生存しているならば90歳代後半だ。
父親系統の人で、須川 長右衛門竹吉、私の祖父の娘の子ではないか。
だから正式に言われた訳ではないが、彼は年齢が離れているが私の従兄だ。
昭和20年代初頭、国鉄勤務で新宮駅にいた。その後、大阪天王寺に転勤になった。私たちがこどもだけで旅行する際に駅でよく面倒をみてくれ、乗り換えなどを手伝ってくれた。数回世話になった記憶がある。
当時、昭和30年1950ごろ、東京から新宮に行くには夜行で大阪駅へ、そして環状線で天王寺駅まで行き、紀勢線(尾鷲から先は開通していなかった)で長時間、SLの旅だった。
県一郎は新潟の家にも遊びに来た。父も母も大歓迎した。その時のお手伝いさんはスミちゃんにで、彼女と会話を交わしていたことが記憶にある。
彼、背はあまり高くないが引き締まった体格で、角ばった色白顔、若いのに額が大きかった。歯に入れ物をしており、笑うと光った。
弘資叔父の記憶は以下のようにある。
「母、とせの紹介で会いました。新宮駅に彼が勤めていたころ、登坂の家に何度か遊びに来ていたそうです。私が大学3・4年のころ、大阪の大学生で京都の私の下宿を訪ねて来て、何度か自動車部の車で京都見物に案内しました。私も大阪の彼の下宿へ遊びに行き来した仲でした。
卒業以来途絶えておりましたが、再度会ったのは彼が新婚の妻を連れて登坂の家に挨拶に来た時でした。」
母節子から聞いたのは、彼は新宮から大阪に移転して、大学に行き、国鉄を辞め、高校の英語教師になり定年まで勤めたと。勉強家だったようだ。
豊はあまり彼のことはコメントしなかったが、関係は彼の甥だった。湯川と新宮を行き来する時は必ず顔を合わせていたはずだ。
山口 県一郎のことは意外なところで写真があった。弘資叔父が保管していたのだ。
弘資叔父が同志社大学に通っていたころ、県一郎が京都に来て一緒に観光していたスナップだ。
山口 県一郎、その素性は知らないままであったが、章夫叔父が作成した親族図に記載されていた。
豊、章夫の上に長右衛門家には竹吉の娘が4人いた。
そのうちのひとり、「はる」が山口 博と結婚してその一人息子だった。
はるは昭和4年12月に没していたので、県一郎はその1-3年前生まれだったのではないか。新宮中学を卒業して、新宮駅に勤務し、その後大阪の大学に進学したのだろう。新潟に来て、滞在していたのは大学生のころだったかもしれない。
弘資叔父は昭和5年1940生まれで、「私より2-3歳年上だった。社会人を経験した大学に進学したので、大人だった。」と。
須川 とせ は久彦家のひとだ、彼女が山口 県一郎と親しくしていたと言うのはさすがと感じるが、県一郎はどこの大学に行き、学資はどうしたとか、家族のことはまるで不明だ。
豊、節子が神戸にいた昭和40年1965ごろ付き合いがあったのであろうか。
聞いたのかもしれないが。
県一郎、彼の父親系、山口家との付き合いの中で生活していたのかもしれない。
いずれ、須川 長右衛門家の女系だが、長右衛門の家は知られておらず、久彦家をかろうじて付き合いがあった。その背景は・・
女子の家系は軽いと言うことだ。
県一郎の件で気が付いてが、長右衛門家の家系では女子は徹底的に軽い存在であったようだ。
4人の娘、保栄(配偶者岸根 義光)、はる(配偶者山口 博)、梅乃(配偶者下野 高久)、浩江(川村 恒二)だ。全員、昭和初頭に結婚したのだろう。
保栄と浩江には子供はいなかったようだが、下野には男子3人、山口には県一郎と市朗や私には4人の従兄が存在したが、ほとんど付き合いがなかった。
100年以上以前の社会だ。現在では考えられない女性の地位、役目だった。
元より、家族は戦国以前には戦うことが重要であり、江戸期以降も山や海の仕事は男世界だったのだろう。社会が生きるためには重労働に耐える人間が求められた。小口の郵便局のはるゑ ばあさんの話でも、北の川の女性の作業、家庭ない、農作業、シイタケを叩きに行くなど、今では大変な作業だが、昔、それらは男の作業に比べると軽作業だったようだ。
教育、財産の分配などもでも徹底的な差別が存在した。
女性の教育、小学卒くらいでおわりが普通だったのではないか?
長右衛門家は江戸期を通じての奥地の林業、昔ながらの価値観が昭和のはじめまで続いていたことは想像できる。
その点、久彦家は先進的であったのではないか。
先祖研究をしていると、NHKさまなどのドラマに登場する女性像は果たして実際はどうだったのか?すでに日本の社会が忘れていた現状に突き当たる。(この項以上)