須川 久彦(ひさひこ)
僕の母方の祖父だ。明治20生まれ、は父方須川 長右衛門の地、北の川に本籍があったが、少年の頃、海岸部に出て仕事に就き、その後、朝鮮の植林山林事業に就くために朝鮮半島に渡った。同郷の岸 達之介を訪ねたそうだ。明治42年頃ではないか・・それまでは勝浦、新宮の付近で材木関係の仕事についていたようだ。
そのころに東牟呂郡勝浦付近出身の生駒 とせ と結婚し、明治44年に長男龍太郎(りゅうたろう)が誕生した。彼らには4男3女がいた。私の母は次女だ。そのまま朝鮮半島で製材業中心に様々な事業を創業し経営していた。
第二次大戦終結で一族は和歌山県東牟婁郡湯川に引き上げた。
久彦家の家長は妻のとせ、と言われていたが、彼は事業と趣味、そして家族愛で一生を過ごしたような人だった。
引き上げ直後の生活に関しては、戦前にいずれ住処にと、とせの故郷の付近、湯川に旅館だった大き目の建物と近くの田畑を購入してあり、難民であった一族は露頭に迷うことはなかったようだ。朝鮮半島に残した事業や家、家財にはあまり執着しなかったようだ。莫大な金額だったと思うが。そして長男久と直ぐに事業を再開した。
久彦の趣味と生き方
趣味は狩猟で、ちゃんとこの家にも英国製の水平二連銃と紙ケースの散弾が置いてあった。4歳の僕を連れて海岸の近くの田んぼに雀を追い払うと鉄砲を持って出た日のことは忘れられない。僕の記憶にある最初の鉄砲の発砲だった。
まずはあぜ道を進む際に何か長いものをつかんで投げた。横たわっていた蛇だった。それから2発発射したが、雀を追い払うは口実で、のちに僕も彼の心理はよく理解できるが鉄砲を試したかったのだ。僕の狩猟は彼のDNAだろう。戦後、新宮で次男 久(ひさし)と再開した事業は成功し、新宮城のそばに檜の立派な家を建てた。
昭和21年12月の大地震の際、新宮にいた我が家にその年の収穫の米、彼が作った、の握り飯を15km、線路の上を歩き届けにきた。
東京、新潟と僕たちの行先には必ず現れて、小学生の僕にバイオリン、電気機関車、カメラ、中学生になると時計をプレゼントしてくれた。
孫の多くは私も含め、彼の命名だ。僕の兄弟は3人全員。
彼は僕の誕生と同時に「徴兵保険」に加入してくれた。富国生命、満期5万円だった。とにかく彼は家族を愛した。
久彦のルーツ
彼のルーツはよく分からない。彼の父は亀太郎(嘉永年間生)と言い、その父は彌吉(文化文政年間生)。久彦は明治20年1988、小口の近くで生まれたようだ。母は色川の出身。長右衛門家は須川 菊次郎が当主で小口村の村長だった時期だ。
同じ姓ではあるが父方の長右衛門家と血縁の記録はない。
外観上も両家の人間には共通点はあまり見られない。また気質や雰囲気は地元の人々とも違う。須川と言う姓は彌吉が明治になり採用した姓と思う。「五三の桐」紋もこのころの採用か。久彦の父、もしくは祖父の代に全く違うどこかから流れてきたのではないか?これは両家の血筋である僕の直感だが、江戸中期に長右衛門家から分かれた家族かもしれない。
幕末、産業の活発化、そして動乱の時代、何があっても不思議はなかった。いろいろ推測できる。
全国的にそういう人達は多かったと歴史学者の言。なぜなら江戸期後半は生産性があがり、経済活動が活発で、比較的自由に様々なことができたからだ。例えば熊野の山の中でも藩の活動として本草関係、鉱物関係の人たちが流入したそうだ。
久彦の酒と話
酒が好きで、恐らく血圧が高かったのだろう、昭和35年脳梗塞で亡くなった。夕食では酒を飲んだ。昼間とは違う親しさがあり、幼いころ私たちが禿げた頭に触るととても喜んだ。
彼があまり飲むので息子たちは下戸だったそうだ。
彼は私に、私の父親、豊は秀才であると、また須川 長右衛門家は古くから続くこの辺りの名門であると、何度も説明してくれた。
僕が泳げるようになったのは旅館だった家の2軒先が村の共同浴場で、そこに僕が昼間窓から湯舟に投げ込んだ石が沈んでいて、彼とそれらを底から片付けているうちに体が浮いたのだ。4歳の時。
