30代なかばの節子、怖いもの知らず行動力爆発
昭和33年1958、夏に豊が静岡県に転勤になった。
日本海側の代表、新潟から太平用側の代表、静岡と気候も人間性も異なるところ、生活は日本の高度成長期、家にも電気冷蔵庫(東京、新潟時代は氷)、テレビが入った。官舎は市の中心部に近い水落町。
数年前までこの家屋は存在していたそうだ。恒次から電話があった。
私たちが引っ越した時はまだ新しい家だったのだろう。
東西に細長い敷地に長い家だった。新潟の明治時代の家に比べたら明るく部屋も近代的だった。洋間が二つあった。
豊の仕事は新潟と基本的には同じで静岡には昔からの知り合いの医療関係者がいた。知事はサイトーさんと言う変わり者だったらしいが豊の仕事は日本中どこでも普遍、そして出身官庁厚生省との関係が深かった。さすがにもう戦後の混乱期のような状況ではなく、どうしたら、病気にならないか、医療制度とか栄養、環境が世の中の関心事になりかけていた。

節子は何よりも大好きな犬を飼い、運転免許を取り、車も買った。
女性のオーナードライバーの元祖的存在で相当楽しんだ。
官舎の門から家までの間に駐車した。上日本の高度成長期に彼女の行動力も爆発した。
おばさんたちとの付き合いも盛んだった。

新潟以来の人々を「新潟会」と称して編成、旅行したり家に招いたり彼女たちの新しい赴任先にも訪ねて行った。新潟時代の角田、松島さん等が静岡訪問。
静岡部長夫人会 塩谷 登女子(とめこ)さん、荒木さん、村上 睦恵(むつえ)さんとは特に親しくしていた。
そのほかにも静岡で友人を次々とつくり、交友を深めていた。
島村さんとか、平野さんとか、学校から家に帰ると毎日のように彼女は留守か、我々が知らない人たちが家にいてお茶をしていた。
子供たちは手がかからずの年に
私は高校一年生で県立新潟高校から1学期で、県立静岡高校に転入した。と言っても無試験ではなく、厳しい試験を受けた。現在、静岡高校と新潟高校の偏差値はほぼ、同じであり、当時もそうだっただろうが、静岡高校は旧制高校だったので、特に誇りが高かった。
弟の恒次は静岡大学付属中学校に、三男鐵朗は幼稚園だったが、翌年、付属小学校に、と一段落だった。
趣味はダンスに広がり、新潟時代の元芸者の先生ともお別れだった。
映画は毎週、見ていたので、話題には困らなかった。
車で西は浜松、東は伊豆、箱根と走り回った。
人気のないところで私と恒次にも運転を教えた。

水落(みぞおち)町は駿府城の掘水を流すと言うところからきたようだ、駿府城に近く、中を抜けて繁華街、駅に行く。
付属小中校は城内で、静岡高校は横を通り浅間下に向かう北側。
静岡市内では超便利なところだ。
東京麻布の家は新潟にいた期間、宮崎 昇、喜美子、敬久が住んでいたが(修理代くらいしかとってなかったのではないか)、新潟の最終年に、鉄骨総二階の家を新築した。
もしかしたら新潟が終われば本庁に帰ると言うことも考えていたのではないか。この家を三田の教科書会社に月3万5千円で貸した。
今の貨幣価値に直すと40万円くらいか、借りた資金を返しても節子の収入が増えた。行動力爆発の資金源だった。

左、多田夫人
部長夫人会 塩谷 登女子さん、荒木さん、村上 睦恵さんとは特に親しくしていた。衛生部課長の多田さん夫妻も家に良く来た。夫人は四国の人だったが、節子と車で頻繁に出かけていた。
村上 睦恵さんは山陰の名家出で、妹がデザイナーの森 英恵さんだった。そのころから英恵さんの新宿の店を手伝っていた。この人、長女の暁子(あきこ)さん、ニューヨークでバイオリンニスト磯村さんと結婚して、1970年代なかば、現地で私たちも夫妻で付き合いがあった。
荒木さんは林務部長で、豊が山林業の家出身なので、親しくしていた。
天竜の奥地の珍しい石や材木をいただいた。3人の息子がいて、静岡高校の先輩や後輩なので、荒木夫人と節子はママ友でもあった。
次男の英輔(えいすけ)さんは一年先輩で親切にしてくれた。エイちゃんといつも一緒にいたのが鈴与の鈴木 通弘さんだった。
荒木夫人は関西の出身、大柄な人でいつも和服、易が趣味だった。
東京の家にも行き床の間に板をいただいた。
そんなことで節子は静岡時代、4年間、東京には近いし、様々な人たちと知り合いになりさかんの社交をした。
公的にも活動したようだ。

日本赤十字の献血運動に協力し静岡新聞に記事が掲載された。
豊は静岡新聞、静岡放送とは特に親しくしていた。
業界の部長担当の方は、坂東さんと言うウミガメのような方で、ダブルの服でいつもきちんとしたやや年齢の方だった。
彼は飲食宿泊業界の幹部だったが、劇場や映画館など興行の会社のオーナーで、毎月の市内のほとんどの映画館共通入場券を十分な数いただき、映画三昧した。映画館は多くが歩いて行ける距離。

塩谷 一夫家との付き合い
後の自民党の重鎮、衆議院議員の塩谷 一夫(しおのや かずお)さんは当時、静岡県総務企画調整部長の役職にあった。駿府城の近くの水落町の官舎は隣合わせだった。各々細長い敷地で木製の塀で仕切ってあったが、木戸があり行き来が自由だった。

