全国、須川 地名と苗字

川の流れを竹や木材で塞き止めることを「簀」と言った。簀川はそのような場所またはそういうことをする人の姓だったと考えられる。

はじめに)

「須川」と言う姓(苗字)と地名の由来には幾つかあるようだ。
漢字でも以下のように。
「簀川」「洲川」「酢川」そして「須川」だ。
「川」の代わりに「河」の字をつかうことも。
「簀」と言う字は木材や竹で川の水をせき止めるという意味で、堰(せき、主な材質が石)とも言う。「洲」は海や川が堆積で浅くなり水面に出た状態。「酢」は水質が酸性と言う。いずれも水や地面の状況を表す。漢字として「簀」は縁起の良い字と辞典にある。
「須」と言う字は、「髭」(ひげ)を表し、さらには樹木、杉を意味したと言われる。
この背景は神話の「須佐能の尊(すさのうのみこと)」が杉、檜(ひのき)の神だったとの由来だ。さらに縁起の良い字とされている。島根県の古代建築の柱もそのゆかりとされている。

一般的に、姓(苗字)や地名はそれぞれ以上のような事象に起因している。

鎌倉時代に地方に発生した土豪、武家などは支配者の姓(苗字)が地名になり、彼らがいなくなっても地名として残っているのが彼らのいた証拠と言われる。(石井 進著「中世武士団」「鎌倉武士の実像」)したがって、地名と姓(苗字)が重なる由来もある。
「大和 須川」の場合は地名と姓が同じであった。

江戸期までは姓(苗字)があったのは公家・武家だけであったが、明治3年1871の「平民苗字許可例」と同8年1876の「平民苗字必称義務令」で国民全員に苗字をつける、皆姓になった。
江戸期において平民も屋号として過去の苗字を保持することも一般的だった。

国土地理院古図写し、「簀河荘」は興福寺一条院方であり、そこから北、京都方面への道が「簀河路」であった。

1,地名

「須川」と言う地名は全国、幾つかにある。地形的にその多くは山の中で川の水をせき止めることを意味していたと考えられる。せき止めの理由は切り倒した材木を流して運搬するためだ。(司馬 遼太郎「街道をゆく」古座街道)
また川や水、温泉の水質を表した。

日本全国の「すがわ」の地名は、北から、
〇岩手県と秋田県の境、須川高原温泉
〇秋田県 雄勝郡東成瀬村 須川湖 キャンプ場
〇福島県 福島市 須川町 市中を流れる「須川」沿い、福島駅の近く「須川運動公園」として誰でも知っている地名だ。
〇群馬県 みなかみ町 須川宿 三国街道の山間にある古い宿場町

須川宿


〇長野県 須川ダム湖 キャンプ場
〇奈良県奈良市 須川町 須川ダム 若草山と笠置山の間の盆地 「須川城」が16世紀後半まであった。奈良と京都をドライブする通過点。13世紀の古図では「簀河荘」と記されていた。

奈良市の水源、須川ダム


〇京都府 丹後 須川 山の中、京都府丹後市栄町 
須川谷と言う僻地、江戸初期に人が移住したと言う。そこから
与謝郡伊根町舟屋にかけて集中している。
〇三重県松阪市旧須川村 現小野江町 海岸に近いところである。
北海道開拓で有名な松浦 武四郎生誕地。
〇山口県 錦町須川 須川キャンプ場
同 岩国市倉橋島 須川港
〇福岡県 上座郡 須川村

旧日田街道の古い村
この街道の先に大分に須川姓が多い。

〇長崎県 島原 須川港
地名の由来は不明だが、山口にも海外に須川の地名がある。
長崎県は須川姓の多い地域だ。

以上のようにみると、「すがわ」は圧倒的に山奥に多い。日本列島の
両側の海から離れているような。

また東北の地名も元は「簀」と書かれていたそうだ。「酢」は酸性と言う意味だったとの説もある。岩手、福島の地名。

2,姓(苗字)

「須川」と言う姓の人は全国に6300人いるそうだ
人数的には大阪府、東京都、埼玉県、神奈川県、北海道がいずれも4-500人で多い。人口が集中しているからだ。
(「日本姓氏語源辞典」より)
日本の姓には自然から発生したものが多いが、須、簀や川も自然に近い姓だ。「簀川」と書いたのは古い時代だ。

