14,姪や甥の節子叔母の思い出 

その1,節子叔母を想って 令和5年10月12日

生駒 眞千子(旧姓須川)

(節子の兄、久(ひさし)長女、生駒 光博(医師)の嫁ぐ 一男一女あり)

私にとり節子叔母は母親以上の存在でした。
和歌山から上京し、音楽大学入学来、実の娘のようにお世話になりました。
夫、生駒 光博(当時横浜警友病院勤務)とのなれそめも叔母が繋いで下さいました。
叔母の生き方は私のそれに一部残っております。
彼女はパソコンをやると決めたら教室に通い、デジタル技術を身につけ、それをみごとに駆使しておりました。ピアノも子供のころ少し習ったそうですが、教室に通い、発表会に参加し、私と一緒に弾いたこともあり、懐かしい思い出です。
運転してあちこち走り回り、見て聞いて、問題解決が彼女の真骨頂でした。
82歳にハイブリッドの新車に変えると、ナンバー「ろの82」をとり、後は納車を待つばかりだったのですが、83歳になりトヨタにクレームしたそうです。
「ろ」は高齢という意味だそうで、しばらく運転しておりました。
ユーモアを忘れず、言葉はウイットに満ちておりました。

ふと考えたら不思議に感じることがあります。

私が現在、海外への関心が高く、英語を勉強していること、スポーツはスイミングをしていること、などをはじめとして、膝の具合が悪いことまで叔母と私は似ているのです。犬が好きなことも。

節子叔母と同じような写真も残ってます
横浜の家を訪ねると、パソコンで麻雀を楽しんでおりました。次は麻雀かとも。

母(芳子)が亡くなり1週間後、叔母(節子)が逝き早くも11年。
(母は平成24年2012,11月14日没)
この11年間も叔母は私のこころに寄り添ってくれております。
夢でもよいからもう一度会いたいと思います。

私たちのこどもたちを幼少のころからとても高く評価してくれまして。「ナルちゃんはすごい、ユキちゃんは賢いと。」恐らく現在の姿をとても喜んでくれているでしょう。
節子叔母から学んだことは、幾つかあります。
私は多くの良い友人に恵まれております。叔母のあの、どこででも、誰とでも仲良くなれる社交性には敵いませんが。
また、自分ができる限り他人のお世話を心がけることです。
そして、何事も直ぐに決断して行動する、という生き方です。

生駒 眞千子、左と矢崎 文恵、辻本 紀公子の「カーニバル」の前、
令和5年10月
(節子が生きていたら、姪の各々の生き方、現在をとても誇りに思うことは
間違いない。)

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