
須川 謙一(けんいち)さん(大正3年生1914-平成25年没2013、享年100歳)は小口の郵便局長だった。現在、郵便局はないと聞いたが、存在しているそうだ。
謙一さんは父の従弟で近い親戚だった。30代長右衛門、竹吉の弟、金五郎が父だ。金五郎が1910年頃、郵便局を開設しそれを継いだ。章夫(ゆきお)叔父が年齢も近く親しくしていた。彼がいたから章夫叔父は小口に家を買い、教授の仕事は休みが長いのでそこで過ごしていた。謙一さんの家は小口の町の真ん中にあり、手前が郵便局だった。1970年の始め頃建てられたのではないか・・

謙一さんには3人の私たちと同年代の息子がいたが、全員東京の学校に行っており、1970年当時は横浜の私の両親の家にも訪れていた。
長男、須川 真澄氏は学校を卒業して就職したが、大阪の郵便局長になり、次男も郵便局を、三男は東京で歯科医と皆活躍している。
1977年の夏に章夫叔父の家に泊まり、謙一さんの母、はるゑ さんの話を聞いた。はるゑ さんは明治26年1894生まれ、昭和61年1986、没、享年94歳だった。
彼女は湯川から嫁にきたとのことで、実家は老舗の旅館柳屋だった。
母方の祖母と私が大学生の時にそのとなりの旅館に行き、おいしい温泉旅館料理のフルコースを食べた記憶があった。近いところだった。
ばあちゃんはいろいろ北の川の生活についての話をしてくれたが、嫁に来たとき、嫁入り道具の箪笥の角が狭い道のため角が削れて、まずはそれがとても悲しかったと。同行の親戚の人が「こんな山奥、もう帰ろう」と言ってくれたそうだ。湯川から北の川まで徒歩で行けば一日で到着するものか?多分無理だ。色川で一泊したくらいの旅程だ。
彼女は同じ紀州でも海岸部、浦の生まれ育ち、山部への嫁入りは生活が変わり大変だったようだ。雨が降りそうになると駆り出され山の木を叩きに行ったそうだ。菌を落としキノコを出すためだったそうだ。
食べ物、舅や家族との関係、様々な不便、参ったらしいが昔の人だ。
我慢した。
「何を食べていたのですか?」
とに、一日5食、熊野では良く出る「茶粥」だったそうだ。それに植物系のおかずが。何と、今考えると理想的な健康食だ。胃は大きくならず、内臓に負担を掛けず、その場のエネルギーだけ補充するのだから、成人病など関係のない数値だっただろう。
彼女が作った熊野の発酵食「なれ寿司」を「食べるかのう」と出してくれたが、ちゃんと簡易版もあり、そっちをいただいた。

なれ寿司はアジアにもある発酵食品だ。北の川など山の食べ物はどのようなものだったか今では想像もつかない。田んぼは十分にないから、米は移入だ。味噌、醤油は自家製と言っていた。菜種油は使ったのか?雑穀、芋、豆、野菜、キノコ類、山菜類、栗や胡桃などの木の実、梅とか柿などの果物すべてオーガニックだ。蕎麦や饂飩は食べたのか。お茶はあの辺りに沢山栽培されていて重要なものだった。塩づけのサンマなどは来ていたと聞いた。
鳥や卵はどうだったのか。川魚は分量的には十分でない。獣はどうだったのか。猪は今でも沢山いるが落とし罠で比較的簡単にとれる。
今は天然記念物だが、日本カモシカを食べたらしい。世界中どこでもそうだが、私たちには3-4世代前に先祖が食べていたものが分からない。私も数値を下げるなら100年前の北ノ川の生活にして1年経てば完璧になろう。
小口は二つの川、和田川、小口川の合流で、その水量はかなりあり、水は透き通り、底まで見えるところに吊り橋が掛かっていたが、今はもうない。川の合流に大きな岩が出ており、そこに神社がある。
名前の通り、熊野川に出る地帯は山が両側に迫り狭い。そこから赤木川となり、熊野川にそそぐ。昔の材木の出荷ルートだ。
昔はこの辺りを行きかう信仰のための行者の通過点だったと聞いた。
小口村の時代はここから奥に入り、畝畑(10m四方の畑という意味か、熊野川史の写真では意外に開けていた)、中平、そして北ノ川に至る。
宇江 敏勝著「森のめぐみ」53ページの地図、下、この地図はとても分かりやすい。

