この写真は節子が鐵朗を妊娠中、広尾の愛育病院に行った帰りだ。
昭和27年1952年春だ。豊が撮影したのであろう。現在のフィンランド大使館横、当時は米軍に接収されていたところで、節子、恒次、薫雄と背の高い子がふたり、帽子が青木 信二、下が岡野 やっちゃんだろう。近所の子が付いてきたのだった。車は関係がない。

豊、東京に転勤になる
豊が和歌山県衛生部のいたのは1年間くらいで、昭和24年1949年暮に厚生省に転勤になった。彼の京城帝国大学医学部時代の専攻、博士号をとった公衆衛生学の専門家が当時日本にとても少なかったからだ。一方、連合軍統治方針は日本の公衆衛生環境向上にあった。彼は、「ハエと蚊のいない生活」と言うのを提唱していた。日本の感染症、一番多くの死者を出していた「結核」予防に関しても専門家だった。
厚生省への転勤を大変喜んでくれたのは義父久彦(ひさひこ)だった。
豊は霞が関の厚生省に行き、打ち合わせのあと、通りに出て、最初に停車した都電に飛びのったそうだ。とにかく東京は大変な住宅難だったが、一家が住むところを探さなければならない。多分、彼が乗ったのは8番、恵比寿と築地を結んでいた線ではないか。豊は東京の土地勘はなかったが、弟、章夫(ゆきお)が卒業した麻布獣医学校はその方角だった。(学校は戦災に遭い、焼野原だった)都電の交差点、古川橋で下車し、停車場前の不動産屋に入り近くの売り物件を紹介してもらい、即決したそうだ。
この家は現在の私の住所だ。
家購入の資金、昭和24年秋で、5万円だったそうだが、ほとんどを久彦が
節子宛に出したようだ。長右衛門家からも援助はあっただろう。登記は節子の名義だった。
(その後、久彦は宮崎 喜美子叔母が千葉県松戸に購入した家屋、長右衛門家の正雄は章夫叔父が国分寺北側に購入した家屋の、各々の費用を出した。)
豊が購入した家は一帯に9軒、同じものがあり、戦前から戦中、都の障害児施設があった焼け野に宝くじの景品として建設したもので、すでに代替わりして売りに出されていたと。現在も一軒に当選者の甥が住んでいる。
江戸期の地図を見ると、この地域は大名の下屋敷が川から細長くあり、その突き当りに寺子屋があったらしい。
豊は厚生省に一本で行ける、新橋、品川、五反田、恵比寿、渋谷、四谷などに都電で便利と言うことで、この家が気に入った。(霞が関には歩いても大丈夫)敷地35坪、木造平屋、当時ガスと風呂はなかった。

昭和25年夏、従兄の浩行と美代子も彼らが青山にいた間は頻繁に我が家を訪れた。
やがて、章夫叔父が国分寺の北側に2階屋を購入して引っ越すまでは。
(章夫一家はその後、国分寺駅の南側に家を新築した。)
それにしても戦後の物資不足の建設でとても粗末な家で、生垣はまだ成長してなかった。

東京駅に章夫(ゆきお)叔父が迎えに来た。
古川橋の往時 方角的には左が渋谷、都電は品川、五反田、目黒に向かっていたのでは。管制用の塔があり、そこからレールの切り替えを行っていた。
昭和24年の暮れ、暗い東京駅に一家が到着したとき、豊の弟章夫が迎えに来た。

この朝のことは私の記憶に鮮明に残っている。まだ真っ暗だった。
大手町南口に出た。都電のプラットフォームに米軍将校がいて、二人にタバコをすすめた。都電は国会議事堂を見たので赤坂見付で乗り換えて、とりあえず章夫(農林省に勤めていた)一家の間借りしていた青山墓地下の一間のアパートに1-2泊した。この時の興奮は忘れられない。
章夫叔父の借間は青山墓地の反対側、現在、米軍施設に隣接したところだった。
恵美子(えみこ)叔母(LA生まれ)が柵越にスターアンドストライプ社の記者であろう、米兵と英語で流暢に話をしていたことも記憶にある。狭い一間しかないところで、子供たちは押し入れで寝た。

これが僕たちの東京生活のスタートだった。
2-3日して本村町の家に移転した。豊と私は汐留に行き丸通のヤードで和歌山から送った荷物の配達日程を聞いた。銀座に歩いて行き、資生堂でカレーを食べた。東京で最初の外食だった。荷物は久彦が作らせた20個ほどの木箱に入り、菰と荒縄でまいてあった。
大きなできごと
東京生活、4年間で家族のことで特に印象に残っているのが、
次男、恒次(つねじ)の入院と、三男鐵朗の誕生だ。

