須川 長右衛門家の系譜 令和4年版

はじめに)

ずっと昔、むかしの先祖を振り返るのはとても難しい作業だと感じた。でも大きな歴史の流れから推察するとパズルのように次々と事実は収まる。
章夫叔父は、須川家は清和天皇系村上氏であったと自説を書いて関係ある人達に配り説明した。その背景は先祖の地、北ノ川ネムノキから10kmくらいの近く、古座川方面に村上源氏系図の立派な家族がおられ、恐らくそのご家族と何らかの関係があったではあろう。
しかし、私は大正期に南方 熊楠(みなかた くまぐす)が奈良県の友人、杉田 定市(すぎた さだいち)氏に大和 須川氏を調べさせた説、「紀州須川家の先祖は、大和須川城の須川 長兵衛」であったと言う説が現実的であり、恐らく間違いない事実だと思う。家族の歴史と日本史の時代の波が重なるのである。
この説だと、32代、800年間に何も不詳の時代もない。理屈に合い明確である。

須川氏の系譜)

須川(簀川)は鎌倉幕府の荘園制が確立された1200年ころの荘園主が創始で、その荘園は興福寺から10kmくらい離れたところにあり、当初20名の興福寺衆徒の一員だった。(寺社記録による)

須川荘園は興福寺、東大寺、春日大社の北東、添上を領地として寺社に材木を供給するのが主たる業務だったようだ。爾後、山林管理運営を家業として大和から熊野と、昭和30年代1960年くらいまでその家業は続いていた。(大和史研究者による)

最近まで紀州須川家に存在した伝承、大塔の宮護良親王の兜は元弘元年1331年、護良親王から直接、須川 長兵衛に下賜されたものと思われる。
地勢的、時代的に辻褄が合い、須川家に本当に兜はあったものと確信できる。

 

須川家歴史時代分類

須川史を時代別に期分けすると、以下の通り6期になる。

〇第一期、1200-1470約230年間

大和須川において興福寺、東大寺、春日神社の衆徒、国民、荘園主として京都、奈良の中間点という地政的優位性を生かし生活していた。

奈良市文書654ページ、上狭川村南方にある。南北須川村に天平勝宝8年756、「東大寺」堺勅定文に(正倉院文書)に簀川、川上 高峰と見える。しかし須川氏は鎌倉幕府が開府され、荘園のあり方が根底から変化した際に、荘園管理者であった下司が勃興したものと考える。だから13世紀初頭に現れたのだ。

 

〇第二期、1470-1580約110年間、戦国時代、畿内の勢力の争いに巻き込まれ、あっちについてはこっちと、こっちについてはあっちと戦うような期間が続いた。(多門院日記など)天文12年1543、須川 藤八親子が筒井勢と戦い討ち死にした。一部の須川氏はそのころ後から熊野に逃れた。また他の須川氏は須川城に戻り、また三好氏の郡山城に入り、しばらくいろいろな相手と戦った。(後述)

 

〇第三期、約150年間、戦乱、太閤検地 豊臣 秀長より天正16年1588、大和に残った須川氏は帰農か、移転を迫られる。慶長元年1596年頃まで他の大和の荘園主、寺社勢力と同じく、大和須川氏は三重、京都、紀州に幾つも分かれ移住した。

寛永7年1630 紀州徳川家代官より示された山と川の境界 長衛門家に伝わる古文書

 

〇第四期、約150年間、熊野の須川氏は宝永4年1707の大地震(日本史上最大)の震源地に近く壊滅的被害を受けた。

そこから新しい系図が始まったのだ。16,17世紀の記録が地震のためほとんど焼失したのではないか。(上は残っていた一番古いもの)

江戸期、17-19世紀半ば、徳川政権下、紀州藩は山林開発、管理に熱心であり、材木伐採や運搬の運営から山林から様々な産品を生む政策を採ったと言われている。そのような山林振興は須川家の活動にも少なからず影響を与えてはずだ。山林は徳川時代、重要産業のひとつ。牟呂郡庄屋、長右衛門家とした地元の密着した活動を続けた。

