5)岸 幹二、初渡航体験記   

アメリカに行ったのは昭和44年1969、27歳のときでした。

僕とアメリカ

 子供の頃、南紀では結構アメリカ帰りの人が多かった。近所にもアメリカ帰りの叔父さんがいて、時々、朝、コーヒーを入れたポットを持ってきてくれた。その時のいい匂いを今も記憶している。しかし、味は覚えていない。中学の時、やはり、アメリカから帰国した若い女性に英語を習いに行った。その先生の喋り方や動作がなんとなくバタ臭く、その時教えてくれるA,B,C の発音がとても、奇妙に聞こえたが、今から考えれば正しい発音だったのである。ある日、レッスンが終わった時、入れ替わりに我々が学校で習っている当の英語の先生が来ていて、びっくりしたものである。その先生はとても、ばつが悪そうな顔をしていた。また、もう一人の英語の先生はアメリカ帰りで、先生のお父さんはアメリカではギャンブラー稼業だったという。ジョン・ウエイン主演の映画“駅馬車”に出ていた、流れ弾に当たって死ぬギャンブラーを思い起こしたものである。また、勝浦にアメリカから宣教師のハリスさん一家がやってきた。外人が珍しいので、近所の子供達と一緒に(大人も混じっていたが)石垣塀の上によじ登り、動物園よろしく庭でくつろぐ家族の様子を見物に行った。このハリスさんの所へも英語を習いに行ったことがある。父曰く、この宣教師たちはアメリカのスパイだと言っていた。そういえば、それほど熱心に布教しているようには見えなかった。勝浦には結構、長く居たと思うが、その子供たちは勝浦弁(荒っぽい漁師言葉)が達者になり、ある時、列車に乗りあわせた人が男の子に失礼なことを言った時、青い目の、その子が怒って勝浦弁でまくし立てたので大いに驚いたという。親族の生駒家にもアメリカに行っていた人がいた。後に海外、とくにアメリカに行ってみたいと思ったのはこのような、環境や経験が漠然と影響したのかもしれない。

アメリカ留学の話

 大阪歯科大学を昭和40年に卒業して、岡山大学医学部歯科口腔外科学教室に入局した。岡山に行ったのはその頃、兵庫県の衛生部長だった須川豊叔父の助言が大きかった。豊叔父は神戸大学、岡山大学の両医学部の非常勤講師もしていた。入局時はたまたま、教授はフルブライト奨学金でシカゴのイリノイ大学に行っていて留守だった。1年後、帰国した渡辺教授には7年ぐらいは無給であることを覚悟するようにと言われた。その頃はいわゆる無給副手という身分が存在したが、後にこの制度は廃止された。教授帰国後、シカゴのイリノイ大学歯学部口腔診断学教室へ毎年一人、研究員を派遣する計画があった。私が在局3年ほどの頃にはすでに3人の先輩が渡米していて、次は丁度、結婚したばかりの講師の先生がほぼ行くことに決まっていた。しかし、何を思ったか私に行かせてくださいとその先生にお願いし、そして、二人で教授室に行って教授の承諾を得た。

シカゴ、イリノイ大学歯学部

今から考えるとよくそんな事が通ったなと思う。しかも、両教室同士の研究テーマは口腔癌の早期発見に応用される剥離細胞診でしたが、私自身は無給副手で、しかも別の研究テーマで実験していて、細胞診のことはほとんど勉強していなかった。昭和44年1月、初めて飛行機に乗るということで、経験者の先輩に詳しく搭乗の仕方を習った。何しろ、ほんの少し前には別の先輩が神戸から船で渡米したばかりの時代である。

羽田空港発 昭和44年1969、1月

空港には郷里の勝浦から両親ら家族、須川節子叔母と薫雄さん、宮崎 喜美子叔母、朝鮮で岸の借家にいた弁護士の田中愛子さんらが見送りに来てくれた。
搭乗して、落ち着いたら、スチュアーデス(その頃はそう呼んでいた)がやってきた。先輩から“最初に飲み物の注文に来るから、コーラは英語でコークというので、まず、コークと言いなさい”と教わったことを思い出した。そこで、「コーク、コーク」と大きな声で連呼したら、なんと、“お飲み物の注文は後からまいります”と日本語でしかも、日本女性だった。シアトル経由でシカゴに近づいてから、雪嵐のため、ミネアポリスで飛行機を乗り換えたりして無事に真冬のシカゴ・オヘア空港に到着した。
予定していた住むところ、大学のStaff Apartmentがふさがっていて、3か月間ほど色んな所を転々とした。最初はゲストハウス、YMCAホテル、病院従業員寮(1階には私と韓国人の留学生のみで、2階以上が看護婦たちで、看護婦寮と言っていい)、最後にFraternity houseという学生の組織が先輩から受け継いで、伝統的に持っている家で歯学部学生が3人いた。地下室で一生懸命歯科技工などしていた。最初の日に、隣の部屋の学生がストーブの説明をしてくれたが、シカゴなまりの英語で、なんかよくわからない。最後にそのストーブを蹴飛ばしたので、てっきり、こわれていて、危ないから使うなと言っているのだと思いこんだ。零下7~8℃と続いた、最初の日、次の日と2日続けて、死ぬんじゃないかと思うほど寒い日々を過ごし、意を決してそのストーブをつけてみると、なんと、ちゃんと機能するではありませんか。危うく凍死をまぬがれた。
Staff Apartmentに入居してから、やっと落ち着いて、教室のテーマに関わる様々な実験研究に取り組むことが出来た。

