美一は須川 長右衛門菊次郎の子、孫三郎の息子だ。孫三郎は大正時代、美一は昭和時代の人だった。美一は明治37年1904、生まれ、昭和56年1981、4月6日没、享年77歳だった。
竹吉(私の祖父)の兄弟だから、長右衛門家正雄や私の父の従兄にあたる。
この人は北の川の生まれ育ちだが、正雄が色川樫原に移住したころ、反対側の小口に移ったようだ。郵便局の真澄によれば、美一は小口で酒屋を営んでいて「酒屋のおじさん」と呼んでいたと。そのころ、小口村の村長もしていた。
(小口郵便局の謙一さんも従兄にあたる)
長右衛門家とわりに近い血縁のある親族であった。
久彦は、4代前、江戸期に長右衛門家から分かれたので、近い親戚ではないが、何か気が合うものがあったのだろう。だが、血縁は薄いが美一の息子の勝夫と久彦の孫、輝一(てるかず)が新宮で現在でも付き合いがある。
自宅も近いらしい。

小口の寺に久彦が墓を建立した、昭和14年1939ころに、久彦は朝鮮半島で事業を行っていたので、美一はこれらの作業を手伝ったのではないか。

この墓は第二次大戦慰霊碑となったが、建立の際、小口小学校の子供たちに河原から丸石を集めてもらい、久彦はひとりひとりに小遣いを与えた。
この墓の隣、少し下がったところに、美一家の墓がある。久彦のもののコピーのように同じデザイン、作りだ。
戦後、昭和22年ころ、私は輝一と2人、久彦に連れられバスに揺られて、小口に行き、美一宅に泊まった記憶がある。私4歳、輝一5歳のときだろう。輝一はその後も頻繁に久彦と小口に行き、歓迎を受け、鰻を食べ、カルピスを飲んだ記憶があると言っている。丁度、美一の子供たちと同じくらいの年齢だった。

明らかに久彦は自分が建立した墓やその系譜を孫たちに託したかったのだろう。
美一宅に泊まったのは夏で、昼は川で遊び、夜は小学校で開かれた浪曲の会に行った。疲れていて電灯がうす暗い坂の夜道を歩いた覚えがある。
我が家でも豊、節子が美一(よしかず)さんの話をしていたのを聞いた。
彼は当時、親族の行事などを仕切った世話役だったと聞いている。
美一はやがて新宮経済圏だが三重県側紀宝町成川に移転した。
昭和31年1956だった。移転のころは長右衛門家市朗の仕事をしていたそうだ。
家族、妻は 和(かず)、
4人の子がいて、輝一によれば皆健在だそうだ。
長男 勝夫 81歳、現役の夜間専門タクシードライバー
長女 喜代 79歳、食品関係の店に嫁いだ
次男 久夫 78歳(久彦の字をとったのだろう)趣味がこうじて勝浦の写真館に勤務
三男 晴夫 74歳、勝浦で生花店を経営、
以上は輝一(てるかず)から聞いた。
紀州(三重県南牟呂郡紀宝町辺りも含む)には「須川」姓は多いが、数代を経るとお互い、誰がどういう関係かは不明となる。須川姓は江戸期以前、大和須川に由来するもので、江戸期の先祖は帰農したから殆どは姓がなく、屋号であった。
明治皆姓の際に遠い昔ではあったが須川姓を名乗ったゆかりの人たちは沢山いた。また請川の大庄屋、須川 忠兵衛の子孫は田辺、そして三重の南に移住したようだ。だから、須川姓、元をたどればどこかで行きつく。興味深いテーマだ。
(この項以上)