 

〇第五期、約75年間、明治元年1886明治維新後近代化で活発になった。

明治期は全国的に材木需要が高く、山奥にも人々が入り込み、様々な活動があったたようだ。しかし大正年間後半から昭和初期は不況のため、材木もその他産物の重要も低下した。人々はより経済活動が

盛んな都市部に近いところに移転した。

 

〇第六期、約75年間、昭和20年1945後戦後復興で活発になる。

しかし高度成長期にかかると外国産の材木が輸入されるようになり山林の価値は低下した。日本の第一次産業は経済構造の変化、国の施策の失敗のため、人々は里山地域からさらに都市部に流れた。

そのような過程で須川氏先祖は日本の国と同じく安泰で楽な時期と、とんでもない困難に立ち向かった時期が極端であり、その波の高低を乗り越えてきたわけだ。
では「古い家」の定義は何か?
難しいが、歴史学では日本の一般家庭では応仁の乱、1457年くらいまで分かっている家柄と言うらしい。この証明も難しい。海外ではDNAを使う手法もあるらしい。(テレビ番組ディレクターの言)
米国での経験ではそういう家はほとんど聞いたことはなかったが欧州ではざらだそうだ。

 

各代の系譜

現在から須川 長兵衛家の系譜が以下のようになろう。

現行民法では誰しもが相続権、継承権があるが長い時代を経た歴史なので、代表者だけの記述だが、この家族の歴史には膨大な数の人々が関係していた。

 

紀州熊野 須川 長右衛門家の系譜

32代 須川 (長右衛門) 倍行 昭和35年生1960生 日本大学卒 元県議

株)カワイチ不動産 代表取締役

31代 須川 (長右衛門)市朗 昭和8年生1933生 橿原から新宮に移転 生年戸籍名は「長右衛門」であった。

株)カワイチ府不動産 取締役会長

       日本高度成長期 工業化

       第二次世界大戦

30代 須川 (長右衛門) 正雄 昭和41年1967没 北の川から橿原に移転

(次弟 豊  元神奈川こども医療センター長 医学博士)

(末弟 章夫 元日本大学獣医学部教授 農学博士)

29代 須川 (長右衛門)竹吉 大正13年没1920

28代 須川 (長右衛門)菊次郎 明治40年没1907 

     明治30年(1897)明治森林法

     1877年頃モチノキの家を新築か

27代 須川 長右衛門 明治10年没1877 

     戊申戦争・明治維新1865 (この人は苦労しただろう?) 

26代 須川 長七 嘉永4年没1859  (役目についていたのでは)

     安政の大地震1855

25代 須川 長右衛門 文化5年没1809

24代 須川 長右衛門 享和2年没1803 

23代 須川 長右衛門 天明7年没1788

     享保元年1716永詳寺焼失(要記録)

22代 須川 長市 宝暦4年没1759 (役目についていたのでは)

 紀州藩の本草学研究が盛んになる、三重から熊野にかけて・・

21代 須川 長兵衛 (享和15年、1730頃没か?)この人は苦労しただろう。この代までは「長兵衛」であった。

地震からの復興はこの代が行った(ここまでは須川本家の位牌などで判明)この人は地震から復興にたずさわったのだろう。

     宝永4年1707 宝永の大地震

20代

19代  寛文6年1666諸国山川掟         

18代  寛永17年1630代官の安堵状        

17代

     1600 関ケ原の戦い

16代 熊野に移転後の基礎を作った 

     1588太閤検地

15代  元亀2年1571大和郡山、須川氏幾名は松永のもとにいたが、筒井に寝返えった勢力に攻撃され命を落とした。この年、他の戦いでも須川某の名。

熊野 永禄7年1564永詳寺建立(要記録)

14代 1560年頃第一陣、熊野に移転 

     1559興福寺守護職を失う

     須川 (長兵衛)助定(15●●―1571) 三男 兵庫助

 