口腔診断学教室にて

1ドルが360円の時代なので、日本から持参のお金(外貨制限があった)はすぐに底をつき、文字通りひもじい思いをした、初めてもらった給料がドルで、それまで、無給副手の身分だったので大変うれしかったのを覚えている。最初に教室に通い出してびっくりしたのは5時になったら、皆いっせいに帰宅するので一人だけ残って仕事はしにくい状況だった。それまでは大学では診療が終わったら、実験とか研究は主に5時過ぎてからしていたのでいささか面くらった。残って仕事をするのは時間内に仕事をすませる能力がないからだと聞かされた。また、祝日で休むのは当然としても、各々の出身地のお国の祝日にも堂々と休み、夏季休暇なども各々がたっぷりととっていた。まずは“郷に入れば郷に従え”でこちらの習慣になれることとした。

当時のアメリカ社会 1969年

ベトナム反戦デモ

その頃の米国はまだ、ベトナム戦争の最中であり、ヒッピーが巷にあふれ、オカルト集団によるシャロンテート事件などが起きた年でした。前年にはロバート・ケネディやマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺され、黒人による暴動が頻発し、シカゴの下町が燃えるなど不穏な時代でもありました。前任の先生はアパートの窓から市街が燃えるのを見た。

マーティン・ルーサー・キング牧師関連公民権運動署名

それでもこの年には2人の宇宙飛行士が乗ったアポロ11号が人類最初の月面着陸を成し遂げた年でもある。イリノイ大学創設の頃、周りは良い環境だったが、時代を経るにつれ、南から北へと迫ったブラックベルト(黒人が多く住む地域)に囲まれ、犯罪が多発する地域となったという。滞在中にアパートの玄関そして、近くの地下鉄の駅に隣接する駐車場で看護婦の殺人事件が起こった。なにしろ、アパートから大学の敷地までは300mぐらいの道なのに、暗くなると危ないので、キャンパスポリスに送り迎えしてもらわないといけないという。幸か不幸か、日本人、とくに私の場合はそうだが、貧乏人とみなされたのか、危ない目には会わなかった。しかし、同じ教室の大学院学生で同じアパートのDr. タンは帰り道で2人組に脅されて持ち合わせの数ドルを奪われた。ある晩、部屋でチャイナタウンで手に入れた酒の肴のするめをオーブンで焼いていたところ、ドアをどんどんと、たたく音です。何事かとドアを開けてみると、なんと警察官2人がピストルをかまえて、入ってきた。通報があって、死体を焼いている匂いがする、この部屋に間違いないとのことでした。焼いているするめを見せて、納得して帰ったが、びっくりした。連中にはするめを焼くにおいは死体を焼くにおいと同じなんだと、知った。それにもまして、そういった、密告、通報をするというのもいささか、気分の悪いものでした。
 シカゴ滞在中はもっぱら地下鉄を利用して、週末にはミシガン湖に面するダウンタウン界隈を散策した。シカゴ派と呼ばれる建築家達によるユニークな高層ビルが立ち並んでいた。

公園でたむろすヒッピーたち
ミシガン湖とシカゴスカイライン 黒いビルはジョンハンコックセンター

湖畔の公園、シカゴ美術館、科学産業博物館、水族館などは何度訪れてもあきることはなかった。しかし、公園を歩いていると、時々、“25セントくれ”と手を突き出してくる白人の男がいた。日本にはこの手の乞食はいないので最初はびっくりした。シカゴの冬はとても寒く、風も強いので、“Windy city, 風の町”と呼ぶニックネームがある。雪も降り、ミシガン湖も一面に凍って日本から持って行ったコートはほとんど役に立たなかった。アパートの窓からはダウンタウンの摩天楼が見えていた。

アパートから見えたシカゴダウンタウンの様子

様々な人たちに会いといろんな考え方を知る

日本のようにいわゆる、四季の境がなく、春、秋がとても短く、冬からすぐ、夏が来るような感覚だった。4月でも雪が降ったりした。シカゴは割と日系人が住んでいるところで、強制収容所に送られた人々が戦後、シカゴに定住したからだと言われている。日系人が住んでいるところはダウンタウンよりはやや、北寄りだった。譲ってもらった炊飯器でコメを炊き、時々、自炊していたので、日本食の材料はもっぱらこの地域で手に入れた。母が渡米前に勝浦町出身の日系人の上野さんがシカゴにいると聞きつけていて連絡してくれた。この上野さんのお宅はこの界隈だった。奥様は日本から嫁いでいて、家族内の日本語、英語交じりの独特の会話が面白かった。滞在中、日系人関係のイベント情報などは上野さんから頂いた。公民館みたいな所では、時折、日本映画が上映されていて、石原裕次郎や三船敏郎が出ていた“黒部の太陽”はここで見た。また、毎年、銀座祭りというイベントが開かれていた。海外で見る柔道、剣道、空手、日本舞踊、民謡などの実演は日本でも、ひとまとめに見る機会はないので、興味深く大いに楽しめた。

日本人街で行われた銀座祭り

日本の書籍を扱う店(戸栗商店)もあり、そこで、元“東京ローズ”の戸栗さんが働いていて、一度店で見かけたことがある。大戦中、日本は連合国の兵士向けのプロパガンダ放送を行っていたが、アメリカ兵が女性アナウンサーの声の主に“東京ローズ”という愛称をつけたといわれる。日系二世の彼女はたまたま、日本に来ていて、戦争が始まったので、帰国出来ずにいたところを、この仕事をさせられた。東京ローズは他にも何人もいたとされるが、運悪く、彼女一人が網に引っ掛かり、裁判にかけられた。アメリカ本国に強制送還され、女性としては史上初の国家反逆罪で、起訴され、服役した。アメリカ市民権も剥奪され、医師になる夢も潰えて、後に名誉回復されたとはいえ、いかにも痛ましい話である。

