やかな傾斜。下は台所や他にも部屋があったが、倉庫になっていた。木製の農機具が置いてあった。入口を入ると土間が裏まで抜けていた。
僕はこの建物はかって旅籠か遊郭であったのではないか?と思う。
水は裏に鉄製のポンプがあった。
終戦直後、もう大分古いと言う感じだったから、明治のつくりではないか?鯨捕りが景気の良かったころ、商談に来た人が泊まるとか、大地から遊びに来たとか。風呂はなかったが10mも離れてないところに村の立派なタイル張りの共同浴場があった。
その先を行くと、小口の謙一さんの母の実家、「柳屋」だ。
その先に「楓」と言う親戚の旅館もあった。
祖母とせの実家、生駒家はこの家の筋向いの「喜代門」とその前を潟に沿い北に行き、橋を渡ったところの別館の2つの温泉宿を経営していた。生駒家は母たちの従兄、生駒 倫造さんが当主だったが、当時はまだ中国戦線から復員していなかったそうだ。
南側にもう一本道があり、そこにお菓子屋や商店があったと記憶している。川向うにも小さな家が何軒か、全部で30軒くらい、200人くらいが暮らしていたのではないか・・

湯川の家の北側には川が護岸はしっかりしていた、その先が潟だ。
「ゆかし潟」とか言ったそうだが、そこに弘資叔父が小舟を浮かべ、また家にあった使われてない田舟と言う、苗を植える時に使う、幅50㎝、長さ80㎝ほどの長方形の平たい舟を浮かべ遊んだものだ。

先日、テレビの紀行番組を見ていたら、この潟、温泉が流れ込むから緑色で澄んだ水とは思えないが、底に大きなカニが生息しており、それが珍味だと言うことをお笑いタレが報じていた。潟は淡水と海水が混ざり、満ち潮になるとひたひたと、家の横の小川まで水位が上がった。ボラ、スズキ、フグ、クラゲなどが。釣りをしていた人もいてあこがれたが、ここでは釣りはしたことがなった。
「ゆかし潟」という名は佐藤 春夫の命名だそう。

家の裏の川も遊び場だった。岩だらけだったが、怪我もせず。
事件と言えば、敬久が二階の手すりから地面に落ちた。
手すりに布団が干してあり、その上に猫が寝ていた。それを脅かそうとして自分が布団ごと滑り落ちたのだ。地面は相当固いものだったが布団と一緒に落下したので、怪我はなかった。弘資叔父が下にいた。
同じころ、僕が家と潟の間の広場に2mくらいの高さに積んであった材木の上に登り、材木がゴロゴロと崩れ、その下敷きになったことがあった。久彦祖父が下にいた。これも気を失ったがコブができたくらいで怪我はなかった。夏は毎日のように川、潟、海岸で遊んだが水難にも遭なかった。幸運だったのか・・・
難民生活の終わり、戦後の始まり
難民生活の終了は昭和21年1946、1月1日に僕が宣言した。
「おめでとうございます」と大声でみんなに挨拶したそうだ。
昭和20年の冬は大変だっただろうが、21年の正月、それなりに家族は明るく写真には残っている。

かくして、難民生活は4カ月で終了して各自、自分の家族の「戦後」が始まった。久彦家の戦後はあとで振り返れば順調だったのではないか。弘資叔父は京都で学生生活に戻った。
家の周りには畑があり、昭和21年の春には何かを植えて食料にしたのだろう。田んぼの稲は誰が植え、刈ったのかは知らない。弘資叔父の話では久彦祖父と中村さん、それに人を雇っていたらしい。

インフレは進んだが母が妊婦に化けて腹に巻いてきた現金などがあったのか・・母や叔母は料理をしたこともなければ農業も未知な
世界だから、祖母が生活は仕切っていたのだろう。
毎晩、皆で喜代門に風呂に入りに行った。
戻ると甕の冷たい水を飲んだ。家の裏のポンプの水は飲まず、どこからか誰かが汲んで飲み水は置いてあった。腹も壊さなかった。
だから3-5歳の僕は外で走り周り、何とか食事もして、夜は温泉、ぐっすり寝ると言う生活を過ごしていた。人生で一番、のんきな時代だった。
ある初夏の日、そこにいた家族全員で湯川の駅前の砂浜に弁当をもって行った。天気の良い初夏、多分昭和21年だった。流木を集め焚火をしてカンに海水を入れて塩を作ろうとしたのだ。その企てが成功したのか?多分、塩辛い水しかできなかっただろう。皆、海に入った。列車が駅に止まり窓が鈴なりなったそうだ。母や叔母は20代前半、見ものだったのではないか?
朝鮮半島にいた時期とは毎日、毎日違う生活、現在で言えばキャンプ気分であったかもしれない。楽しい思い出だ。
恐らく、昭和21年の正月、家族たちは何か新しいことをしなければと強く感じていたのではないか、難民生活は4カ月で終わり、戦後が始まった。
災害の連続を経験した

昭和21年12月の大地震の後、湯川にいた昭和22年の夏前に洪水に遭った。
家も被害を受けた。下が冠水したのだ。明け方だろう、おばあさまの声で目が覚めた。その時は彼女、喜美子叔母、敬久と僕の4人しかいなかった。降り続いた大雨と潟の満潮が重なったのだろう。
真っ暗、おばあさまが下に降りて布団や荷物を2階に上げていた。
階段の途中には喜美子叔母が、布団を上に投げる、それらを僕や敬久も必死で引っ張った。僕の唯一の洪水体験だ。ここのところの異常気象を見ると川の近くには絶対に住めないと感じている。
そして父親と湯川に来る途中に宇久井のあたりで列車から山火事も見た。僕は難民だけでなく、地震、洪水を体験したことになる。
どんな災害が来ても大丈夫な度胸はあるか?
疑問だ、トラウマは残っているようだ。
湯川の話をすると僕の記憶は全開だ。なぜこの年になり、RAMメモリドライブフルパワーか?孫たちのせいだと思う。
コロナ禍で十分に会えないが、夏の山荘での合宿、電話、そして家にいる男。彼は自分以外では初めてみるやんちゃだが、彼とこの年になるまで並べたこともない将棋をしたりした、一緒に遊ぶのでその年齢のブレインモードが戻っているのだろう。
少子化は社会の大きな課題だが、子供がいてまたその子供がいる、これは個人の問題だが、僕の場合は必要だった。
そして昨今の世界の難民ニュースを見て感じることがある。
久彦家の難民生活は国や自治体の援助はほとんどなかった。それでも難民は4か月で卒業し自立した。これは他の日本人もほぼ同じだ。日本にも大勢の難民がいたことを忘れてはならない。
もし援助を受けて何年間も難民生活をしたら自助努力は衰え、そのままの状態が永遠に続くのではないか。
このことは国連で話したいような内容ではないか。