同じころ湾に面した空き地で遊んでいた時、僕は積んであった材木に登った。それを見た彼が「危ない」と叫んだとたん、材木が崩れ僕は下敷きになった。彼が作業員を呼び、材木を除けると、僕の体はちょうど杭の横にあり、無事だった。
食事のマナーもうるさかったと記憶している。
この頃の夏、お盆か?1歳年上の従兄、輝一(てるかず)と僕を連れて小口に泊りがけの旅に出たこともあった。川で遊び、夜は小学校に浪曲を聴きに行った。彼は色川から勝浦に出たが反対側の小口にも思いがあったようだ。
久彦と温泉
戦前から所有していた地元の地所は旅館だった家以外にも田畑、そこから温泉が出て、流れていた。また勝浦港の半島の一部、そこも温泉が出た。私が小学4年の冬、男ばかり従弟を数人連れて、船を雇い、渡ったことがあった。祖母が作ったおにぎりを食べ、しばらく遊んだ。
そのあと、玉ノ井で温泉に入り、彼は全員の体を洗った。そして一行は那智の滝にバスで行った。大社の前で、うどんを食べて、木刀を買ってもらいチャンバラしながら紀伊勝浦駅に、そこで地元の子供たちと喧嘩になった。
そんなことで祖父にはやんちゃばかりしたが、きつく怒ることはなく大甘だった。
父が転勤になった年の秋に、新潟に現れた。北海道と秋田の帰りだと。
母はとても喜んで、弟2人とみんなで直江津まで送り、トンボ帰りしてきたこともあった。木彫の熊をもらった。今とちがい、毛が線だ。
朝鮮半島に渡った経緯
彼が朝鮮半島に渡ったのは勝浦出身の岸 達之介が、「故郷に頭の賢い子がいる」と彼を引いたそうだ。久彦もまた自分の故郷から優秀な人材を朝鮮半島の事業に招いた。そのひとりが甥の中村 正男だ。
亀太郎には何人か子供がおり、甥の中口 正男は戦後、とせ系の中村 都雅子と結婚し、その子は、久彦系とその妻とせ系の子だ。息子は慶応義塾卒、温厚な性格で、東急不動産役員であった。
ジャカルタ支社長を長くやったが、地元の人に溶け込んでいた。
医者になった息子がいて、今でも付き合っている親戚のひとりだ。
医者の息子は女医さんと結婚して彼にはやがて医者になるだろう孫がいる。
彼の妻の著作、児童文学の作家だ。そして彼女はドッビッシーを弾くとグランドピアノが自宅に置いてあった。
中村 正男は昭和20年8月、朝鮮半島で軍役にあったが、京城の久彦家に戻り、祖母、叔母と私と難民旅行をして紀州に戻った。
そのことは最近になり知った。
久彦のプレゼント
私の両親が和歌山に引っ越すときに当時は段ボールもない、久彦は自分の事業で製材した杉板で大工に箱を幾つも作らせてくれた。
両親はその後、数回引っ越ししたが、その杉板の箱はまだいくつを私が使っている。無垢の板は70年間たったいるがまだ杉の匂いがする。防虫になるそうだ。
「おじいさま」の久彦祖父と「おばあさま」のとせ祖母は恐らく、今の中学一年生くらいの学歴だっただろうが、読み書きや計算、そのほかの社会常識は水準以上だった。
何よりも彼らの知識、道徳、情報などを基盤にした判断力は抜群で、
天下国家へのその在り方、考え方、意見は現在の人間以上だっただろう。そして何よりも家族や知人、地域の人間、従業員への愛は子供こころにも感じられた。現在の一般的日本人は彼らよりはるかに高い教育を受け、情報量も豊富だが、自分も含め、日本人のみならず、世界的に人間ひとりひとりは狭量な存在になったではないか、感じるが・・・僕は伝統的価値観の彼らのような祖父祖母と幼少の頃、何年か一緒に過ごせたことは大いに幸せであったと感謝すべきだろう。
精神的なプレゼント以外にも、久彦は機会がある度、僕にいろいろプレゼントしてくれた。
バイオリンはそのひとつ、今でも大切にしている。
小学4年の時にカツミ模型の電気機関車を、弘資叔父も好きだったそうだが、伝統的なアイテムだったのか・・
小学6年の時はスタートカメラ
久彦祖父は私に今でも記憶にある多くのプレゼントを呉れたが現在、母を経由した僕が住んでいる家の敷地はその最大のものだ。
だから僕の彼に対する感謝は半端ない。
(おわり)