アメリカは人種のるつぼといわれるが、教室の人々も様々な背景を持ち、様々な国から来ており、アメリカで生まれ育った人はほとんどいなかった。教室に教授は2人いて、イギリスからきたコーエン教授、そして私がお世話になったメダック教授で2人ともユダヤ人で、大学内もユダヤ系が多くを占めていた。

メダック教授はドイツからアメリカに逃れてきて、大変な苦労をされたと思うが詳しいことは知る由もない。以前は日本人には好い印象を持っていなかったようだが、渡辺教授と知己になってから、明らかに日本人への態度が変わったという。渡辺先生を学者として尊敬するばかりでなく、その人柄が日本人の見方を変えたのではないかと同室の技術員のポールが言っていた。
非常勤で大阪歯科医学専門学校(大阪歯科大学の前身)卒の先輩のDr. Tomiko Ferdman(南 登美子)先生が教室に関係して、来ていた。フェルドマン先生はアメリカの歯科大学を卒業後、アメリカの歯科医師免許をも取得、その後、アメリカ人歯科医と結婚し、開業していた。まだ、日本が戦後の早い時期にアメリカの大学を目指して渡米したその勇気と気概には感服する他はない。仕事は男勝りなのに家庭では主婦としての仕事も怠りなく、食事はいつも、主人と自分と子供用を別々に作るという。アメリカにおいても大和撫子ここにありの素晴らしい先輩がいたことはこのうえなく、心強かった。また、教室に来るたびにおにぎりなど差し入れてくれて、ありがたかった。シカゴ滞在中は週末にお家に呼ばれてご馳走になったり、なにかと相談に乗ってもらい、仕事を手伝ってもらったり、先生には本当にお世話になった。
私より丁度、1ヵ月あとに東京歯科大学より伊藤先生が医学部放射線科のベトナム出身の教授のもとで勉強するためにやってきた。彼は渡米直前に結婚していた。新婦もほどなくして来られ、既婚者優先なので、私より先にすぐStaff apartmentに入ることが出来た。しかし、どんな事情かわからないが、しばらくして、そのベトナム人の教授は他の大学に移ってしまった。そのため、伊藤君は面倒みてくれるところがなくなり、しばらくは、私の実験の手伝いをしたりして、この年の秋には正式に私たちの教室にお世話になることになった。いささかひどい話である。その教授はベトナム戦争のニュースをいつも気にしていたという。買ったばかりの高額の実験用の機器などをそのままにして、転勤していったという。伊藤君にとってあまり、実のある留学生活ではなかったと思うが、新婚旅行の延長と思えば意義はあったのかもしれない。

ポール・ブルラコフ

教室ではポール・ブルラコフという年配の技術員と同室だった。毎日、顔を突き合わすので、自然と親しく会話をすることになる。ユーゴスラヴィアからの亡命者だったが、もとはロシア人である。彼の父親はユーゴスラヴィア王国に仕えていたという。大戦時、王国政府、ナチ、チトー率いる共産党が三つ巴に戦い、彼は王国のために戦ったという。その頃、王様はアメリカに亡命し、ポールら支援者の援助で生活していた。実はこの王様はヨーロッパ有数の大変な資産家で、スイスの銀行に莫大なお金があるはずだが、先代の王様が急死し、暗証番号にあたるものを教えていなかったため、それを受け取ることが出来ないでいた。ポールは王様を支援する団体の集まりに出席するために年に一度、ニューヨークに行っていた。この王様はチトー率いる共産党政権から帰国を許されないまま死去した。残された家族はその後、21世紀になって帰国を許されたそうだ。ポールはロシア国内(その頃はソ連)に親戚、知人がいたので、何かと交流していたようだが、手紙などプスプス穴をあけられたり、開封した跡があったりして、文句を言っていた。米ソ冷戦の最中だったこともあり、相当、検閲を受けていたようだが、恐らく要注意人物として監視されていたのではないか。大変、教養があり、気位も高い人物だったが、時々、詩の朗読(ロシア語で)など聞かされた。ソ連から送られてきたという書物などを見せてもらったことがある。その中で歴史の本だったと記憶するが、日本の地図が載っていて、北海道が真っ赤なのである。聞いてみると、かって北海道はロシアの領土だったというのである。そんな事、聞いたこともないし、あまりにも荒唐無稽な話なので、その時は反駁する気もおこらなかった。しかし、第二次世界大戦の終戦後にソ連が北海道占領をねらって、しかも、相互不可侵、中立を定めた日ソ中立条約があるにも関わらず、攻めてきたことを思えばこの本に記載されていることはロシア人にとっては常識なのかもしれない。また、アイヌ民族は樺太、シベリアあたりにも住んでいるので、同胞を開放するという名目で北海道を攻めてもよい訳だ。さらに驚いたのはユダヤ人に対する考え方である。ある時、絵の話になり、ピカソの絵を盛んにけなして、ヒットラーの描いた絵の方がはるかに上手だと言い、さらに、ヒットラーのユダヤ人殺戮政策は正しかったというのである。おもわず、周りを見て誰か聞いていないかと、ひやひやしたものである。なにしろ、上司のメダック教授はユダヤ人なのである。ポールは何も知らなさそうな日本人だから、安心して本音を話したのかもしれない。ポールは気難しい反面、自宅にも何回か食事に招待してくれたり、ウイスコンシン州の彼の別荘にも連れて行ってもらい、乗馬の初体験をしたり、楽しい経験をさせてもらった。クリスマスが近づいた頃、自宅の居間の壁周囲には彼が子供たちと描いたというロシア独特のたまねぎ状の屋根の建物群を上手に描いていて印象的だった。甘いブランデーなど舐めながら、美味しい食事を頂いた。奥さんもロシア系で控えめな印象を受けた。

