
宝永4年(1707)10月の宝永大地震は恐らく長い須川家の歴史上最大の自然災害であったに間違いない。
そしてこの地震を境にして須川家の家系が一時、混沌としたと考える。
何しろマグニチュード8・6、震源地は須川家があったところから40kmほどしか離れてない串本の沖だ。海岸には15mの津波も襲った。
地面は隆起して、山の形が変わり、大規模土砂崩れが、樹々は倒れ、川の流れもせき止められ洪水も、家は崩れ、人々も下敷きになった。
被害は畿内、東海まで広がり、この地震は「日本有史最大」のものとされている。2万人ほどが犠牲になったと推定されている。
新宮城の天守は東に移動、傾いたと記録にある。
奈良と和歌山の境の小林村の様子大規模な土砂崩れで村が崩壊していた恐らく、ここから近い熊野の山中でも同じような状態になったのではないか・・紀州藩の資料

須川 長右衛門家の家系図への影響は、
章夫叔父、市朗従弟が変遷した系図では享和年間1716-1736の須川 長兵衛は始まる。章夫叔父の資料ではそれ以前は村上家の系図で、まったく異なることになっていた。恐らく地震の被害を境に須川家は何か違うことになったのではないか? 17世紀と18世紀の熊野須川家の環境は大いに異なったに違いないが、先祖が変わることは考えられない。
地震で17世紀以前の記録、位牌、文書などが失われた可能性は大きい。

宝永大地震のプレート図、赤丸12が近い
被害は家、納屋、石垣、寺などもその際に破壊され火災にあったのではないか?山林や河川にも大きな変化があったと考えられる。この復興の際に本拠を移転、新築したと推測できる。
また材木は数十年で本拠の周囲は伐採し、植林して次の伐採までまだ時間が掛かる、場所を移動するのは自然なことだ。
条件は大きな樹木が身近にあり、伐採した材木を川に流せる。
地震で住宅だけでなく、家業材木の山、運搬路などの変更も余儀なくされたのだろう。
須川家系図、宝永地震以降はしっかりしたものになっている。
寺や自宅の位牌、墓、その他文書で、これらは間違いないものであろう。
須川家では享保時代(1716)長右衛門でなく「長兵衛」と記された当主がおり(計算では8代前の先祖、24代)、享保元年1716に没した。彼とその先代が相当に苦労したことが偲ばれる。
全国的には紀州藩徳川吉宗が八代将軍を継ぎ、和歌山から江戸に上がった。同時に幕府を立て直すため、享保の改革を実施した。紀州的統治を日本全国に採用したと言われ紀州藩の人材を多く幕臣に登用した。その改革は司法、行政、商業などに及び全国的な開発も奨励された。そんな中での長兵衛の動きは新たな森林資源の開発とされたかもしれない。
復興の自立と意思がなければその後の家族はない。

宝永地震は富士山噴火をもたらし、江戸にも大きな被害があった。
日本最大災害のど真ん中に須川 長兵衛家はあったようだ。
地震だけでない。紀伊半島は台風や豪雨も大きな被害をもたらした。
特に山の中で暮らすのは大変なことだと思う。
延宝2年1674、畿内は未曾有の水害にあって土砂留作業が開始された。山の木の伐採を一定期間禁ずる、切株は残すなどの布令が出された。
そらから、147年後、安政元年、嘉永7年1854、12月、大地震が再び、発生した。
地震学では「南海トラフ地震」と言うが、その被害も大きなもので、特に津波で2万軒の家押し流された。
世界地震日の元になった小泉 八雲の稲わらの庄屋もこの地震の際の寓話だ。岐阜の様子錦絵

安政の地震は「村上 菊次郎」の父、27代須川 長右衛門の時代だ。この安政元年、1854・12月、串本沖を震源とするM8.4,新宮の震度7で、山間部には土砂災害をもたらした。この地震の後に家屋を建て替えた可能性はある。このあと、大阪や東京の建設で材木需要は高まり、菊次郎は地元の近代化に貢献した。(のちに別項で書く)
安政大地震は
伊豆下田に大津波が押し寄せ、日本開国をせまるロシア軍艦ディアナ号は砂浜を転がり破壊された。
イラストレィテッドロンドンの画

紀州沖の地震は世界にも影響を与えた
僕が体験したのは昭和21年194612月21日早朝の地震だ。
2年前、第二次大戦中にあった大地震の後発と言われている。

当時、家族はようやく新宮の家に落ち着き、市朗従弟も一緒に池田町という川の近くの割合大きな2階屋にいた。父は尾鷲保健所長で、夜は自宅で往診していた。明け方大きな地震があり、全員庭に避難した夜明けを待った記憶がある。家は壁が崩れ大変な状況だった。市朗従弟は2階で寝ていたが、木製階段が落ちたそうだ。足を切ったそうだが、よく大きな怪我がなかった。M8.1で6,600人の死者行方不明者が出て、新宮は全戸の3分の1が焼けたそうだ。僕は湯川に戻り また祖父久彦、祖母とせ、喜美子叔母、敬久従弟としばらく暮らした。
市朗従兄は、向いの伯母の家に行き、津波が来ると二の丸に避難、今度は火事だ、家の道具の移動に駆り出され散々な思いをしたそうだ。

明治25年の熊野川の大洪水では日本の信仰原点と言われる、本宮が流された。現在の神社は当時移転されたものだ。
紀伊半島は災害のデパートみたいなところだが、そうは言いながら現在は熊野古道、世界遺産になった。フランス文化相アンドレ・マルローが愛した川湯は自然遺産の聖地だ。
そして次なる大きな地震、自然災害に留意しなければならない。
(この項以上)