須川 弘資の記録 その四

戦後の学生時代

昭和5年生まれの私が京城の龍山中学3年生、15歳の時、湯川に引き揚げてきて、京都の同志社大学を卒業するまでの話である。(昭和45年1970記)

新宮中学に編入 昭和20年1945,9月

引き揚げ直後、湯川に落ち着いてからは、別にする事も無く、毎日、湯川の入り江で海水浴に明け暮れていた。

ゆかし潟

9月初旬、我々第一陣が何とか引き揚げて以来、未だ誰も帰って来ていない、ある日のこと。喜代門の生駒 千里(せんり)叔父(母とせの父方従兄)が来て、「中学だけでも出なくては、……新宮中学に転入願いを出しておいたから…」と。ボチボチ退屈して来た頃だったし、何と言っても衣・食・住、お世話に成った千里叔父さんの言うことだし、本人としては、せめて後から引き揚げて来る、親の顔を見てから、と思ってもみたが、お願いすることにした。
早速、翌日には、千里叔父に連れられ、新宮中学に出掛けたが、 思えばその時が一生の大半を過ごす事に成る新宮への第一歩に成った。
新宮駅から、学校迄の道を(50年経った今も余り変わり映えしないが)歩いて行ったが、校舎は木造で(龍中は鉄筋2階、一部3階建だった)、運動場は全部畑に開墾されて居り、希望に燃えた学び舎とはお世辞にも言えない状態だった。
学校に着くと直ぐ、千里叔父が中学時代同級生だったと云う校長先生にお会いし、その場で編入試験無しでの入学を許可された。
そこで担任の先生に引き合わされ、引き揚げて来て何も持って無いと云う事で、使い古しの教科書を渡され、翌日から登校することと成った。
授業は外地に比べ大分遅れている様で、龍中一年生で習った所が大部分で、当分の間何もしなくても付いて行けそうだった。……しかし此の油断が後に京都府立一中に入ってから苦労するのだが……
登校は湯川からの汽車通学で、上級生・下級生・合せて5-6人だったか。
戦後直ぐの事で、皆下駄か藁草履を履いていたが、勿論そんな物は持っておらず、真夏だと云ぅのに、引き揚げの時に履いて来た皮のスキー靴、戦闘服の儘、鉛筆がわりに朝鮮から大事に持って帰ったシャープペンシル一本だけと、どんなに肩身の狭い思いをした事か。やがて「喜代門」の叔母(みなえ叔母)より、当時支那戦線に出征してまだ復員していなかった息子(倫造 みちぞう…後の那智勝浦町長)の学生服・靴・下駄・学用品等を貰い何とか一人前の姿になる事が出来た。
学校には毎日弁当を持って行ったが、その頃には「喜代門」を出て、向いの須川の家に移り住んでいたので、弁当は姉達が作ってくれた。心のこもった ”手作りの弁当“ と云っても、籐で編んだ弁当箱にご飯と梅干しを入れた ‘いわゆる’ 日の丸弁当だったが、ご飯がまずく、食べ盛りの私でもなかなか喉に通り難かった。
姉達が古い「かまど」で、生まれて初めて見たと云う「火吹き竹」を使い、一生懸命拵えてくれた弁当なのでまずいとも言えず、何とか食べて帰ったが、後で聞いた所、配給で玄米を貰い、精米することも知らず、玄米のまま炊いたとの事。
暫くして一升瓶に入れた玄米を棒でつついて精米する事を教えられ、当分の間学校から帰った私の仕事となる。
当時の同級生と云っても、殆ど覚えて居ないが、隣の席にいた毛利君(養子に行かれ片山…城西歯科大学教授…40年後に長男慶一がお世話に成った)と、母方従兄弟の生駒 太(いこま ふとし)君で、後に同志社大学で、森兄弟・坪野君等と一緒になったが、当時、面識は無かった。
私は節子姉と次男恒次、芳子義姉と長男輝一と5人で引き揚げてきた。
やがて、母と節子長男薫雄・喜美子姉と敬久・出征で南鮮にいた父方従兄弟の中村正男の組……豊兄…久兄一人……父と、岸のあい義姉と女の子2人(美江・泰江)の組……岸の兄と達之介義父と息子2人(達也・幹二)の組と、次々と引き揚げて賑やかになった。
岸兄の家族は勝浦の岸の系列の「貴志の湯」へ厄介に成り、他は湯川に落ち着くが、何と云っても湯川の家は元旅館だったので、部屋数も多くみんなが寝泊まりには不自由する事は無かった。
引き揚げてからの家族は、夫々百姓に精を出す者、塩炊をする者、担ぎ屋をする者と、今では考えられない程の苦労の連続だった。特に百姓での最初の収穫までは、食うや食わずの日々で、まさに天国から地獄への生活だった。
そんな或る日、私の母方従兄弟で、岸 あい義姉の弟になる俊チャン(玉置 俊彦 としひこ、後の京都赤十字病医長…当時京都府立医大の学生だった)が遊びにきて、色々と京都の話を聞いていると、何とか私も京都に出て勉強したくなって来た。
暫くは必死に成って生活している皆の姿を見ていると、なかなか言い出せず辛抱していたが、或る日、駄目で元々と、母(”マッカーチャン“ 当時占領軍の司令官、マッカーサーとカーチャンを組合せ皆そう呼んでいた)に打ち明けてみた。
すると意外なことに、京都遊学を承知してくれたが、今に成って考えて見ると、財産を失った今、財産分けの積もりで苦しい中を承知してくれたのかも。