川に小石を投げ入れると大きなはやの群れが集まってきた。小口村は明治22年(1889)に発足した。1956年に熊野川町になり村は廃止されたが、当時の人口は1500人だった。小口は川の合流点から熊野川への出口が狭いのでこう呼ばれたが、川は北ノ川まで続いており、北ノ川から出した材木は小口で集められ、新宮まで筏に組まれたそうだ。(熊野川町史)

現在、先祖の地はどうも山岳スポーツ、ウオータークライミングとか、キャニオンニィングなどに向いているようだ。いろんなもの好きが自然を楽しむのだ。
須川 長右衛門家は村ができてから、3代、村長を務めた。
菊次郎、竹吉、正雄だ。
小口から請川(川湯)までは数kmだろう、車で走ると数分の距離だ。
その周辺には今はキャンプ場やバーベキュー場がある。
熊楠は大正年間、請川の須川忠兵衛家が小口の郵便局だと口述していたが、北ノ川須川長兵衛家の系列だった。
母方祖父須川 久彦は朝鮮で事業を行っていたころ、小口の寺に墓を建立した。地元の子供たちに河原の石を集めてもらいそれを高く積み上げたがデザイン的には今一つだった。現在は小口村から出征した6名の戦没者慰霊碑になっている。
母はこの時、昭和14年頃か、京城から夏季旅行で来たそうでとても楽しかったと。僕も小学生の頃、祖父久彦に連れられてバスで行って一泊した。浪曲の巡業が来ていた。
祖父久彦は小口には何か思いがあったのだろう。
その後、昭和54年(1979)夏、ここに家があった章夫叔父を訪問して2泊した。彼は山の生活の楽しみ、川遊びについて語ってくれた。
どこかで買ってきた天然うなぎを家の横の渓流に籠に入れてあって、それを料理してご馳走してくれた。関西のうなぎは蒸さないのと彼のこだわりの調理法が悪いのか苦味があり、あまり楽しめず、それは彼に率直に言った。
帰るときに新宮の駅に母方の芳子伯母とひろみ叔母が見送りに来て「小口はどうだったか?」と滞在経験をいろいろ聞かれた。
そんな思い出が小口にあり、2016年秋に奈良からレンタカーで訪問した際、その過疎化には驚いた。田舎暮らしを求め、移住してきた人々が住み、謙一さんの家には和歌山から来た、南方さんが住んでいた。
地政学的にみると奈良から一族が来たと仮定すると、請川(うけがわ)が手前にあり、日足(ひたり)小口(こぐち)が次だ。須川 忠兵衛が請川、長兵衛が小口、そして郡兵衛が新宮近くに定着してのではないか?各々の任務を分担してとも考えられるが。一族の到着にタイムラグがあったとも考えられる。
時代を経て、250年ほど、各々の家族は独自の道を歩み離れ離れになったというのは自然な推測だ。
私は須川 長兵衛は小口に入り、それから段々、奥に、宝永の大地震の後、北ノ川、モチノキに定着してのではないか?と推測するが。
材木の伐採、成長した樹木を求めて段々に奥に行ったのではないか?
忠兵衛、長兵衛、郡兵衛の家の家紋は五三の桐であり、それは大和の時代から同じものだっただろう。
熊野川通史平成20年には小口村には江戸期後期より銅山があり、住民の反対はあったが、活動していたと。
また通史には木村 靖という人が書いた「小口村のこといろいろ」という書物から様々な当時の生活の様子が記されていた。
謙一さんの妻、三千代さんは色川の大前家から嫁に来た。大正8年1919生まれ没年平成20年2008、享年89歳。やはり山の食生活が長寿の元ではないか・・
謙一さんの父、金五郎は明治18年生、1888―昭和7年没、1932)享年44歳だった。
地勢的にみると、須川 長右衛門家は、小口から入り、谷間沿いに海岸の方の出口、樫原、色川に抜ける方に向かっていたとみえる。
現在、謙一さんの長男、大阪在住の須川 真澄(ますみ)さんは近くに山林を有しており、家族や地域の情報を数々寄せてもらっている。