家族の英雄だった須川 濟(わたる)

母の兄だ。須川 久彦、とせ、男女7人子の三男、大正8年1918生まれ、同志社大学に学んだ。部活で頭角を現した。最初は自動車部だったが航空部でグライダー操縦をやり上級機に乗っていた。昭和15年1940年東京五輪のグライダー競技の選手に選ばれたが、それが中止となり朝日新聞社が企画した学生航空連盟全国一周飛行を関西チームキャプテンではじめから終わりまで日本一周飛んだ。「皇記2500年日本一周飛行」と言う企画で帝国陸軍が支援し九三式練習機が使われた。

僕のあるはずのない記憶にもある彼は存在する。

僕が2歳前だった。彼は昭和19年の夏、新鋭機一〇〇式司令部偵察機を日本本土、たぶん岐阜だろうから中国大陸武漢まで空輸する途中、京城に寄ったのだ。実家は金浦陸軍飛行場から遠くなかったので、

低空飛行を家の上空で飛び去ったそうだ。

昭和19年8月23日最後の帰省とある、兄弟は揃っていた後ろの
赤ん坊が私だ、左端は宮崎 昇大尉 家族だけの一枚、京城自宅玄関

これが戦争中、ただ一度で最後の実家への帰省だったそうだ。客が帰り、彼がひとり、中国戦線への飛行で休息をとるために座敷で昼寝をしている最中、僕がふすまを開けて声をかけたそうだ。

それは自分の記憶というより後に母,祖母から繰り返しこのことを話されたからだろう。

彼の帰宅は家族の大イベントだったようだ、疲れて武漢への飛行のために休んでいた濟伯父

この後、金浦基地には宮崎 昇叔父、陸軍大尉の手配の車で、弘資叔父が一緒に見送りに行ったそうだ。それは家族が濟伯父を見た最後で彼は昭和19年1944、11月19日に戦死した。

彼は武漢の支那派遣軍陸軍航空隊の所属であったが、日本軍が当時、行っていた「大陸打通作戦」と言う大きな作戦中、湖南省衡陽(こなんしょう、こうよう)から漢口の基地に夜間戻る途中に夜間戦闘機の攻撃を受けた。翌月、12月には漢口は大空襲を受けたので制空権は明らかに日本側になかった。

同乗していた戦闘機操縦士13名も全員戦死したそうだ。

(青木少将の書状より)

日本軍占領地に墜落したので、遺骨は和歌山市の寺に行李とともに戻っていたそうだ。その中に刀も入っていた。

軍刀と包んであった五三桐紋の風呂敷 兼定

濟伯父の家族

僕は大学3年の時、新宮に寄った。久(ひさし)伯父から話があると言われた。彼はいつも気前良く小遣いを呉れたがこの時は1万円。

「しげおちゃん。君も知っている濟の昔の彼女からおばあさまに手紙が来た。」

祖母に来た手紙の送り主に会いに行って呉れと言うのだ。

その人は奈良の斑鳩の住所だった。僕は八尾に行くことになっていたので、快く引き受けた。

そして、学生服姿で斑鳩の玄関に逆光で現れた僕にその人はとても驚いたそうだった。寿司をごちそうになった。

伯父が学生時代付き合っていた女性(学生だったそうだ)との間には娘がいた。

その娘は僕の従妹に当たるがその人の息子は現在、カルフォルニア、ベイエリアで家族を持ちハイテク系の仕事をしている。

子供たちはすでにアメリカ人で、さぞ優秀であろうと思う。

僕の母は僕が斑鳩に行ったあとをひきつぎ、その人と付き合っていたので、その後の事情は分かっていた。戦争直前でもあり祖母が結婚を許さなかったのだ。昔はそういうことがあったらしい。

濟伯父の戦歴

陸軍航空隊に入隊し、職業軍人になった。浜松で訓練を受けた。昭和16年、少尉に任官、九七式重爆撃機の操縦士となり、開戦後、小隊長としてベトナム半島、ヒリッピン、シンガポール、ニューブリテン島を転戦し、オーストラリア・ダーゥイン爆撃にも参加したそうだ。

濟伯父の式帯

その細かい祖父との手紙のやり取り、書類、地図、みやげなどは祖父が作った箱に収納され、現在は私の弟、恒次(つねじ)が保管している。軍刀「兼定」は私が保管している。祖父は朝鮮を引き上げる時に金目のものよりも家族の写真や記念のものを身に付けて帰国したようだ。最後の実家への際の写真は何カットかあった。

「ちょこまんさん」

彼の学生時代の仲間、関西の学生航空連盟教官、彼らは彼に子供がいたことは薄々知っていたか、私を何か縁のある存在と思っていたようだ。

濟伯父のことはそれら教官からも良く聞いた。音楽や写真そして車が好きで、気前よく友におごってそうだ。

学連の仲間には「ちょこまんさん」と呼ばれていたそうだ。

「チョコレート饅頭」と言うお菓子があり、それをよく差し入れしたのか、自分が好きだったのか、小さくて色が黒かったのか、恐らく全部がその名前の由来だったろう。

抜群の運動神経、反射力をもっていたことも語られている。

カメラと現像機器は絶えず移動の際も航空機とともに運搬し各地が撮影した写真が数多く残っている。美人の写真もある。

僕の両親、祖父祖母、伯父伯母、叔父叔母たちにとっては26歳で戦死した濟はいつも青年として彼らの心にあったようだ。よく話題になった。彼が帰省するといつも聴いていたのは「男の純情」だった

と母から聞いた。

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サイゴンの飛行基地 昭和17年
昭和16年出征の時の記念写真、前列左、岸 達之介
何となく、家族の不安も出ていた一枚だ。僕の父豊、右端後ろはそっぽを向いてた
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