ポール・ブルラコフさん ウィスコンシンの別荘

いよいよ、帰国と言う時の話だが、私がヨーロッパを旅行して帰ると聞いて、彼はお願いがあるという。もし、ユーゴスラヴィアに立ち寄ることがあったら、そこにはとても大きなカボチャがあって、その種を送ってほしいと。そんな事のために、わざわざ、ユーゴスラヴィアに寄るなど、あり得ないことなどで、生返事をしておいた。しかし、その機会はあったのである。ドイツの大学を訪れる前に時間的に余裕が出来、ウイーンでビザをとり、列車で入国した。  

くだんのカボチャの種はベオグラードの市場で手に入れ、旅の途中で送ってやったが、その時、カビが生えていたのでもしかしたら、芽が出なかったかもしれない。ユーゴスラヴィアはその頃、チトー大統領率いる共産党政権下で英語もドイツ語も通じない所だったが、とてもユニークな経験をした。この話は別にしたいと思う。
帰国して23年後の1993年に文部科学省助成による海外研修の際にシカゴを訪れ、彼に会った時は最初の奥さんとは別れて、ソ連崩壊後のロシアから来た若い女性と再婚していた。この頃、メダック教授はすでに亡くなっていた。ポールは教室を退職する前に学位を取得しようとしたが、メダック教授の反対もあり、取得できなかったという。再訪持、どんな仕事をしているのか、聞きそびれたが、あまり、元気がなかった。別れる時にはいささか感傷的だった。彼にとっても私がいた頃が最も人生で充実した時期だったかもしれないとふと感じた。

Dr.タン

Dr.タンの解剖学

教室の大学院生のDr.タンは中国系のマレーシア人で、オーストラリアの高校を卒業していた。同年配でアパートが同じだったので、何かと交流する機会が多く、学生会館でピンポンをしたり、時には彼の実験の手伝いをしたりした。将来、解剖分野に進みたいとのことで、解剖学教室で、遺体の剖検など黙々とやっていた。弟がカナダに住んでいて、時々訪ねて行っていたが、白人のガールフレンドがカナダにいて、彼女がシカゴにきた時、紹介されたことがある。シカゴを発つ最後の日、飛行機が早朝発だったので、朝まで、彼の部屋におじゃまして夜を明かして色々な事を話した。その時、日本人は研修を終えるとほとんどの人が日本に帰る。我々はなんとしてでも、アメリカに残ろうとする。何故なら、自分の国に帰っても仕事がないからだという。日本人の君たちがうらやましいと言っていたのが印象的だった。帰国してしばらくして、Dr. タンから手紙をもらった。手書きだったが、その字はあまりにも、小さく、細かいのでびっくりした。書体は性格を表すというが、意外と気が小さい所もあるのかなと思った。それから、半年もたった頃である。Ferdman先生から手紙があり、Dr. タンがアパートの部屋においた腐乱死体で発見され、死後1週間ほど経っていたという。死因はわからないが、ポールによれば、もしかしたら、麻薬が原因かもしれないと。そう言えば、カナダで、あるパーティーで麻薬を使っている人を見て、彼がそういうのはとても嫌いだと私に言っていたのを思い出した。Dr. タンのアメリカンドリームは終わったのである。

黒人の結婚式に参列

教室には黒人の秘書が二人いた。若い方のポリーンは、毎朝、検査するスライドと書類を持ってきた。ジャマイカ生まれのとても陽気でおしゃれな子で、いつもカラフルな服を着て、ほめるとモデルよろしく、その場でくるりと、回ったりしてくれた。私が帰る2年目の暮れに結婚式を挙げるというので、式に招待してくれた。車を持っていなかったので、もっぱら、私の移動は地下鉄を利用していた。南へと下がってもっぱら、黒人が住む地域の駅を降りて、教えられた住所めがけて歩いていると、暗くなってしまった。少し、不安になっていた所、後ろからDr. Kishiと呼ぶ声がする。黒人の女性で、会ったことのない人だった。おかげで無事にたどりついた。私が式に出席することは事前に知らされていたらしい。結婚式が行われた所はアパートのとあるせまい部屋で、友人と思われる黒人が牧師代わりをした。ポリーンは大変喜んでくれた。新郎はカメラマンだった。出席者は黒人ばかりで、私の他は同僚の白人秘書のドロシーがボーイフレンドにエスコートされて、出席していた。その彼が結婚式の間中、不機嫌そうに座っていたのが気になった。帰りはドロシーのおかげで、彼の車でアパートまで送ってもらった。南の方へ深く行ったのは初めてだったが、現在でも危険な地区とされているので我ながらよく、暗い所を歩いて行ったなと思う。黒人の暴動などまだ、時々起こっていた頃である。とある週末、ポールが明日は1年前にキング牧師が暗殺された日なので、危ないので外に出ない方がよいと注意してくれた。当日は雨が降ったので、暴動が起きずにすんだとテレビで言っていた。しかし、私に警告したその日の帰りがけにポールは奥さんの勤めている病院に迎えに行った時、騒乱に巻き込まれた。石を投げられたとかで、週明けの月曜日に目のまわりに黒いあざを作って現れた。そのことを黒人秘書のバーバラとポリーンに言うと、2人ともイッヒッヒと奇妙に嬉しそうとも、とれる笑い方をしたのを今でも覚えている。