家の横にも児童公園があったが何と言っても一番の遊び場は有栖川公園。うっそうと大きな樹木、池、小川、広場があり、人間も今とは比べものにならないほど少なかった。

恒次は引っ越して2年目の冬に熱を出した。診察の結果、ウィルス性肺炎で
広尾の日赤に入院した。医師と豊は相談して、保険もない時代だが、抗生物質治療を受けた。1週間以上、入院していたのではないか。

回復した恒次
恒次が退院直後の話がある。
彼が入院中に僕が発見した新しい遊びは、ちょっと遠いが麻布学園の裏にガマ池と言う池(現在は少し残り、レストランの庭から見えるそうだが)当時は谷間になったところに湧き水か水はきれいで、奥行き30mくらいはあり、瓦礫で埋め立て中、線路とトロッコが敷いてあった。線路を水際に降りて浮いている木片や瓶に石を投げるのだ。恒次は病み上がりだったので、歩きが疲れたのだろう。何てことか、石を投げたはずみで前に倒れて、胸から上が水に浸かった。季節は冬で、曇りの夕方。家に戻ったら、一生でこのくらい母に怒られことはないくらい怒られた。彼が入院中に節子が新しい編み機で作った横縞のセーターもびしょぬれだった。

この事件は一生で一か二番のもので記憶に残すために画にしてもらった。
紀州には毎年行った
東京から湯川へ行くには今でも大変だが、当時は東海道線で大阪までそして天王寺に行き、紀勢線でと。東海道線が12-3時間、紀勢線が数時間、乗り換えを含むとまる一日掛かりだった。従って時差を考え東京は夜出た。
正確にはいつ、誰と行ったかは記憶にない。子供たちだけでも行った。
豊の姉の子、山口 県一郎さんが当時、天王寺駅に勤務していて、大阪駅に迎えに来た。
小学8歳、兎年、昭和26年1951、正月は記憶にある。
とせの要望でウサギの絵を描いたからだ。
湯川ではなく新宮登坂の家、新築に長く滞在したからだ。
多分、私一人だった。
夏に父と恒次、それに隣の青木信二が大阪に行くと言うので夜行で出た。とても暑苦しかったことを冬、一家で寝台車を使った。とてつもない贅沢だった。静岡まで眠れなかった。
また冬だろう。何年生、わからない。敬久、恒次3人を久彦ととせが奈良に連れて行っていた。皆、学帽を被っている。当時、東京では小学生は学帽を被らなかった。奈良に孫を連れて行くは久彦・とせが京城から子供たちを連れて行ったことを意識していたのではないか。不思議な旅だった。

正月、弘資叔父が帰省していて毎日、皆は遊んでもらった。湯川には子供たちだけで列車で行った。家の障子を破いて来たが、とせが張り替えたばかりだった。

冬、湯川楼の橋 昭和26年1月
鐵朗の誕生

鐵朗は昭和28年1953、8月9月、有栖川の愛育病院で生まれた。当時でも愛育はなかなかのところで節子は個室に入っていた。暑い日で、エアコンはないから病室の窓は開けっぱなし、アイスクリームを食べた。家事を手伝うために祖母とせが長期に滞在した。

愛育病院広尾

家を増築し門を作った。
南東の部分に6畳間を建て増した。これで大分、広くなった。僕らが電気機関車で遊べたのもスペースが若干でも出来たからだ。

前年に恒次が区立本村小学校に入学した。
彼はちゃんとしたランドセルだった。私のは久彦が和歌山で将校用の軍装品を作っていた人に頼んで、皮のものだった。学校は、丘の上の方に子供が歩いて12-3分のところにある区立本村小学校だ。
(なぜか港区のアーカィブには当時の画像はほとんどない)
当時、近所には10数人、この小学校に通う子供たちがいた。学校から帰ると児童公園を中心に皆で走り回る。他のグループの子供たちと。遊び場には不自由しなかった。空き地が多く、道路には車は殆ど走っていなかった。
本村小学校は焼け残っていた。私が転校する前は2部授業もあったそうだが、私のころは40人以上のクラスで4クラスあった。昭和24年、すでに給食があった。学校の下の谷間に湧き水があり、釣り堀が二つあった。家の前のよね子ちゃんと言う1年上の子が最初、案内してくれた。
本村小学校には私の子供たち3人が通い、現在孫1人も通っている。

