章夫(ゆきお)叔父先祖説への疑問

我系は源氏や天皇家に直接関わるすじではないようだ。ましてや義仲系ではない。

章夫叔父の先祖研究

彼は日本大学農学部教授・農学博士であり、29代須川 長右衛門 竹吉(たけきち)の三男である。私の父、豊、医学博士と兄弟で博士だったと、故郷では評判になった。

章夫叔父のレポート

彼が須川家系譜を調べはじめたのは昭和50年1975頃だろう、昭和54年1979にまとめた「紀州須川村上系の由来と親族の系図」と言う小冊子がある。
以来、私たちにもその内容を熱心に説明してくれた。当時、私はあまり先祖の歴史に興味がなくそんなものかと感じた程度だったが、今読み返すと様々な疑問がある。
私も様々な彼との会話を思い起こすと一種の謎というべき確執すら感じる。私の父、豊は彼の先祖調べに関しては終始ノーコメントだった。そして、彼のまとめた紀州須川氏の内容、それらが極端に言えば、ボーガスであるのではないか?と感じはじめた。
その感じは、多角的に自分の歴史知識と家族論、地域、時代、そして、先祖がどういう意識で生活していたか・・客観性を組み立てることへの動機を与えてくれた。

須川 長右衛門家情報の整理

彼のまとめた文章およびその後、一朗従兄をはじめいろいろな方からお話を聴き合理性のある項目は以下のようになろう。
まずは、
須川家は32代続いている。このような継承の話は親から子、子から孫に言うことなので、途中で数字が大きく変わってしまうことは少ないと考えられる。
〇それなりの長い歴史の家族なのだ。
〇家業は山林業であった。
〇18世紀以降の先祖の系譜は位牌などで明らかである。
〇17世紀以前は明確でなかった。
〇18世紀以降、熊野で2-3回転居していた。
〇家主は宝永以降、長兵衛、長市、長七そして長右衛門などの名前であった。
〇家紋は五三の桐である。
〇大塔の宮、護良親王の兜が家宝と言う伝承があった。
〇血統が絶えたことはない。
〇17世紀以降は臨済宗であった。
などである。

須川氏村上源氏説 (叔父による)
章夫叔父の須川 長右衛門家の先祖起源は、「清和天皇」であるとした。

56代、清和天皇 嘉祥3年850―元慶4年881 清和源氏、源姓の祖

 

清和天皇の子孫、村上 清重が紀州に落ち延び、古座川に入り、彼らの子孫が、須川 長右衛門家とするものだ。(村上姓の源氏は村上天皇系とするが、清和天皇系、源姓にのちに村上姓はみられる。)
章夫叔父は「村上家系」源氏説にこだわったのであろうか? 
何らかの村上天皇家とのつながりが伝えられていたのだろう。

源氏ブーム
彼が須川家を源氏だと走った時代背景を考えると昭和41年1966のNHK大河ドラマに大仏 次郎原作「源義経」があった。それ以来、日本では源氏はブームになりその認知度の高さは大変なものがあった。NHKさんの大河ドラマの日本全国と歴史評価に対する影響力は大変に大きい。この傾向は令和の時代でも続いている。
NHKさんは「平家は悪い、源氏は良い」の勧善懲悪を歴史にはめ込み利用しているのだ。
従来よりも歌舞伎など、源氏はかっこ良い、特に義経や義仲だと言うイメージに日本人は支配されていた。NHKさんはその期待に応え、北条家や鎌倉を舞台にした大河ドラマを作り続けている。こういう世論があった。(NHKさんの大河ドラマは歴史が見ると毎回、間違いの連続だが、彼らはドラマ、つまりフィクションで済ましている)

古座川の村上家
紀州古座川に村上家直系家との繋がり
この村上 清重に始まる家族は神社、お祭りその他伝承があり、市朗従兄から、写真も見せていただいた。立派な人々だ。

古座川町観光協会より、丸山神社 天照大神を祀る
古座川は古い郷らしい。大和時代5世紀後半に朝日氏がこの地に
逃れ生活していた。

古座の丸山神社、若宮神社など村上家とゆかりの深い場所も数ある。古座川の村上家は清和天皇来の由緒ある家柄であることは間違いないだろう。村上 清重は清和天皇に発する天皇家の子孫であり、承久6年1224、都で敗れた一族70余名が、舟で串本辺りに上陸し、山のなか20kmくらいの奥地を朝日氏と開発して住んでいた。慶長年間、浅野家より、材木売買の口をとる(利益を出す)ことを認められたそうだ。熊野一揆にも加わっていなかったようだ。清和天皇は源氏の本元であった。江戸期にはこの郷では村上、朝日の姓はみられない。(紀伊続風土記現代語)

しかしながら、須川がその方々の家系と同じということはあり得ない。どこかで分かれたということはあるかもしれないが。章夫叔父は直線距離で、10kmほど離れたその由来のある家族の家を訪ねて、ここから分かれたと直感を得たのかもしれない。それ以前に熊野では、「村上がきた」とか、「誰それの妻は村上家だ」というような伝聞が多くあり、それらの背景も否定できない。古座川西川の村上 清重系は地形をみると北ノ川、モチノキから距離的に8kmくらいの谷の端が子孫がいたところだ。