Mrs.イバニュー
実験研究の関係で他の研究室にも出入りしたが、そこの技術員のMrs. イバニューには実験の段取りで何かとお世話になった。ユクライナから亡命してきたという。たまたま、ユダヤ人の話になった時に先述のように、ポールと同じようなことを言うのである。でも、ここの教室の教授もユダヤ人ではないかと言うと、ユダヤ人にも例外があるというのである。確かにユクライナは大戦の時にソ連とナチの板挟みで、ナチに協力した歴史はあるようだ。フランスもヴィシー政権の時は大勢のユダヤ人の収容所送りに協力している。ヨーロッパ全体にユダヤ人排斥の思想は確かにあるようだが、我々、日本人には全く、わからないことである。後に、文部科学省助成による海外研修の際にシカゴを再訪した時に彼女にも連絡した。丁度、ご主人が肝臓癌で退院したが、あまり調子がよくないという。ホテルで花を買って、タクシーで家まで見舞いに行った。ご主人のベッド脇で、短く話を切り上げて、待たせた車で帰ったが、運転手にはあんたはよい事をしたとほめられた。その後、岡山大学を退職後の勤め先の姫路歯科衛生専門学校へ、ある日本人から、Mrs.イバニューが私を探しているという連絡をもらった。電話すると彼女は元気そうで、息子が最近、日本人女性と結婚して、大変良い人なのでうれしいと言っていた。

ボストンに行く

実験研究に明け暮れし、丁度、週末が独立記念日という木曜日の午後、私より先んじてボストンのハーバード大学歯学部の関連施設のフォーサイス研究所に留学していた大学同級生の矢尾和彦君(父 龍太郎の項で既述)から電話があり、すぐ、ボストンへ飛んで来ないかと言う。アメリカに飛んでくるのさえ四苦八苦したのに、びっくりしたが、秘書のドロシーの助けでチケットを確保し、その日の晩に出発した。わずか、2時間のフライトだったので拍子抜けした。矢尾君の友人で、水産省から出向してきているという、久保さんという方を紹介され、矢尾君らと彼が住んでいるボストン郊外のダックスベリーの彼の家でお世話になった。広々としたビーチが近くにあり、少し寒かったが海水浴を楽しんだ。
そこの浜辺に生ける化石といわれるカブトガニが結構、たくさん見られたのにはびっくりした。滞在中はプリマスでイギリスからの最初の移民を乗せてきたメイフラワー号を忠実に再現したと言われるメイフラワー号2世や研究所、ボストン市内の見学などを楽しんで日曜日にシカゴに帰ってきた。矢尾君はすでにすっかり、アメリカ生活になれていて、交友関係も豊富だった。矢尾君はそれから、2か月後にシカゴに遊びに来た時、ボストンで知り合った若い日本人パーカッション奏者が、小澤征爾指揮下のオーケストラの一員として、たまたま、シカゴに滞在中で、彼のアパートを矢尾君と一緒に訪ねた。白人の女の子がいて、矢尾君、曰く、彼には女の子がいつも、金魚のふんみたいにくっついているそうで、音楽家というのはよくもてるものだなと思った。彼はその後、前衛音楽家として世界的に幅広く活躍し、グラミー賞にノミネートされるまでになった。

アメリカ国内旅行に出発

いよいよ、帰国となった時、日本人のくせ?あるいは自分の性癖かも知れないが、ボスのメダック教授に“素晴らしい研究生活を送れて、本当に感謝しています。出来れば、継続してもっと勉強したい”と言ったら、夏季旅行から帰った翌週に大学に行くと、なんと“それではもう1年居てもよい”というではありませんか。実は実験も飽き飽きして、本当の所は早く帰りたかったのに、ついお世辞を言ってしまったわけです。もう1年延期となったが、それまでの実験の成果を2編の論文にまとめる余裕が出来、英語を話すのも割と上達したので、結果としては良かったと思っている。その間、最初の年には東海岸をそして、次の年には西海岸を中心に、グレイハウンドバスの乗り降り自由で、全米どこへ行っても結構というパスを使って、アメリカ大陸をくまなく、気ままに旅行したのは良き思い出となった。渡米前に田中愛子さんからヨーロッパは歴史があるから、都会を見るべきだが、アメリカはぜひ、田舎を見ていらっしゃい。アメリカの自然はすばらしいからとの助言を得ていた。事前に大まかな日程は決めていたが、宿は決めなかった。バスのターミナルはどこでも必ず町の中心部にあるので、便利で、到着したらまず、電話帳を繰って近くの手頃なホテルの確保に努め、だめなら旅を続行し、バスの車中泊となる。

最初の年の旅行は9月半ばを過ぎていたが、2週間の予定で、デトロイトからナイアガラの滝を経て、トロント、モントリオールとカナダへ渡り、ニューヨーク、ワシントン、ノックスビルと回ってくる予定をたてた。しかし、うっかりして、アメリカ国外に出る時に必要な書類を携帯せずに旅に出てしまった。一度、アメリカの外に出ると、この書類がないとアメリカに戻れないのである。ナイアガラの滝はカナダ側から見ないとその迫力を満喫できない。バスの乗客で私一人がアメリカ側に置き去りにされることになった。仕方ないのでカナダ行きはあきらめて、そこから、ニューヨーク行きのバスに乗った。

