南方 熊楠(みなかた くまぐす)と須川家

研究調査のため熊野を歩いていた熊楠が川湯薬師堂で寛永2年、須川 忠兵衛が寄進した石の手水鉢や灯篭を見た。

熊野 須川 長兵衛(長右衛門)家の系譜

長兵衛(長右衛門)家は江戸期半ば、17世紀になってからはかなり詳細に判明している。叔父 須川 章夫(ゆきお)と従兄 市朗(いちろう)がまとめた資料がある。しかし江戸中期以前、数百年間は不詳、天皇家に繋がりがあった村上家(清和天皇系)と言う漠然としたものだった。
一方、南方 熊楠(みなかた くまぐす)先生が口述した「紀州須川家」大正14年3月「東牟呂郡請川村の須川家」5ページ分には請川の須川 徳郷(とくごう)家のことが目的に書かれたようだが、得郷家の部分は茶化したような内容で2ページ、そして3ページほどは一番古い須川家、つまり 長兵衛家に関してのものだ。また江戸期以前、戦国期の様子がある。その中に2度、大塔の宮・護良親王の兜と杯の話が出て来る。
熊楠先生はこの兜は明治政府が天皇家ゆかりのものを収集した際に在野から集めたものと推測していたように口述していたが・・
一方、熊楠先生が紀州須川家ルーツに関して口述した内容はふざけた調子と事実でない内容もあるが、大筋は具体的、客観的で私はある程度、正確な内容・・と思う。
この文は口述なので、語りたいコンテンツの合間の軽口、おしゃべりも同等に記述されているので、信ぴょう性が疑われていた。
だが、内容は奈良の地方民俗研究家杉田 定一さんに依頼して古文書などからまとめられた文書で信用できる。(別途記す)
大正期、田辺の歯科医須川 寛得(かんとく)氏と熊楠先生が知り合いで寛得氏の先祖、請川の須川 徳郷家の話を口述しているうちに長兵衛家(長右衛門家)の話と混同したのだった。
熊楠先生によれば、徳郷家は一番古い小口畝畑の須川 長兵衛家から分かれたとしていた。

南方 熊楠(みなかた くまぐす)先生

南方 熊楠は, 慶応3年、1867生まれー昭和16年、1941没、は大変な人だった。現在、小口の須川 謙一(父の従弟)の
家だったところには、南方さんと言う方が住んでいるが、もしかしたら、南方と須川は、何かの縁があったのかもしれない。熊楠先生の姉が色川に嫁に行ったとの口述もある。そして口述内容は基本的に彼は須川家フアンであったとの感が強く表れているが・・

南方 熊楠先生は植物学、民俗学、博物学の権威だ。明治期に米国に渡り5年間ほど、勉強や研究をして、英国に渡り大英博物館の入館資格を得て、研究を続けていた。多くの文を科学雑誌「ネイチャー」
誌に投稿した。言語力は言うまでもなく、観察力、分析力に秀でた人だった。その彼が須川家に関心を抱いて呉れたのは実に我が家の歴史を研究する意味で助けになった。また彼の独特の事象を多角的に結び付け結論を出す科学的手法は現在でも学術研究には使われており、分析力は信用できる。それは、 
「第25回(熊楠顕彰館)特別企画展」―100年早かった智の人―に
智の構造を探る」に彼の情報処理の記述がある。
情報源(文献)→データベース(抜き書き)→データのリンク(腹稿)
とまとめる手法は現在のコンピューターでの思考と変わらない優れたものだ。
独特の性格で茶化したり、冗談を交えてはいるが・・・また、「水木 しげる」世界観的な感覚を理解するものでないと彼の一面も分からないだろう。
彼が言ってくれたから、紀州須川 長衛門(長兵衛)家の歴史が解明された。

別冊太陽平凡社 南方 熊楠

熊楠先生はエコロジー論の元祖のような研究者で紀伊半島の植物、特に粘菌の発見に功績があった。昭和天皇のご研究史にもその活動は出て来た。那智と、田辺に住み熊野一体は彼の縄張りであった。
須川 徳郷家に関しては現当主、田辺の須川 委洪氏とお話したが、先々代、須川 寛得氏のことから口述始めたらしい。だが、おおよその具体的内容は須川 長兵衛家のことだった。請川、川湯薬師寺の石塔などの寄進物は須川 徳郷家の先祖須川 忠兵衛家の寄進によるものであると思われる。(須川 徳郷家の項で書く)
現在、多くの石塔は災害で倒れ、手水鉢が残っている。 
「寛永弐年申 須川忠兵衛 寄進」とあり、五三の桐、紋が大きく側面に入っている。家紋は長兵衛家を同じであり、17世紀初頭
血縁があったことを示している。長兵衛と忠兵衛は兄弟か従弟同士であった可能性は高い。寛永二年は1625年、徳川家の統治が始まった頃だ。

2015年12月撮影した実物

南方 熊楠全集の須川家 大正13年1924

熊楠先生の須川家に関して口述した記事は南方熊楠全集6に5ページにわたり記載されているが、HPでも「紀州須川家」で検索できる。
4つの記事になっている。


彼が言うように植物研究で知り合った奈良県北部山添に明治から大正時代にかけて、杉田 定一さんがまとめた「柳生六百年史」の中に
「須川 長兵衛」と言う柳生新陰流の高弟がおり、その名前に興味を持ち調査してもらったのだ。
熊楠先生が昭和天皇ご興味を持たれたテーマを研究した田辺には
「南方熊楠顕彰館」という立派な施設があり、学芸員さんが熊楠と杉田さんの交換文書と「柳生六百年史」を公開してくれた。田辺には彼の植物研究の聖地、天然記念物、神島がある。彼の住居もされ保存されていた。
奈良市教育委員会によると杉田さんは奈良県北部の郷土史研究家で
一揆の記録を発見した人だそうだ。
杉田 定一さんの熊楠先生への報告は地図も添付され真面目な内容だ。
杉田氏の研究テーマ上、須川 長兵衛のちの柳生 内蔵助の消息に関する情報は多いがまた大和須川氏に関しては多門院日記や奈良、京都の古文書を参考に正確な内容と判断できる。
また熊楠先生は、大和武士は寺社の大和支配を背景にして発生したので、源氏平家を超えた地場の勢力でいう事あったとの事実を杉田氏との交流で理解していたようだ。

田辺市、南方熊楠顕彰館

〒646-0035和歌山県田辺市中屋敷町36番地

紀州、須川家の歴史解明にこの施設の資料は大いに貢献したくれている。

彼の紀州須川家口述内容に関する茶化しの件だが、
徳郷家の記事は5ページの2ページほどだが、そこにもかなりある。
「椿の木で槌を作ってはいけない、夜中に大工が忘れた天井裏の槌が勝手に暴れだした。この天井裏には盗賊が2年間隠れていた。
家が大きすぎて、朝、雨戸をあけ始めると夕方になりすぐにまた閉める。」
長兵衛家の記述は3ページだが、「牛が生まれて死ぬまで出ることができないような谷底に住んでいる。姥捨ての岩があり、年寄をそこから落とす。」
以上のごとく、彼独特の水木 しげる的なユーモアで語ったのだろうが、文字になると深刻に読める。
彼はこの口述の中で、自分は須川家と縁のある者で、須川家が大和須川から来た、とのことが判明して「大いに慶賀喜悦すべき快事である」と結んでいた。
(この項以上)

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