昭和28年1953,12月「大雪の日、長島先生うつす」とある。下、沼津の林間学校海の家、真ん中が長島先生、彼は新潟にも旅行の途中寄った。
大雪の写真ではまだ数人の名前が出て来る。横地 基之君は特に親しくして彼の家に泊りに行った。父上は日銀で官舎にいた。鈴木君は公務員宿舎(現ユーロハウス)に。青島君は本村町に。学校からは数分の距離に住んでいた。

学芸会の様子。主役、浦島太郎を演じた

本村小学校5年生、昭和27年、9歳の僕は各イベントがとても楽しくて、IQテストもあり、絶好調だった。
豊の仕事
仕事は自分の専門性が生かせれば面白いはずだ。
相変わらず渋い顔をしていたが、本省にいたころは生きがいがあったようだ。1年ほどしての夏、私は湯川に行き、久彦・とせのところに泊まっていたときに久彦宛に葉書が来た。久彦は二階廊下の手すりでそれを読んでくれた。「あの若さで課長になったそうだ。偉いものだ。お前の父は。」と。
しばらくして父が帰省して、ゆかし潟で泳いだ覚えがある。

都内浅橋保健所における講演。昭和26年3月
本省の役人だからか、世の中のことを語ることはしばしばあった。
記憶しているは、食事のとき、朝鮮戦争勃発の記事を見て「これは大変、大きな出来事、まさか」と言うような解説。庭で落ち葉を焼いていた時に、上空、低い高度でごうごうと米軍機の編隊飛行。「マッカーサーの帰国だ」と。
予算編成期、夜遅くなると歩いて帰ってきた。
日本は昭和26年1951,9月、主権を回復して独立した。

箱根であろう。
この頃、長右衛門正雄伯父夫妻が東京に出て来て、豊・節子と章夫・恵美子と
箱根に旅行したことがあった。
豊の他の仕事、理美容関係では代々木の有名美容学校のオーナーが訪ねて来た。
恒次が留守番をしていて、玄関で応対していたそうだ。
当時のトイレは汲み取り、業者が来て新案の、上に立つと自動的に開く蓋を付けて行った。恒次は軽いので開かず不自由したそうだ。
これも購入したかどうかは分からないが振動する洗濯機、ある日置いてあった。
とても騒音が酷く、使い物にはならなかったのではないか。

子供たちとも適当に時間をとった。この頃、京城より持って来た
ニッケルメッキの万能ナイフを私に呉れたが、直ぐに神宮公園に遊びに行き失くした。「まあそういうこともある」と言われた。

東京時代の私たちの衣服は殆どが節子の手作りであったと思う。
ミシンと編み機を駆使して何時間も作業していた。

なぜかのっぽの青木 信二がいたが、彼は背が高いがからっきし意気地がなく、私が宿題を手伝ったりした。昭和28年冬。この門も鐵朗誕生記念。
東となりは青木家、長男信二は背の高い子で、父はドラマーだった。
おばちゃんは淡路島の出身、大阪で知り合い結婚したそうだ。彼女は新潟、静岡にも遊びに来た。この一家は結局、昭和50年頃までいたが大阪に戻った。
信二は道で小西に絡まれていた時、恒次が伸びあがり、鋳物の拳銃で小西の頭を殴り、小西が泣いたこともあった。
山中、両角、などいろいろな家と付き合いがあり、山中一家はまだ近所でアパートを経営しているなど。海水浴や花火見物なども近所の人たちと行った。
この年の夏、とても暑い日。鐵朗1歳のとき、節子は突然、三越に行こうと言った。
この年から冷房が入ったのだったが、涼んだ覚えはない。日本橋から2ドアのタクシーで帰った。この頃から外食をするようになった。
とせが来たときなど出前を取った。蕎麦は竹谷町の町田、寿司はその先の若菜、中華は十番の登龍、鰻は十番商店街入り繰りの八ッ目などだった。
今でも登龍は営業している。和可菜寿司は高級稲荷の持ち帰り店。
とせに電気機関車が欲しいと言ったら三越から届いた。だが、当時の本村町の家は壁に電源もない。畳もデコボコだ。火花がぱちぱちと散るので、しばらくしたらこのセットは忽然と消えた。
かわりに節子は我々を蔵前のおもちゃ街に連れて行き、ブリキのおもちゃを節操なく買い与えた。おもちゃ類は二人の喧嘩の種以外になかった。
同じものを二つ買ったりもした。後に新しい家のころ、庭を掘ると、ビー玉やら粘土細工やらいろいろ出てきた。