ニューヨークに向かう

途中いささか疲れたので、ピッツバーグで降り、安宿を見つけて泊まったが、これがとんでもなく怪しげなホテルでトイレの電球も切れていて、部屋の壁の向こうがバーのようで話し声が聞こえる。いささか、不安を抱えて一夜を過ごし、あくる朝早々に部屋を出た。まずは旅行の1日目はみじめなものとなった。ピッツバーグからはニューヨークへはノンストップバスに乗った。隣に座ったおばあさんと色々、とりとめのない話をしたのが楽しかった。
夕方、ニューヨークに着いて、電話帳を調べて、ホテルを予約した。ホテルに行く前にまず、憧れていたエンパイアステートビルに行った。

テロで崩壊することになるワールド・トレードセンターに抜かれるまで、この時はまだ世界一の高さを誇っていた。歩いて最上階まで登ったが、着いた空間は結構狭いので驚いた。しかし、眼下のニューヨークの景色には感動した。

屋上から北西を見た風景

ニューヨークでは3泊したが、その間、観光バスにも乗ったりしたが、地下鉄を利用して、国連本部、ブロードウェイなど、もっぱら歩き回った。

フェリーの乗り場

愉快だったのはバッテリー公園から、スタテン島へ行くフェリーボートで、片道20分ほどだが、5セントだった。その頃でも結構せちがらいニューヨークでこんな安い乗り物はめずらしかった。湾内の巨船の出入りとともに、自由の女神像やマンハッタンの摩天楼を見るのは下手な観光船で回るより面白かった。

ワシントンDCへ

ニューヨークからワシントンDCへバスで直行した。ワシントンDCでは乗り降り自由のバスで、リンカーン記念堂やジェファソン記念碑など様々な場所を回った。ホワイトハウスではたまたま、大勢の人だかりがしていたが、後で、その日の新聞で知ったが、ニクソン大統領夫妻が前庭で熱烈な共和党女子連盟の支持者に挨拶しているところだった。行列に並んでホワイトハウスの内部に入ることが出来、赤の部屋とか青の部屋、宣誓の場などを見ることができた。

宣誓の間の天井

何よりもホワイトハウスは大統領が家族と住んでいる所で、そこを見学できたことは感激だった。しかし現在は9.11同時多発テロ以来、このような見学はできないという。アーリントン国立墓地、永遠の灯が灯るJFKの墓

また、1年前に暗殺されたロバート・ケネディの墓などを訪れた。

南部に向かう

ワシントンからは直行のバスでノックスビルに着いて宿をとった。次の日の朝、小型のバスで行くグレートスモーキー山脈国立公園への3日間のツアーに参加した。山々が連なり、丁度、紅葉の季節でとてもきれいだったが、どこかで見たようなこの景色は日本と同じだと気が付いた。

インディアン村、開拓当時の丸太小屋などを見て、初日はノースカロライナ州のアッシュビルで泊まった。とても静かできれいな町だったが、あまり人が通っていない。あくる日の新聞で知ったのだが、この町の高校で黒人学生と警察との間で衝突があり、市長が緊急事態と外出禁止令を出していた。この高校は白人と黒人の高校を統合したばかりだった。後に黒人の学生が学校側に改革を要求している内容をみると、
“チアガールが白人ばかりである。化粧のクラスで黒人の髪の処理の仕方を教えない。運動部の黒人学生は強制的に丸坊主にされる。黒人の学生はほんの数回遅刻すると帰宅させられる。バスが遅れがちになるので仕方がない。黒人の歴史を白人の教師が教え、使う教科書の著者も白人なので黒人の歴史を教えるにはふさわしくない。黒人の学生はColoredとかBoyとか呼ばれるが、どちらの呼ばれ方もいやだ。昼食で食堂にいくと何かとトラブルに会う。”これらの要求をその後どのように解決したのだろうか。

その後、花崗岩の一枚岩で出来ているチムニー・ロック

やダムなどを訪れ、ノックスビルに戻り、インデイアナポリスを経てシカゴに帰った。旅行中に田舎の雑貨屋ではカメラなどと並んで、銃やピストルが売られていたが(写真20)、バスの乗客が車中で荷物を詰める時、平然とその上にピストルを載せていたのでぎょっとした。アメリカの銃規制と黒人問題は歴史的にも根深く、容易に解決する問題ではないのを実感した。

2回目の米国バス旅行 1970年夏休み

Youtube On the road again willie nelson

2年目は6月半ば過ぎから7月にかけて、20日ほど、米国西部をグレイハウンドのバスで旅行した。シカゴを出発してセントルイスを経てオクラホマに着き、そこからエルパソ行きのバスに乗った。一気にイリノイ州からミズーリ、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの各州を横断する、最初から長時間、強行軍のバス旅行である。うんざりするほどの砂漠地帯を通る。

途中で宿を取って、アリゾナ州のカールスバッド洞窟に行った。

砂漠の真ん中にある巨大な鍾乳洞でエレベーターで地下まで降りたが、とてつもなく、広く、一通り見て回るのに何時間もかかるという。しかし、帰りのバスを乗り損ねると、砂漠の中で野宿することになる。朝夕の蝙蝠の大群が有名だがとてもそれまで滞在するわけにはいかない。鍾乳洞は見ごたえがあったが、4時間あまり、地下を走り回って帰りのバスに間に合わせた。エルパソはテキサス州のメキシコとの国境の町で、リオグランデ河を隔てた対岸がメキシコである。まさにメキシコにいるのではないかと思うほど、メキシコ情緒いっぱいの町だった。住民もほとんどがヒスパニック系だという。