京都で勉学を続ける 昭和21年

早速気の変わらぬ内にと、京都で編入試験を受けられる学校を探しに行くことにした。3ヶ月程通った新宮中学には、サラサラ未練も無く、無断欠席の儘、翌日の列車に乗り「引揚証明」を使い無賃乗車で “一人” 京都に出て行った。

昭和21年の京都駅

初めて見る京都では右も左も分からず、うろ覚えに聞いていた、俊チャンの下宿を探したが、どうしても解らず(後で解ったのだが下宿のそば迄は行っていた)、電話を掛けるにも電話番号を聞いて無かったもので、とうとう見付ける事が出来なかった。
下宿を探しにウロウロしている時、まるで西洋のお城の様な建物を見付け、表に回って見ると「京都府立第一中学校」の看板が出ており、これがあの有名な「一中」かと、木造の新宮中学と比較してしまい、どうしてもここに入らねば、と決心する。
ウロウロついでに、そこから歩いて兄達(久、濟)の出た同志社大学迄行き、赤レンガ造りの荘重な建物を見学、さらに京都大学へ、そして俊チャンに逢うべく京都府立医大に回って行ったが、時間が遅くもう帰った後だった。その時刻に成ると、日も暮れて来るし、帰りの汽車も無く、旅館に泊るには手持ちの金も乏しく、11月(昭和20年)というのに野宿する事にした。

同志社大学

昼間見付けていた京都御所の草むらを、野宿の場所と決め、そこで横に成ったが、夜が更けるにつけ、シンシンと冷えて来るし、居たたまれずに夜の町、京都駅を目がけて歩いて行った。
今思えば零下20度―30度まで下がる朝鮮に生れ育った我々には、内地の冬はまるでポカポカ陽気で、最初の冬は寒さ知らずのはずだった。(その反動か2年目からは極端な寒がりに成って仕舞ったが)。
さすが京都の底冷えには応えたが、駅に行くと待合室には大勢の旅行者(担ぎ屋)が泊まっており、その中に混じって朝迄過ごし、翌日の汽車で無事帰って来たが、考えて見ると何の事は無い、[京都見物]をして来ただけだった。家に帰り暫くして、今度は母が、で張ってくれ、母親同伴で再度京都行きとなる。
前回とは違い今度は駅前の松本旅館(現在も営業中)に腰を落ち着け、早速翌日から母の活動が始まったが、さすが一中、途中編入はなかなか認めないとのこと。それでも母は諦めず、京城時代お世話に成った人、お世話をした人、で現在京都在住の方の家々を2日掛かりで一軒一軒尋ね歩き、一中編入のコネを探し回ってくれた。最後には戦死した濟(わたる)兄が同志社時代に下宿して居た「清美アパート」に行き、入学出来たら下宿させて貰うよう、頼んでいたが、その時点では未だ入学出来るかどうか解らなかったはずだった。
京都二中か京都三中だったら編入出来るとの話も有ったが、私としては最初に見た校舎が忘れられず、母にその話をした所、母もその気に成ってくれ、 3日目に直接、学校に頼みに行く事に成った。
学校の隣に学校長の官舎が在り(今でも在ると思うが)、母はいきなり、そこに入って行き、私は外で待っていたが、どんな風に話を持って行ったのか、大分経って出てきた母の「ニコニコ顔」は私の一生忘れられない「思いで」となった。
早速その足でまた「清美アパート」に行き、部屋が満室で、家族用に使っていた和室付応接間を空けて貰い、そこに住む事に成ったが、そこまで、便宜を図ってくれたのも、以前下宿していた濟兄の人徳だったのか。

その時より10年ほど前の濟兄と清美アパート

京都府立一中生となる 昭和21年4月

翌日又一中に行き、多分形式的だったが一応編入試験を受け、晴れて一中生と成ったが、今考えて見ると100パーセント母のお陰で、これに応えるには勉学に励み、第三高等学校→京都大学へと進み、成るべく学費を掛けず、偉くならねば、と「一応」決心する。

