2,宮川 治子と息子

宮川 治子(はるこ)は節子の友人であった。
京城時代の家族写真に出て来ていた。だが、同居していたのか、近くにいたのか、弘資(ひろすけ)叔父は詳しい関係は知らないと。
小柄な眼鏡をかけた地味な方にみえる。
弘資叔父は豊の葬儀、1995,3月、増上寺に来ていたと言っていた。

昭和19年8月宮川 治子


章夫(ゆきお)叔父がまとめた「須川家の系譜」によると、彼の叔母、須川 いく子が大前 才蔵(色川の)と結婚し、その子、千葉 和世に4人の娘がいたがそのうちの一人が宮川 治子であった。従って、須川 長右衛門家の一族であったと推定されるが、どういう経緯で、久彦家に出入りしていたか、夫の宮川さんはどういう人だったかは、いまでは不明だ。千葉 治子は朝鮮に渡り、材木関係の仕事をしていた宮川さんと結婚したのかもしれない。
節子の話では京城時代は彼女ととても親しくしていたと。

昭和20年1945、秋に紀州に引き揚げてきた時点では、息子、治(おさむ)昭和15-6年生まれがいた。戦後、夫、宮川さんは、新宮駅から堤防町に抜ける斜めの路、須川洋行の手前2-30mの貯木場側、丁度宮地 仙之助さん一家の裏側の家に住んでいた。間口の狭い、暗い感じの家だった。
事業は場所柄、材木関係の仕事であったのだろうと輝一の話だ。戦後、10年くらいして事業に失敗して亡くなったそうだ。その後、治子は東京近郊に出て来たようだが、そのころは節子との付き合いは少なかった。
その息子、治(おさむ)は私より2-3年年上だ。私の大学受験時に早稲田大学の学生だった。何を勉強していたかは知らないが、小柄ながら弁はたった。

記憶にあるのは豊、節子の新潟時代と静岡時代、治は学生で休みに何回か、私たちの家に長期滞在した。節子から小遣いを、3食食べさせて貰い、毎日ぶらぶらしていた。何か手伝うようなことはなかったと思う。節子が彼の母親と親しく甘やかしたのだ。学校は治子が働いて学資を出していた。
治は早稲田大学卒業後どこかの会社に入り、豊は保証人になった。
しかし数年もしないうちにヒリッピンの仕事で会社に金銭的な迷惑を掛けて、豊は保証人として大変な思いをしたと語っていた。
宮川 治子は遠い親族であったが、あまりトラブルのない紀州須川一族の中では苦労した人生であったようだ。
彼女のことは今では誰も知らない。
(この項以上)

カテゴリー: 記憶にある人々 パーマリンク