この種のブリキのおもちゃは頻繁に買ってもらった。
これらは思い出し、懐かしいので米国のフリーマーケットで購入したものだが。

バイオリンを習わせる

私は和歌山にいたとき、小学校入学前、5歳からバイオリンを習わされた。ぶらくり丁の楽器屋の主人が先生だった。
東京に来て、節子が張り切ったのは、良い先生に就かせると言う課題で、弘資叔父の京城時代、小学附属・中学の龍山中学の同級生讃井 龍雄さんの近所の水野 綾子先生を選んだ。水野先生は戦争であぶれた層の方、独身で両親と兄夫婦と緑ヶ丘に住んでいた。確か1回は私が通う、次の回は先生が本村町に来ると言うローテンションで、5年2学期までやったから、6年間習ったわけだ。恒次も2-3年はやった。輝一従兄もバイオリンをやっていたと言うので、何かぞっとするものがある。6年間もやったが面白い、音楽が好きと言う感情は一切なかったからこの練習は大失敗だったのではないか?豊は一切関わっていなかった。

緑ヶ丘の水野先生の家
帰途、目黒で都電乗り場と反対側に坂を少し下り、白井ボクシングジムで練習を見るのが楽しみだったが。帰りが遅いと怒られた。
水野先生とメニューヒンを聴きに行った。彼女はその後「音楽の友社」に勤めていて、大学生くらいまで会っていた。
映画をよく見た
豊も節子も映画好きだったのだ。
私たちが麻布本村町に来たころこのあたりはまだ戦前の雰囲気が残っていた。
山の手のお屋敷、下に降りると彼らの車の整備工場、そして屋敷街に働く人々が
行く盛り場があった。そのひとつが麻布十番だ。十番には三業地が、寄席があり、映画館が3館あった。新橋に行くまでの芝園橋にも3階建ての大きな映画館が。
高輪方面で魚籃、そして白銀高輪にもあった。

現在はスーパーだが、2軒並んであり、椅子は木製。
近所の株屋、永田のジィサンが近所の子供たちを何人も「明治天皇と日露大戦争」に連れて行ってくれた。帰りに江戸屋(のちにビストロエドヤ)であんみつをご馳走と。今でも大工の小林君とはその話がでる。ジィサンの曾孫は新聞配達をしているが。芝園館では「ボタンとリボン」、節子が歌をかなりあとまで口ずさんでいた。高輪は畳敷客席で「羅生門」を、それと米人に交じり「駅馬車」は何度も見た。青木のおじさんが「ヨーク軍曹」に、とせが「真昼の決闘」などを渋谷まで連れて行ってくれた。
とせは寄席や映画を楽しみ、歌舞伎、大相撲と私を連れまわしたので、その時代にエンタメを楽しみ基礎ができたようだ。日比谷映画にも一家で行き、「ジャングルブック」を。混んでいて座れなかったが映画が面白く直ぐ立っていることを忘れた。

東京を去る日
豊が新潟県衛生部長として転勤する日、上野駅 4年前に上京した時は大違い、大勢が見送りに来た。昭和29年1954、3月

4年前、東京駅に到着した時は我々4人、夜汽車で到着し、真っ暗な駅に迎えに来たのは章夫叔父だけだったことを考えるとこの間に豊と節子の環境は大きく変化していた。
結局、東京の4年間は私たち子供の代がその後、生活の場が東京になったことの下地を作った。東京の学校に行き、東京の会社に就職し、東京人になってしまった。
先祖が奈良を出て、熊野に行き、そこから朝鮮に、そして戦後は東京と大きく移動したなかで歴史を感じざるを得ない。
東京人は絶滅危惧種と言われる。家業が続かないし、家族は少子化で続かない。
持ち家があっても2-3代しか持続しない。私の孫は4代だが。
右上の川がクラウンクになっているところが古川橋だ。(江戸後期の地図)
昭和25年の4-5代以前は大名屋敷に囲まれた、曹渓寺の門前町と記された場所だが。現在から、今の状態が100年も続くと言う確信はない。

麻布本村町の家
とても小さく粗末な家だったが、節子は京城の大邸宅よりここの生活が本当のもの楽しかったと言っていた。

この地域は地下鉄が長年、入らなかった。私が大学生のころ、都電が廃止となり、
地下鉄が出来ると言うことだったが、長く近所に地下鉄は来ず、定年近くなり一度に3線が入った。
豊のこの買い物、久彦の援助が今の自分や家族の基盤を作っていると言う事実を考えると、遠い先祖との縁に至らないわけはないと感じる。
(この項以上)