塩谷 一夫 1920-89、元文部大臣 は袋井の生まれ、早稲田大学から教師になり、教育畑の人だ。
節子が気に入っていた犬のリッキーは塩谷さん夫人、登女子さんと妹ひさ子さんと一緒に節子の運転で浜松に行き、各々、うちが黒の雄、塩谷家はゴールド雌のアメリカンコッカースパニエルを購入して来た。
どういう経緯かは知らないが塩谷家の知り合いのブリーダーからだ。
節子が黒をリッキー、ゴールドをルーシーと名付けた。
彼女はテレビ番組「アイラブルーシー」が好きだったからだ。

CBSの人気番組、夫のリッキー・リカルドはバンドマスターで音楽が沢山出て来た。
リッキーをトリミングしてドッグショーにも行った。主催者は知り合いだから、入賞はした。官舎に裏庭、古びた家に見えるが。

リッキーは変わりものの犬で、草むらからボールを探してくるのが趣味で、野球場に近くに散歩に行くとすぐに数個次々に面白いほど咥えてくる。箱にたまったものを節子は何処かに寄付していた。
豊も一夫さんとは気が合った。それで一家の付き合いは一夫さんの孫まで続いている。一夫さんの長男は浜松が選挙区の塩谷 立(りゅう)議員1950生、だ。立さんは私と弟恒次の静岡高校と慶應義塾の後輩、鐵朗の付属中学、大学の先輩だ。
一夫・登女子さん夫妻は恒次・久美子の仲人だ。
一夫さんは豊が兵庫県に転勤になった後、静岡県知事選挙に出馬して落選した。浪人中、塩谷一家は神戸に遊びに来て家に泊まったそうだ。塩谷家には一家の他、夫人の妹ひさ子さん、書生が何人か出入りしていた。
そのうちの一人、大津さん、磐田か掛川の出身は豊、節子が横浜に移転した後も付き合いがあった。たしか恒次は大津さんの実家にお祭りのとき泊りに行った。私は塩谷一家が浪人中、浅間神社の横に仮住まいしている時に泊まりに行った。
衛生部課長の多田さん夫妻も家に良く来た。夫人は四国の人だったが、節子と車で頻繁に出かけていた。
そんなことで静岡時代、4年間は東京には近い、様々な人たちと知り合いになる。
県衛生部総務課の鷲巣 喜一郎さんは浅黒い、背の高い、人柄の良い人だった。
我が家は全員、彼に世話になった。節子はキーちゃんの娘の縁談までしていた。恒次が空気銃を購入するときには、県の詳しい方と一緒に銃砲店、警察署まで付き合ったくれたようだ。
紀州からの訪問客も絶えなかった。
紀州からは新潟より静岡ははるかに近くなり親戚、知人の訪問が
絶えなかった。すでに健康上のことで豊に相談する人たちもいたが、
豊も節子もとても良くお世話していた。
大前 卓也は慶應義塾の学生で、県庁にも行き、その時のことはとても良く覚えていると。彼は豊の従兄の父と同じ体育会サッカー部員だった。
とせは何度か長期で滞在した。
それにどういう縁か知らないが宮川 おさむと言う早稲田の学生が1か月程逗留していた。宮川 治子(はるこ)さんと言う方の息子で、治子さんは朝鮮時代からの知り合いと言うことだったが、長右衛門家の親族だったかもしれない。
市朗も来て、豊・節子は大歓迎した。
節子は人が来ると、車であちこち案内するのが楽しみだったようだ。
お手伝いは新潟から連れて来た美人のとくちゃんはホームシックで故郷に帰り、とせが新宮から連れてきた色の黒い太目の人になった。しかし彼女も1年くらいで帰り、曽根さんと言う地元の節子と同年のひとが来た。彼女は神戸にも行き、鐵朗は曽根さんが第二の母みたいなもので育った。曽根さんは婚約者が戦死したとのことだった。神戸に塩谷一家、鈴木 通弘さんが泊りきたお世話もした。
節子は行動的に外に出かけていたのは、曽根さんのおかげが大きい。
従兄では玄海が夏休みに来て、豊と節子がダットサンで伊豆に連れて行った。

ダットサン1000

昭和34年1954頃、豊の京城帝国大学の学友、開業医が診察に少し乗ったものを中古で購入したようだ。
ダットサン1000はオーストラリアラリーで優勝した名車であったが、まだ日本のモータリゼーションは菱明期、自家用車が珍しい、しかも女性ドライバーと言うことだったが、シートベルトもない時代、無法トラックの横行は現在以上、よく大きな事故もなく無事であった。
神戸で一時コロナに、そのあとはプリウスが出るまでトヨタクラウンが彼女のトレードマークになった。
神戸に移転してから、この車は東京にいた薫雄と恒次が持ってきた。
当時、車を所有する学生はあまり大勢いなかった。
バッテリーは6V, 弱くなるとおしがけかクランクでエンジンを起動させた。ヒーターはあったが、エアコン、ラジオはなかった。
小さい衝突はあったが、大きな事故もなく遠距離を行き来したのは幸いだった。
かくの如く、日本の高度成長期を逃さず楽しんだのが節子だ。
豊は役人だから厚生省のローテンションで4年経つと転勤で昭和37年1962、兵庫県に同じ衛生部長で転勤になり、神戸に移転した。
他の赴任地と同じく静岡時代に知己となった人々との付き合いは特に長く続いた。
(この項以上)