山で育ちレイテ島を生き延びた章夫(ゆきお)叔父

軍馬を見る須川 章夫見習い士官

須川 章夫は父親の弟で、29代須川 長右衛門 竹吉の三男だった。大正7年1917生、昭和64年1986没。

熊野 北ノ川モチノキの生まれでこの地が大好きであった。晩年も小口の川のほとりに家を買い長い休みをとりそこで過ごしていた。

学校に入学するまで北ノ川とその後移転した橿原、色川で育ち、山の生活には自信あった。それで第二次大戦中、見習い士官として昭和19年秋、レイテ島に送られた8万人の兵士の、4,000人の生存者の一人だった。

レイテ島戦記の悲惨な九死に一生を得る話は頻繁に聴いた。

彼は地元の期待を背負い、麻布獣医畜産学校に進み、獣医であった。レイテに行った年にはすでに米国生まれの杉谷 恵美子(えみこ)と結婚し長男浩行(ひろゆき)も生まれていた。

数年前、彼が小学校に通った崖上の道を市朗(32代長右衛門)と車で走った時に感じたが、毎日雨風に負けず歩く、子供にはかなり過酷な生活だったようだ。

戦後は農林省技官から日本大学獣医学部教授になり、農学博士号を取得した。一男一女あり、国分寺に住んでいた。

小口村では第二次大戦戦没者は6名おり、その慰霊碑は須川 久彦が昭和10年頃建立した墓だ。

章夫叔父は先祖の解明に非常に熱心であり、江戸初期からの系譜、住宅の移転、天皇家との繋がりなどを指摘していたが、江戸期以前の何百年間は不詳を結論つけた。今回の私の歴史探求の結果は彼のものとは異なる。だがものごとは絶えず多面的、多角的にみる必要がある。そして彼の結論、須川氏は現在まで33代続いている、江戸期以前が不詳であったと言う点などは恐らく間違いない客観的な事実であろうと感じていた。

軍刀は和歌山市のデパートで兄の正雄が購入したが、戦場で真っ先に失くしたそうだ。相模原のあたりの部隊で訓練を受け、レイテへ、散々な目に遭い、大発でミンダナオに脱出したそうだ。

彼は名著、山本 七平の「私の中の日本軍」を私にすすめてくれた。

昭和26-7年頃の私の父須川 豊(右)と叔父章夫(左)
同じフレームの眼鏡を掛け、同じような髪形、仲の良い兄弟であった。

彼の言葉で思い出すことがいくつかある。
ジャングルで死にかけたのに山には懲りてなかったのだ。
彼は私の父に会うと口癖のように「俺は山がほしかったんや」と。
本家のことを心から思っていた。モチノキの一帯が他の林業会社に渡った時は本気に嘆いていた。彼がいつも生き生きと描写していたのは、山の家ではばあちゃんが囲炉裏の前に座り、火を絶やさずお湯を沸かしていたその様子だった。その後、その茶釜が縁の下にあったのに持ち帰らなかったことを相当悔やんでいた。

彼の長男、浩行は私と一歳違いの従弟で、子供の頃、彼らは青山の「スターアンドストライプス新聞社」の裏に住んでいたので行き来して遊んだ。

日大工学部から栗田工業に勤務し、役員秘書の吉原 真佐子と社内結婚した。退職後、私の山荘に頻繁に遊びに来た。渓流釣りをやったのだ。釣りに夢中になると夕方までお互い口をきかず、釣果を争っていたのかもしれない。

数年前に亡くなった。栗田工業には良い友人がいた。
妻、真佐子は平成29年に亡くなり、長女に2人の娘がいる。
妹は国分寺に住み、息子が1人いる。

章夫叔父は麻布獣医畜産学校、私の現在の住所、港区の数十mのところにあった、現在は住宅地だ、に通学していた時に学費を江東区の炭問屋に貰いに行ったそうだ。炭問屋に紀州備長炭が正雄のところから届き、運搬の際、こぼれた分が別勘定で彼に渡ったとのことだ。

恵美子叔母には弟がいて杉谷 ロサンゼルス在住で生涯、庭師をしていた。彼は米国生まれで戦前帰国していたが、戦後、妻が手続きし米国に戻り、3女がいた。長女は背の高い美人で歌が上手で日系老人ホームの慰問で人気があった。彼女はヘアスタイリストで夫と店をやっていた。二女も二世と結婚した複数の子供がいた。三女はポッポコーン王の息子と結婚した。

章夫叔父はこの一家ととても仲が良く、尊敬を集めていた。私たち兄弟はロサンゼルスの杉谷夫妻にはとても世話になり、のちに出張で出かけては会っていた。彼らは懐かしい2世のホスピタリティで、迎えてくれた。

(この項以上)

カテゴリー: 記憶にある人々 パーマリンク