 興福寺

13代 須川 (長兵衛) 藤八 天文12年1543 討死

12代 須川 (長兵衛) 内膳之助 善正公 高つき城 東里村史 

大宝4年1524、狭川福岡氏と古市派に付き柳生と共に戦う

11代  古市方につく 承久の乱

10代 1457 木沢 長政と戦う

    1471応仁の乱(1467-78)

    京都荒廃し身分の高い人々の奈良への疎開 

康正3年1455-1457 簀川は国民(春日派)、一乗院方

(奈良地方史研究259)

9代   1440 頃 大和永享の乱

8代

7代

6代  至徳元年四月(1347)須川 (長兵衛) 辰弓之助 兵庫 (東里村史)

5代  護良親王より兜を賜る 元弘元年1331年

4代   

蒙古襲来 文永1274、弘安1281

3代 興福寺衆徒20人の一人 一乗院派国民(春日系)奈良県史

   この頃五三の桐家紋か?

2代 興福寺一乗院と東大寺 簀河庄 嘉元元年 1247奈良県史

初代 1200年頃 承久の変 宮廷制でない荘園

鎌倉幕府の荘園制のはじまり 材木の需要大

治承元年1180、奈良全体が焼討ちに合う 奈良寺社の再建

1180   鎌倉幕府開府

12世紀 寺社への荘園制度

 

検証

大和須川、須川氏が現在の須川長右衛門家の始祖とすると32代という時代制に疑問はないと考えられる。始祖は鎌倉幕府の荘園制で興福寺の荘園主として始まったのだ。この時代、荘園主となった多くは平安時代からの下司(げし)下級の管理者、の出であり、地頭などとも言われ、源氏平家などという大した武家ではない。

奈良添上付近のから「簀川」と記した木簡が出たと言う記録も聞いたが要確認 木簡は8-9世紀まで見られる。

 

「簀川から須川」に変遷したのは15世紀くらいか「長兵衛」という名はかなり古くからの武家としての名。
18世紀半ば「長右衛門」としたのは庄屋として名前。
(「村上 菊次郎」云々の背景は別途説明する)

平安時代に奈良寺社の荘園であった家柄は公家の縁戚であったが鎌倉になると地場の実力のある勢力にとって代われた。
従って、須川は13世紀初頭に大和に現れたならそのような新興勢力であっただろう。

応仁の乱、15世紀半ばから後半にかけて多くの京都の公家は一族が、京都周辺地域、須川の地も入る、に疎開した。
その時に京都のやんごとなき人々との交流があったことは推測できよう。

 

須川氏の縁組

大和須川時代は、柳生氏、狭川福岡氏が隣接しており、時代により敵味方は異なるが概ね、友好的で3氏の婚姻関係は記録に残されている。
また3氏の地勢的特殊性、奈良と京都を結ぶ線、また伊賀、甲賀と四条畷を結ぶ線に位置していたことから、各方面と関係があったと。

京の身分の高い人々が応仁の乱をきっかけとした疎開先にもあたっていた。京都南部の当尾(とうお)、滋賀南部の和束(わづか)の地名が出ていたので、これらの地域の人たちとも何等かの関係があったと推定できる。

熊野須川氏は、牟呂郡には100家ほどの庄屋(うち20家が浦、海岸沿い)が存在した。基本的に家を継ぐものはこの間で婚姻したとの記録があり、およそ10-20kmの範囲で婚姻したのが江戸期一般的であった。
須川氏は養子は出しているが、養子を貰った記録はない。

 

おわりに)

先祖が立派な家とか由緒ある血筋とではなくても、須川の人々が一生活人として如何に時代を生きてきたかを歴史から推察して現在のわれわれの生き方に指針があればよいのではないか?

須川 長兵衛家は800年間もの間一貫して時代の流れのなかでも家族愛を失うことなく、自然と生き、森林を家業としていたことを大いに誇れると感じる。

Youtube 
・興福寺 国宝へようこそNHK 
 https://youtu.be/0N3nnxGhHoE

・昔の森林 森に生きる 昭和37年

・熊野古道

 

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