我が家は朝鮮からの引き揚げ者、戦後は住む家こそあれ、貧しく、その後も男子3人の教育も半端でなく、家計費を書画骨董に費やす余裕は全くなかったはずだ。それに豊・節子にはそういう趣味はなかった。
我が家の骨董品
しかし、不思議なことに我が家には、古いものは江戸期、明治初期のかなり趣味の良い骨董品が多く存在している。
骨董を少々でもかじったのは家族では私だけだが、現在私の家にある豊・節子時代から伝わるものは、平成のはじめごろ私が家を新築し、彼らも恒次と家を新築するころに節子が私のところに運んできた。
「蜀山人」風の花瓶か?とても趣味の良いものだ。
見知らぬ爺さんが骨董品を運んできた
思い当たるのは昭和22ー24年、新宮から和歌山市に転勤になり、新築の小さな官舎に住んでいたころ、どこかの爺さんが何度か骨董を持ってきた。その爺さんと節子の対応は記憶にある。
聞いた話ではその爺さんはとせが京城三越の美容院を贔屓にしていたが、そこにいた髪結い(ヘアドレッサー)女性の年下亭主だったそうだ。彼は京城時代より骨董好きで女房に資金を貰ってはあちこちで買っていたと。目は良かったようだ。細身のあまりしゃべらない人だった。
夫婦は和歌山に引き揚げてきていて、豊・節子が来たので爺さんがいろいろ持って来たと言うことだった。
茶道具系もあるが豊・節子は茶には興味なしだった。
和歌山から東京麻布の家まで来た書画骨董の中で記憶にある1点は横長の絵で黒縁の横90㎝、縦30㎝ほどの額に入った水墨画だ。画面の左に一人のほっかむりした百姓が足踏みの柄の上に乗り、田畑に水を入れている構図で、遠景をぼかした、ごく単純なものだった。私が熱を出して座敷に寝ているときにずっと眺めていた。
確か横浜の家まであったが、節子が捨てたと言うことだ。
いずれにせよ、和歌山の官舎、東京の家、どちらも小さなもので、しかも引っ越しは大変だったから、家具類や大型のものはなかった。
新潟に送られて来たのではないか・・・家具類他
新潟の官舎は明治の高級役人のものだから大きな書院造りの座敷が続きであった。床の間は3か所。写真を見ると家具とか掛け軸があった。
横浜の恒次の家には、黒檀系の違い棚、置台、座卓など大型飾り家具が幾つかある。いずれも出の良いものだ。これらも静岡時代の記憶にはあるので、新潟あったものだろう。静岡の官舎は半端な造りだったが、書院はあった。神戸の官舎は明治の大きな日本家屋、で骨董類を置くには最適の住まいだった。来訪者に見て貰うには、玄関の続きの間(畳が引いてある)があることが重要。
察するにこれら家具、書画は久彦、とせからのものではないか?
祖母のとせはかなりの骨董趣味があった。
この二人は豊の出世をとても喜んでおり、新潟に行った年の
夏までに別々に新潟を訪問しており、昔風の官舎の建物がいたく気にいったようだった。そして親として豊・節子が新潟で地位に相応しい生活をする、ことを願い、とせが骨董品を見繕って送ったと考えられる。
時期とか品目に適合性ある。また価格的にも現在とは比較にならなかった手頃さだった。
朝鮮の磁器もあった。現在、私のところに白磁の壺があり、
また鐵朗が3歳くらいの時に投げて壊した青磁の鉢の欠片もある。
さすがに節子も青磁の鉢には参ったようだった。
30年ほど前に友人の骨董屋、柳泉堂が来て見て行ったが、
両方ともすばらしいもので今は出ないと。青磁は欠片だけでも
眺めていたらどうですか・・と言っていた。
祖母とせ の骨董趣味
とせの骨董品は沢山あったらしいが、私の手元にはとせが新宮登坂の家で使っていた紫檀の箱火鉢がある。茶釜、鉄瓶は一作で銅製の炬も良い。京都のものだ。
火鉢は金具を使わない上手、銅炬も、茶釜、鉄瓶も健全だ。
東北の鉄瓶でなく、茶釜も京都風のものだ。
これは私が8歳の時、兎年の正月にとせが使っていた記憶がある。
この火鉢、私が社会人になってから北の川に行き、新宮に寄った際に、
祖母は亡くなりしばらく経っていたが、弘資叔父が納屋にあると、
後日、東京に送ってくれた。現在は福島の山荘にある。
茶道具も新潟にいたころに来たはずだ。
また白磁の壺は静岡、神戸、横浜と飾ってあった。
これは新潟にいたころ忽然と現れた。豊は囲碁将棋にはまったく
やらないのに。
恐らく、その時代に来た骨董品はとせの見立てで、彼女の髪結いだった人の年下の亭主と言う人が和歌山近辺で見つけて来たものだろう。
一定以上の質だ。
福島山荘座敷にある黒檀の座卓 これはニューヨークに持って行き
使っていた。輸送で脚が外れたが、イタリア家具職人が修理し、さらに日通にゼミの友人、伊藤君がいたので、修理代もいただいた。
須川先生のところには良いものがある。
そんなことで「須川先生は骨董趣味か。」と言うことか、新潟時代には燕三条の製品が幾つかいただいたのであろうあった。
明らかに時代は違う。新しいものは私がネットで販売したが、中国人に人気があると、高く売れた。
恒次の家には相当なる壺のコレクションがある。中には良いものもあるだろう。
また、医療関係のお世話でいただいたのであろう、印象派小型版画ある。通弘さんが来たときに彼は直ぐに気がついた。
この項以上