人口比10万人当たりでは、首都圏や関西圏を除くと、
和歌山県、三重県、京都府、大分県、長崎県、群馬県となる。
〇群馬県 前橋、高崎、藤岡に集中し400人 
人口比10万人あたり22人
〇京都府 與那郡伊根町舟屋の、130人 
京都のこの地になぜ須川姓がかたまっている。舟屋と半島の奥 地、京都府丹後市弥永町には「須川谷」というところがあり、そこを合わせると300人。
〇三重県 紀宝町と県の北、津市に集中して300人 人口比23人。紀宝町など県の西側は熊野川を挟み、和歌山県東牟婁郡と同じ系列ではないか・・昔の交通は川の両岸を行ったり来たりしたそうだ。
三重県の須川姓は須川洋行(母方従兄輝一の経営)をはじめ、鉄工、各種食品、大学教授、各種商店、建築、歯科医、理容など幅広い業種にわたる。ただし、地形上、伊勢より北の「伊勢須川」と熊野川周辺の「熊野須川」の2つは別な系統ではないか。
〇和歌山県 400人 人口比28人 新宮市に200人、県の半数だ。川の対岸三重と合わせるとかなりの比率になる。
〇長崎県 対馬など150人
〇大分県 大分 300人

対馬の「洲河」宅。対馬には須川姓は多い。
対馬の洲河さんに直接聞いたが、先祖は江戸初期、宗家を助けるために幕府が東北方面から移動させたとしていた。(陸上自衛隊対馬駐屯地見学の際に訪れた。)対馬には須川姓は多いそうだ。

3、推定できる事実

須川姓が多く存在しているのは、
3系列あるようだ。1は群馬、2は対馬・長崎、福岡など九州北部
3が和歌山、三重と京都、と奈良(大和)を囲むように分布している。
丹後須川は延宝年間1670年ごろ、この地名になったと記録されている。大和須川からは熊野へ行くと京都を挟み同じ120km。
大和から丹後へ、須川姓は移住したと考えられる。

京都府丹後伊根町

一方、奈良県は須川姓の発祥の地だが、須川姓ほとんどいない。
 「須川城」と言う存在があっても姓はいないと言う意味はやはり一時期に隣接地域に完全放逐された可能性が高い。
斑鳩に「須川建築」という家族いる。
二名中学で平成26年表彰された女子に須川がいた。
奈良須川、旧東里村では須川と言う姓は岡田になったと。
(東里村村史)

和歌山県東牟婁郡と三重県西部の集中は大和須川家の系列が16世紀末にいくつかのグループに分かれ、30年間くらいに各々が移転してきて、それらの人々が江戸・明治期に熊野灘に面した地域まで下ってきたのではないか。

近畿地方の須川姓は16世紀末、太閤検地により、須川城から移動したのであろう、その3つの系統の須川氏は、熊野、伊勢そして丹後だ。

地域別に整理すると、和歌山、三重の紀伊半島で820人、全国の13%になり1番多い。次は北九州の長崎、大分で約500人、8%。群馬や岩手も多い。この姓は地域性がある。勿論、今の今も人は地方から都市部に移動しているから首都圏、大阪で全国の半分以上になろう。

知られているひとびと
須川 政太郎 明治17年1884、新宮生まれ、昭和301995、没。
東京音楽学校(芸大)卒、音楽教師、作曲家 「宵待ち草」
須川 展也  佐賀県1961生まれ浜松 東京芸術大学卒 音楽家 サキソフォーン演奏者


須川 邦彦  明治13年1880東京生まれ、昭和24年1949没、明治38年東京商船学校卒、 東京高等商船学校長、 その先に先祖は不詳だ。「無人島に生きる16人」作者
須川 栄三  昭和5年1930大阪生まれ、平成10年1998、没。
映画監督・脚本家 大藪春彦「野獣死すべし」

須川 崇志 昭和57年1982 群馬県伊勢崎市生まれ 
チェロ奏者 若手ジャズの音楽家

こうみると、須川 政太郎は紀州系だが、須川 邦彦(東京生まれ)
須川 栄三(大阪生まれ)の先祖は紀伊系かもしれない。

最近、須川姓の活躍中の女性が目に付く。
須川 まきこ イラストレーター
       ユニークな女性イラストで注目されている。
須川 亜起子  横浜大学教授 日本アニメ学会会長
       ポピュラー文化、ジェンダー研究の論文
須川 真起子  建築家
       