Youtube  marty robins el pas

ウエスタンソングにエルパソという歌があり、西部劇もある。エルパソよりフェニックス経由でアリゾナ州のフラッグスタッフに着いた。

西海岸に向かう

翌日、ここからグランドキャニオン行のバスツアーに参加した。

グランドキャニオンの荒々しい偉観には圧倒された。ここからは一路、ロスアンゼルスに向かう。
ここではまず、デイズニーランドのバスツアーに参加して、1日中楽しんだ。

この町の宿は大学などを訪問するのでまずまずのホテルをとった。どんなホテルに泊まっているかで品定めをされると聞いたからである。まず南カルフォルニア大学ロスアンゼルス校歯学部に電話して予約を取り訪問した。勤務している田中先生が忙しい中を案内してくれた。学内で偶然にも大学時代の恩師お二人と遭遇した。お一人は米国人と自然に対応していたが、驚いたのはもう一人の先生で、米国人の先生と握手する時に、目をつむって、しかも完全に後ろを向いて握手するのである。これには相手の先生もびっくりしたにちがいない。後で聞いたことだが、この先生はこの後、まもなく日程を切り上げて、お一人で密かに帰国したと聞いた。アメリカに来て、戦前の鬼畜米英の教育がよみがえったのだろうか。次に口腔外科専門医のヴァンバス先生のクリニックを訪ねた。先生は以前、岡山大学にこられたことがあり、すでに、シカゴを発つ前に手紙は出していた。電話すると翌朝、キャデラックを運転してホテルまで迎えにきてくれた。麻酔下の手術を見学させてもらった。

ロサンゼルスからはやはりバスでサンフランシスコに移動した。1日目はまず、名物のケーブルカーに乗って、急な坂の多い町を上ったり、下りたりした。終着駅では乗客の手も借りて、人力で車体の方向転換をするのにはびっくりした。フィシャ―マンズ・ワーフでカニを食べ、ゴールデンゲイトパークなどを訪れた。サンフランシスコは海洋冒険家堀江 謙一氏が太平洋単独無寄港横断に成功して入港した町である。そのヨットが陳列されていたが、意外に小さな船だった。翌日はカリフォルニア大学サンフランシスコ校歯学部のシルバーマン教授を訪ねた。シルバーマン先生は以前に岡山大学の我々の教室にきたことがあり、シカゴを発つ丁度、1週館前にシカゴで口腔の粘膜病変がテーマの学会で偶然お会いしていて、この日の訪問を約束していた。先生の著書を頂いたりして、現在、取り掛かっている実験の内容などを話題にした。先生の秘書はオリモトさんと言って日系の方だった。その日はオリモトさんの家に招かれて家族の皆さんと一緒に食事をいただいた。あくる日はカルフォルニア大学のキャンパス内を車で案内してもらった。カルフォルニア大学は多数のノーベル賞受賞者を輩出しており、ちなみに山中伸弥先生はここの医学部に在籍していたことがある。

ヨセミテ国立公園の自然

サンフランシスコからはヨセミテ国立公園を目指した。まずマーセドに着き、そこから、ヨセミテ渓谷を訪れ、キャビンを借りて宿泊した。周りの渓谷の美しさや滝の迫力に圧倒された。

夜寝ている時に外で音がしたので、覗いてみるとごみ箱をあさっている穴熊みたいな動物だった。刺激しないようにそっとベッドに戻って寝た。翌日はグレイシャーポイント

紀州の木とは違う大きさ、根の上に座っているのが分かるだろうか・・・

セコイアの木の森のマリポーザ・グローブを巡るツアーに参加した。セコイアの木は世界で最も大きいと言われているが、その巨大さに驚いた。観光用の無蓋車に乗っている時に向かいに座っていた女の子がセコイアの木の“松ぽっくり”をくれたが、あまりにも大きくて、その後の旅の途中で持て余して捨ててしまった。

マーセドからはユタ州のソルトレイクに向かった。ソルトレイク市ではモルモン教の聖地で荘厳な教会へ

そして、市の名前由来の塩湖などをおとずれた。
 

“モルモン教はキリスト教の一派だが、教義に一夫多妻制を認めたので、ひどく迫害を受け、教祖が信徒と共に塩湖と砂漠に囲まれたこの不毛の荒地にたどりついたと言われる。現在はユタ州の州都で、アメリカの経済界、政界にも結構、多くの信者がいる。

コロラド州デンバーに

ソルトレイクからはロッキー山脈の東麓で標高の高いデンバー市に丸一日かけて翌朝にたどり着いた。ここではホテルの部屋が空くまで、市内の動物園を訪れた。ここで公衆トイレに行った所、びっくりしたのは広く開放した部屋にずらりとたくさんの便器が並んでいたことだった。幸い自分一人だけだったので助かった。トイレは閉鎖された空間という固定観念があったので印象的だった。しかし、シカゴのYMCAホテルのトイレはカーテンだけだったのを思い出した。翌日は標高14,000フィートのマウント・エバンスへのバスツアーに参加した。舗装道路をバスで行ける北米では最も高い所で、頂上にある湖、サミットレイクは7月半ばだったが凍っていた
街中で過ごすような半そでの服装で自分が富士山よりもずっと高い所にいるとは思えなかった。