現在は直行する道路はないが、かっては山を越え歩いて行き来したのであろう。昔の人の足でも片道2時間は掛かる距離だが。ちなみに江戸期には行き来ができなかつたとの記録がある。

地理的な近さ、清重家も長右衛門家も江戸期の庄屋としての横のつながり、姻戚関係、その他もろもろの親近感が醸成されていたことは

否定できない。(菊次郎の項で書く)

清和源氏、村上家の一般性
ちなみに「うちは源氏だ」は第56代清和天皇、9世紀に発する源氏は、分かれて、全国津々浦々に散らばった。どこにでも「うちは清和天皇に発する源氏だ」と称す人々が多くいる。
その背景は明治―昭和時代、村上は日本全国田舎のブームであったことに由来する。清和源氏は全国に展開、地方の古い家では、「うちもそうかも知れない」的だったのではないか?
昭和の時代、家系図製作本舗が流行った。特定のところで「清和源氏家系制作本舗」という広告も出ており、これは現在でもネット上、現在する。

章夫叔父の性格からして彼は商業主義に踊らされたのかもしれない。
恐らく、須川氏は源氏でも平家でもない。ましてや、木曽や水軍とは関係がないと断定できる。昭和41年冬、兄の正雄が亡くなった。
その時期、彼は先祖に興味を持った。

須川長右衛門家に伝わる「村上 清重」の位牌、紀州では有名な人だ。
これも専門家に言わせると、位牌は必ずしも先祖のものではないと。
その家にゆかりがあるはともかく、尊敬する人の位牌を置くところもあるそうだ。例えば「藤原 鎌足」もそのひとつだそうだ。
一族、頭が良くなるようにと・・
村上 清重、清和天皇系の源氏は朝廷に近かったが、鎌倉の北条氏とは受けいれられない存在で、承久の乱は日本史上最大の事件と言われたほどの事件であったので(山本 七平)その影響は大きかったのだろう。

自然災害の家族への影響
そして、章夫叔父は、深刻な歴史事実を見逃していた。そのひとつは

宝永大地震だ。宝永4年1707

日本の歴史上、最大の地震、須川の家は震源地に近かった。須川家被害は人的にも物的にも甚大なものがあったにちがいない。そして先祖を示す資料の多くを失ったに違いない。だが、そこで家は入れ替わったか?そんなことはない。何代と言う数字的なもの以外にも家の人間や精神は生き続けてはずだ。(宝永大地震の項参照)

奈良と和歌山境の小林村の様相 紀州藩の記録図

特殊詐欺的な村上家系図
彼が村上家に固執した背景のひとつは、先にも述べたが、高度成長期ひとつのブームが日本の多くの家族に間違った先祖感、その「盛り上げ」をもたらしたのではないか?と思う。
彼の人柄の良さが家系製作本舗の餌食になったのかもしれない。

この本は昭和50年に東京都中野区沼袋の村上 清が発刊した。B5判657ページ、布張り表紙、箱入りの立派なものだが、定価は記載ない。清さんは「おたくは村上家の直系」ではないかと全国の村上家ゆかりの人々から情報を集めこの本を構成した。そして各々にまとまった数を買わせたのだ。商業主義としか思えない。
その一ページに紀州村上家、村上 清重 宝治2年1247年没古座川に逃れた、が創始とある。そこから分かれ、モチノキに住んだと。
そして、須川家に村上 清重の位牌がある、との事実にこだわったのではないか?
明治初期の須川家 菊次郎の時代には確かに尊皇の気配が全国的に強く、とくに須川家のいた地域は強かった。(菊次郎の項で書く)

熊楠研究の無視
章夫叔父は宝永大地震を考慮していなかったが、その他の現実的視点では、南方 熊楠をまったく無視していたようだ。農学者であった彼が生物学者の熊楠を知らない訳がない。杉田 定市さんの手紙は手に入れていた。彼は、奈良の須川 長兵衛のことは「杉田さんが混同しており、内容も岩から老人を突き落とすなど、まったくのナンセンス」と片付けていた。熊楠の茶化したような口調が文章になったせいもある。だが、この現象は彼の文章や口述を読む限り、あらゆるところに出てくるが、背景の現実だけを選ぶと理論は明確だ。

そして、請川の須川(忠兵衛)の家を「平家、敵」としていたが、

忠兵衛家と長兵衛家が同じ家紋であり、徳川政権樹立前後にともに熊野で活動し始めた事実を無視できないはずだ。彼の仲の良い従弟、須川 謙一(小口郵便局長)は地理的な近さと彼の職業柄この事実を認識していたはずだったが・・

