大正12年1923
杉田 定一氏は奈良県添上の出身で地方史研究家だった。明治から大正にかけて地元で教師をしていた。
奈良市教育委員会のお話によれば奈良市北部から伊賀甲賀にかけての山間部の歴史を調べ、石に刻まれた文字から古い時代の一揆発生の歴史を発表した人だそうだ。大正年間、熊楠先生との親交があった。彼自身も当時は田辺に居していたこともあり彼の妻は請川近くの出だった。
熊楠先生が須川 長兵衛氏のことを尋ねたころは吉野にいた。
彼自身の主な研究は彼の出身地の柳生のことで「柳生六百年史」と言う文を発表して、それを熊楠先生に進呈した。原書はB5ガリ版刷りで熊楠顕彰館に保存されている。杉田氏の柳生の研究は、大正15年奈良県追川村北股との記載がある。
熊楠先生が柳生氏一族の中に「須川 長兵衛」の名を見つけて紀州熊野の須川家との関連を尋ねたことで杉田氏は熱心に調べた。(須川 長兵衛こと柳生 内蔵助に関しては柳生の項)
杉田氏の柳生史研究は京都の関連資料と興福寺の多門院日記など古文書であった。「多門院日記」は言うまでもなく、歴史の第一級資料である。特に日本の16世紀の記録では他に類をみない正確、かつ詳細な資料だ。現在のようにネット検索はできない、足で時間をかけ閲覧したのだった。
彼の熊楠先生への報告が熊楠口述記の元であるが、先生は茶化したような口調で彼が書いていない内容まで述べていた。
杉田氏のレポートは須川氏大和添上郡豪族とし、
1, 須川氏系(の背景)
2, 歴史にあらわれたる須川氏 多門院日記 天正10年、天正12年
3, 須川氏と柳生氏との関係
4, 熊楠先生ご高説 紀州と大和の須川氏(関係)
結論から言うと、
杉田 定一氏は以下のように書いていた。
結語、
余の簀(須)川氏に関する知識は以上の四項にて書きたり之要するに簀川氏は大和添上郡須川村(現在の東里村大字須川)の豪族にして戦国時代に勇名あり同じ添上郡の豪族柳生氏とも親睦なりしが、天正十二年の頃、筒井 順昭(順慶の父)と戦端を開くに及び敗戦して一族四散し、一は逃れて紀州に入り
一は留まりて後に柳生氏に仕え内蔵助及びて本氏を改めて柳生氏を名乗り柳沢吉保の家臣たるに至るものと推察せらるなり。大正十四年三月大和吉野杉田定一
杉田 定一氏の「柳生六百年史」大正13年刊
奈良市教育委員会をたずね杉田氏の研究のことを確かめたが、在野の真面目な地方史研究の方だった。
なお教育員会では、太閤検地のあと16世紀末、興福寺は完全に守護職を追われ、衆徒の大和武士はほとんどが大和から放逐されたとしていた。
興福寺衆徒で応仁の乱以来、戦いを繰り返していた、土着の勢力、古市、越智、筒井、松永、などの姓は須川や柳生と同じく、現在、奈良県では見られない。
日本姓氏語源辞典によれば、「古市」は全国に18000人うち2200人は三重県。
「松永は全国に100000人、奈良にはいない。「筒井」50000人、三重県高い。
「越智」全国50000人奈良にはほとんどいない。従って大和土着のこれらの人々も大和を追われ、一部は三重に移転したと思われる。
杉田 定一氏の熊楠宛書簡の一部、17通の手紙が出されていた。
杉田氏は天正の戦いのあと残った須川 長兵衛家の者は熊野に逃れたとしていた。しかし奈良県教育委員会での聞き取りでは一部は10年後くらいで須川城に戻っていた。当時、一族は様々な語りで離散し、仕官したり、他の者に仕え、生き残ったのだ。それらの人々も太閤検地後、大和にとどまることは許されず、熊野、三重、京都などに移住したのであろう。
これらの事実、大和から追われた一族のことはまだ研究中である。
杉田 定一氏と熊楠先生は以下のようなやり取りをしていたと熊楠顕彰館の記録。
① 紀州の勤王家 大正13年8月
② 和歌山と十津川 大塔村 大正13年8月29日
③ きのこ 大正13年9月
④ 千姫 昔の歌 大正14年5月17日
⑤ 日高川上流川上村 川上染 大正14年6月11日
⑥ 柳生村のてまり歌 大正15年6月15日
⑦ 丹生神社 大正15年8月29日
⑧ 須川氏のこと 大正14年3月
大正12年、杉田氏が描いた「須川」付近の地図。須川の中心部までは興福寺と東大寺の間を京都に向かい、車で走れば15分間くらいの距離だ。この地図では春日山の裏側にあたり柳生と並び奈良の防備にとっては重要な地であることが分かる。
杉田氏は「須川村あたりは極めて山間である」と記していたが、須川一族は山に慣れていたのか。
(この項以上)