富士山より1000mも高い、マウントエバンス標高4300m頂上、軽装のまま立つ。

デンバーからはカンサスを経てオクラホマそしてシカゴへと27時間をかけてまっしぐらにシカゴに帰ってきた。週末 を経て、翌週、大学に出た時、メダック教授から、もう1年居ても良いと言われてびっくりすることになった。

おわりに

2年目、いよいよ帰国する時に、岡山では渡辺教授が急に他大学に転任し、後任教授は決まっていない。私の身分も極めて、不安定で、どうなるかわからない。と言うような状況だった。
そこで、ヨーロッパを3か月ほど、じっくりと回って帰ることにした。メダック教授らに紹介状を書いてもらい、ヨーロッパ各国の大学や研究所を3ヵ月ほど回る計画をたてた。大学訪問などの時以外は、前もって宿は決めずに、米国で購入した乗り降り自由でしかも、1等車に乗れる、年齢制限ぎりぎりで購入出来たユウレイルパスを使い、鉄道で各国を移動した。その頃、チトー大統領統治下の共産国だったユーゴスラヴィアまで足をのばしたりした。日本人は貧乏だと認識されていた時代でもあり、あちこちうろうろしても、盗難とかの危険に会うことはなかったのは幸いだった。また、まったく言葉が通じない国でも人とのコミュニケーションは出来、何とかなることも知った。多くの国を訪れた経験は私のその後の国際的な活動に少なからず、資するところがあったと思っている。

初渡航以来、様々な国で様々な経験をし、とくに米国はその後、何回も訪れる機会があった。しかし、同じ景色をみても、初めての頃のように感動することはなかった。やはり、若い時のような感受性、体力、気力が失われてきたからに他ならない。そして、最初のこの渡航経験はその後の私の人生に大きく影響したのは確かである。
そして、“若い時に旅をせねば老いての物語がない”と強く感じた次第である。

今にして思うアメリカの変遷と姿 令和5年2023年2月

半世紀以上も前、憧れのアメリカに行ったのに、シカゴ滞在中はどういうわけか、アメリカの悪口ばかり言っていたような気がしている。
白人ホームレスが多い、警官を見れば、威圧感ばかりで、何だか頭が悪そうだとか、犯罪が多い、デパートでは常に万引きの現場(黒人が多かったが)を目にする。食事がまずいとか(本当はお金を出せば美味しい所はいくらでもある)。シカゴの日系レストランBenihana でアルバイトしていた知人にステーキをおごってもらったことがあった。その時、店内に美空ひばりの演歌が流れていて、それまで、そのような歌はあまり好きでなかったのにとても感激したりした。妙に愛国心が強くなっていた。アメリカはその頃も今も、大学だけでなく、どの分野でも世界中から色々な人が集まってきて、大きな活力となって発展している。
医学・歯学も最先端の研究が集まる。人々の価値観も様々で、明確に自分の意見を言わないと埋没する。しかし、成果を出せば自然と抵抗なく認めてくれる。日本人も含め、世界中の様々な背景を持った人々に接することが出来たのもアメリカに居たからこそである。シカゴの暮らしは我が人生でほんのわずかの期間だったが高揚感を持って、そこで過ごした日々がとても懐かしい。

私がいた時期のアメリカは激動期だった

後に私がシカゴに居た頃の年代を聞いたアメリカ人は異口同音にその頃はアメリカの激動期だったという。ニクソンが大統領になったばかりで、ベトナム戦争はまだ終息していない。暗殺されたキング牧師は非暴力による黒人への差別をなくし、平等を謳う公民権運動を指導した。ケネディ大統領が提案した公民権法は施行後、5年ほどが経っていた。キング牧師の“I have a dream”の演説は有名だが、ともに夢を語った2人がいずれも銃弾に倒れた。また、ロバート・ケネディはキング牧師の追悼演説をしたその2か月後に大統領選のキャンペーン中に暗殺された。純真な理想主義の時代の終わりを象徴していたのだろう。黒人への様々な優遇措置がとられ、エリートの黒人が出てきていた。それでも、その頃は、将来、黒人の大統領が出現するとは到底考えられなかった。法のもとに差別してはいけないといっても、差別意識は直ちに消えるわけがなかった。

そして今感じることは…

2020年に白人警官によって頸部を押さえられて死亡した黒人ジョージ・フロイドは前科5犯、強盗団の首謀者で妊婦に銃を突きつけるほどの悪人で190cmを越す大男、押さえていた警官も怖かったのではないか。死後、聖人に祭り上げる運動まであり、過剰に擁護された感がある。黒人への差別反対を唱えると何でも許される傾向には反発する人もいて当然だろう。あらゆるリベラルな運動に言えるが、また反動が生まれると怖い。

理想を追い続けているアメリカ

渡米前に英語の耳を慣らすため1960年の大統領選で議論を戦わす、ケネディとニクソンのテープを買って、何回も聞いた。とても、聞きごたえのある内容で、どちらも大統領候補として、甲乙つけがたい見識を披露していた。
しかるに、2020年のトランプとバイデンの討論は互いに相手を誹謗中傷するばかりで、とても程度が低く感じた。アメリカの国内も黒人や移民、中絶などの問題を巡ってこれまでになく対立している。こんなに難しい問題を抱えていては普通の国だったら崩壊しかねない。しかし、中国が台頭してきたとはいえ、アメリカはまだ、まだ圧倒的に世界一の経済、軍事大国である。どんなに混乱しても、いざ非常時ともなればアメリカ国民は星条旗のもと、国歌を歌い固く結束する、と私は信じている。

―岸 幹二アメリカ初渡航体験記おわりー

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