姓名は古来、職業、そして社会の位置づけをあらわした。
職業がそのまま姓になったのも多い。
江戸期には苗字帯刀と言う言葉があるように士分、人口の10%のみに姓があり、一部指導的農民や商人、学者などが苗字を保持した。
名前も武士とその他では異なった。
例えば「長兵衛」は武士の名だが、庄屋になると「長右衛門」
その下に〇〇とその代の個人名をあらわす名前も。
「長」の字は第一子、嫡男などを示した。
屋号もあった。
天文10年(1543)に奈良、須川城で筒井方と戦い討ち死にしたのは須川 長兵衛 藤八(八は八男というより勢いをあらわす字ではないか?とも考えられる)

紀州の庄屋では、須川 長兵衛、須川 忠兵衛、須川 隣兵衛、須川 郡兵衛(市朗従兄が新宮墓地で見つけた)などの名が資料にみられる。士分、足軽で須川 嘉惣治(かそうじ) がみられる。

奈良県東里村村史昭和32年を読むとこの村では須川氏を知らなかったらしい。この村史はかなり立派なもので、
B5判、470ページ、箱入り。奈良学芸大学、県教育委員会のご古説を得たとあるが、須川城を「あの城は誰もものだったのだろう」と言う感じだ。一方、戸隠神社には須川と冠がついており、須川姓は同地では「岡田」となったとの記載も2か所。しかしその後の町村整理で東里村は奈良市「須川町」になり、奈良の水源は「須川ダム」と命名された。須川城の須川史は村の記録には見られなかったようだ。
奈良から京都に旅した友人が「須川」というところを通ったと言うことで今は存在感がある。従ってこの地は「須川」が伝統的な地名、代表する地名として現代の市町村合併で認識されてようだ。

我が家の近い親族、「岸 達之介」家は、「岸」と言う陸と水の境を意味するが、」江戸期より紀州藩の船奉行であったとのことで、それに相応しい苗字であった。同じく「大前」や「玉置」「生駒」姓が見られるので、それらの背景も知りたいものだ。
また長右衛門家には「長市」「長七」と次男だが「彌吉」などの名も見られる。各々の先祖の背景を知りたいものだが。

大日本興図、須川は春日社の北に当り、川を挟み大柳生

須川一族がいた、関わりのあった大和の地の興福寺、東大寺、春日大社は「世界文化遺産」だ。
先祖が16世紀末に移転した熊野は「世界自然遺産」のど真ん中だ。


おわりに)

少し理屈になるが21世紀になったとき、地球的課題は世界の一元化それによる環境と経済成長のバランスを危惧する意見が多くあった。だが世界は一元化どころか多角化して、戦争が勃発。
環境保護は進まず、先は見通せない。
環境と貧者をないがしろにしては社会も国家も存在しない。(伊藤 邦武著「経済学の哲学」)
地球のことを考えるなら過去の人々、先祖の生きざまや価値観を理解することが大事ではないか。先祖を知らずして、自分のアイデンティティは語れず、子孫も未来も見えない。
かって、江戸では家は三代続かずと言われたそうだが、都会は先祖を考え、語るには向いてない。日本全体が都市化した現代は過去の人々の、彼らの生きがい、生活、家族、死生観などを知ることは難しい時代になった。
当家でも熊楠先生の好奇心が気にとめてくれなければ、17世紀以前の有様は全く違うもの、ほとんど不明であった。
大和 須川 長、兵衛家が鎌倉時代に須川城で創始され、戦国時代をかの地で戦い、慶長の検地で在地を追われ、そこで一区切りついた。
熊野で庄屋として山林業を営んで明治までは苗字を名乗ることは許されなかっただろうが須川と言う屋号みたいなものは残った。
紀州の産業、江戸期初期には林業に限らず、漁業でも昔、武士であった人々の仕切りや役目を述べることがあったそうだが、多くの人間が在地を追われ帰農した。中世から近世への転換期だった。時代の流れには逆らえなかったが。それはそれでよかったのではないか。
(この項以上)

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