宮地 仙之助さんは戦前、戦後を通じて、須川洋行で働いていた人だ。
新宮市旧堤防町発電所跡横の須川洋行からすぐの貯木場に面したところに一家は住んでいた。昭和20年のころは20代であったようだ。
須川家と血縁関係はなかったが、長右衛門家市朗も材木の納品で彼が窓口だったと、北長製材の設立以前の頃の思い出を語っていた。
須川洋行への材木納入の検品が仕事で弘資叔父は大学卒後、彼からその業務を学んだそうだ。妙に地元と関係がなく、適任であったようだ。
宮地さん母子は朝鮮から須川 久彦家一同と一緒に引き揚げて来た。
(引き揚げ後2-3年間は何処かで過ごし、久彦・久の招きで新宮に移住してきたのかも知れない。仙之助さんはどのように北朝鮮から逃れて引き揚げたのかは知らない。一時、シベリアに連れて行かれたとの話もあったそうだが確かではない。)
下、新宮市現旭町、昔の貯木場、水面いっぱいに丸太が浮かんでいた。
現在は陸上の材木置き場になっている。

弘資叔父は以下のように語っていた。
「宮地さんは宮崎 昇少尉の当番兵だった。オート三輪に乗り新設町の久彦家に荷物を届けに来ていた。除隊後、真面目な性格をみて、久彦が城津(北朝鮮)の工場で働いてもらうことになり、そこで結婚したらしい。」
(結婚は京城でしたのかもしれない。夫人は私の幼少のころを記憶していた、と言うような言葉が小学生くらいの時によく聞いたからだ。)
節子は、8月19日の京城発の引き揚げ開始の際、芳子、輝一と宮地さん母娘が途中まで同行した話をしていた。
芳子親子と城津を一緒に出て来て、豊が京城駅で総督府発行の引き揚げ証明書を節子、芳子と同時に渡したのであろう。しかし、弘資叔父の引き揚げの記録では、列車で釜山までは久彦家家族に同行したが、節子たちは旅館に泊まり、宮地さん母子は港の倉庫に泊まった。節子は、海軍徴用船をチャーターして夜中に急に発つことになり、宮地さんに連絡しなかったことを後の後までとても気にしていたが、宮地母子は節子たちのような命がけの旅行でなく、無事に引き揚げた。
宮地さん夫婦、夫人は兵庫県の出身で、久彦が新宮に来るように言ったのだろう。それからずっと戦後、須川洋行で働いていた。
輝一(てるかず)の話によれば、長女は喜代子、長男は五郎、次男はケンロウと言う名であった。
長女は新宮のマルセ金物店の嫁になったが、子供がないまま若くして亡くなった。
長男は神戸の生協に勤めていた。次男は東京の個人会社の婿になった。
市朗、弘資、輝一と宮地 仙之助さんと付き合いのあった人達は、異口同音に彼は「軍隊上がりらしい実直な人間で誠実、真面目、律儀、無駄口を叩かない」人間と表現していた。
須川洋行を退職後、奥さんの出身地兵庫に移り、そこで亡くなったそうで、長男のところで葬儀を行われたそうだ。

旧久彦・久邸、現在は弘資叔父が住んでいる。左側が貯木場であった。
撮影場所の背後に宮地 仙太郎さん一家の家があった。
久彦は事業を拡大するにまずは人材が第一と考えていた一例であろう。
(この項以上)