熊楠は請川の須川平家説を疑問としていた。

請川の須川家は明治時代にすでに田辺に出て歯科医として熊楠を知り合いであったし、熊楠は請川と北ノ川の須川は口述記録で一族とし混同して述べていた。

以下、章夫叔父の記述、発言の謎
●彼が言う「先祖は敵に追われて、2回、奥地へと移転した」と述べていたが、江戸期、徳川幕府、紀州藩の確立された制度が家間の私闘を許すわけがない。移転は災害とか、商品化できる材木の所在、つまり生産の効率を求めてだ。
●章夫叔父は彼の時代、つまり大正期から昭和、「北ノ川の家には甲冑、刀剣、弓矢などがあった」ということだが、火事ですべてを失ったという記述とは矛盾している。
どの程度の武器かは推察できないが、江戸期、農民には庄屋でも大規模な武装は許されてなかった。
●家に伝わる「村上 清重」の位牌、これも火事で全て焼けたという記述とは矛盾がある。少なくとも宝永地震のあとのものだろう。
●明治維新になり村上から須川に改名したとしているが、なぜ須川という姓を選んだのだ。
章夫叔父は他の日本の多くの家族のように「先祖の盛り上げ」を望み、それをしたのではないか?というのが私の厳しい推測だ。

姓氏の変遷はあったか?
明治になり村上から須川に改名したという説は以下の理由でまったく合理的でない。
ずっと昔から村上姓なら須川姓に変える必要はなかった。
「村上とか菊」と言う文字はそれ自体が天皇家を意味しているわけだった。だから、
明治維新で勤王派が勢いを持った時にとても意義がある名前で明治的な姓であったはずだ。
「村上 菊次郎」はまさに象徴的なものだった。その村上を江戸期が終了してから、「須川」に変更したと言うのは理屈に合わない。
むしろ「須川」という姓を地帯の姓のなかった人々に使わせたと言うほうが一般的だ。
モチノキの須川 菊次郎建立の神社に「村上菊次郎」を記したのは別な意味であろうと推察する。(菊次郎の項で記す)

時間的矛盾点
須川 長右衛門家は32代とすると約800年間、1200年頃創始ということになるが、清和天皇は9世紀の人、300年以上ギャップがある。あと14代くらい継ぎ足さないと計算が合わない。
1221年、承久の変があり、朝廷が幕府に敗れ、鎌倉幕府が荘園制を拡大させた時代だ。荘園は寄進地系となり畿内有力寺社が13世紀半ばには荘園の私的支配を強め領家化した。そういう意味では須川家の歴史は寺社系荘園の始まったと言う事実はまったく合う。大和の須川一族は他の古くからの土豪、荘園主の柳生、福岡などと16世紀末の太閤検地で奈良の地を追われて現在はそれらの名前は奈良県にない。
彼らは和歌山、三重、京都などに移住し帰農したのだ。
もしくは一部は他家に仕官した。
16世紀末、日本史が中世から近世に代わるまさにその時、武家から
庄屋(農民)に転換したのだった。
須川一族は奈良の山林運営をそのまま引き継ぎ熊野に移住してのではないかというのは確実な事実だ。
牟呂郡の須川 長兵衛、須川 忠兵衛、須川 郡兵衛、 須川 隣兵衛はもと は一族であり、それぞれの林業運営の場所と任務を持ち場にしたのではないか?
(忠兵衛家は地勢的に山林を運営するより運搬業務だったのではないか・・より近世的な内容の)

太閤検地と時代の変化
太閤検地とその影響は日本史上、中世から近世への大きな転換期とされている。当時の多くの日本人が影響を受けた。

なお須川一族が熊野に入り活動し始めた背景には豊臣政権に反抗した熊野北山一揆があろう。豊臣 秀長は一揆に厳しく対処しその地域に空白ができたのだ。(速水 融博士の研究、須川氏移転の項)
秀長は同じく大和の寺社勢力、武家にも厳しく当り、帰納か移転を迫った。(奈良市教育委員会)

勲章夫叔父が作成した系図を仔細に眺めると、宝永地震の前、18世紀以前の名前は天安2年858、清和天皇にさかのぼる。およそ850年間、他の系図を活用していたことが疑われる。

彼は出征するとき軍刀を和歌山のデパートで購入したそうだが、時々家には武具、刀は沢山あったと言っていた。火事で全てを失ったとも矛盾する。

章夫叔父の先祖研究功績
彼はかなり熱心に昭和の須川家家系を調査しては、誰は誰それの、その孫はという一種の家系図(ファミリーツリー)を製作した。

その調査は長右衛門家だけでなく、久彦家の明治以降までに及んでいた。それらの調査は今になり、一層人々が広く散らばった状況で

はありがたいものだ。しかし現在では個人情報の問題があり、誰しもに公開するべきもので無くなった。

私は章夫叔父を良く知っていたが彼は善人なのだ。
そして彼は熱心に家族の関係を調べた。
その作成した小冊子なしには私の興味は先祖に行かなかった。
そして、今、私が、彼に私たちの先祖、須川 長右衛門家は南方 熊楠が100年前、大正時代に言ったように、大和 須川 長兵衛家が、速水 融博士の研究の背景で、熊野に移転してきたのですよ、と言えば科学者であった彼は納得するはずだ。

章夫叔父 昭和30年1955夏、新潟港 知的な男であり、ユーモアもあった

(この項以上)

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