戦後の松本旅館あたり


ところが一中に入ってからが大変で、京都は戦災に遭わなかったせいか、勤労動員が無かったのか、勉強が大分進んでおり、特に数学はチンプン・カンプンで、何を習っているのかさっぱり解らず、これは大変な事に成ったと、一人下宿で頭を抱える事に成った。と言っても最初の内は教えを請う友人もおらず、暫くして仲良しに成った羽場君に出会うまで、大変な苦労の連続だった。
当時の同級生は殆どが京都の人間で、皆女性的な京都弁を使い、標準語に近い外地語の私とはアクセントも違うし、そのくせ、秀才面が鼻に付き、暫くの間皆に溶け込んで行けなかった。
一か月程経った頃、登校の途中でよく一緒に成る生徒と話を交わす様に成ったが、それが羽場 俊君で、彼は大連一中から陸軍幼年学校に進み、終戦で除隊に成ったが、両親は未だ引き揚げて来ず、一人いる兄も戦地から帰らず、親戚を頼って京都に来たとの事。境遇の似た者同士、意気投合しそれからの2年間、新制高校に移る迄、兄弟同様の付き合いが始まった。
(彼の両親は満鉄に勤めていたとかで、行方知れずのままで、とうとう帰って来なかった、兄も戦死したとかで天涯孤独に成り、旧制中学は親戚に行かせて貰ったが新制高校には進まず退学して仕舞った。勉強の良く出来る優秀な男だったのに現在は何をなさっているだろう)。
その羽場君とは家も近く、殆ど毎日遊びに来て、試験の前には私の下宿に泊まり込み、一緒に勉強に励んだが、彼の場合、幼年学校では勤労動員も無く、勉強は可成り進んでおり、一中での授業は苦もなく付いて行ける様だった。そこで私の家庭教師代わりを引き受けてくれ、お陰で私も落第する事も無く何とか付いて行く事が出来た。

食料難になやまされた

当時の食事と言えば、配給制で私達下宿人は先ず外食券を交付され、それを持って外食食堂に食べに行くのだが、その頃の食糧事情は最悪で遅配・欠配続きだった。ある時は食堂も休みで、食べる物も無く水を飲んで只我慢するだけの生活もあった。たまに黒砂糖の配給があったとかで、それで飴を作りご飯代わりにと、出された事もあったが、腹の足しには程遠い物だった。
「清美アパート」の他の下宿人は殆どが京大生だったが、皆そんな時は何処で手に入れるのか、米を炊いたり芋を蒸したりしてしのいでいる様子だったが、私は漏れて来る、その匂いを嗅ぎ乍ら只我慢する丈で、現在背丈が思った程伸びなかったのも、育ち盛りの当時の空腹の故かも知れない。
たまに母が米と、おかずの「サンマ」やら「イカ」を持ってきて、飯盒でご飯を炊いて食べさせてくれるのが楽しみで、 その時には羽場君にも来て貰い、日頃の家庭教師代わりのお礼をさせて貰う事が出来た。
然し母には心配かけまいと、当時の食糧事情は言えなかったが、母も下宿の叔母さんに聞いてウスウスは感付いていたのか、それからは再々食料持参で来てくれる様に成った。
生活費は幾ら送って貰ったのか忘れたが、下宿代を払い他の経費を引くと何程も残らず、京極にあった闇市に行き、切り干し芋を買い食いすると終りだった。
学校が休みに入ると例の「引き上げ証明」を使い、(この証明書は3年間程利用させて貰った)湯川に栄養補給と父の百姓の手伝いの為帰る事にしていた。
羽場君は休みに成っても帰るさきも無く、親戚の家で肩身の狭い様子。2-3度湯川に連れて帰ったが、その時は夏山(ナッサ)浜で母が塩炊きをする薪木集めの手伝いやら、父と畑に肥を運んだり、結構真面目に手伝ってくれた。
昭和22年12月末、学校が休みに入り、いつもの様に、翌朝一番の汽車で湯川に帰る予定で床に付いたが、夜中に大きな地震が有り目を覚ました。大した事もなさそうなので、予定通り帰る事にし。京都駅まで行くと、案の定、紀勢線が不通に成っており、田辺迄の折り返し運転中との事、引き返した所で、金も無く、勿論食う物も無かったので、そのまま汽車に乗り行ける所迄行って見る事にした。
田辺に着くとやはり不通に成っており、駅員の話しでは、そこから一駅歩いて芳養の港に行くと、勝浦への船が出るとの事。乗客は皆ゾロゾロと線路伝いに歩き出したので、その後に付いて行く事にした。
芳養の港に着くと、なるほど船が待っていたが、船運賃は別料金との事、幾らだったのか覚えて無いが、無一文の私には払えるはずも無く、仕方なく乗船の順番待ちで並んでいた後ろの人(一見担ぎ屋風の人だったが、勿論初めて会った方)に学生証を見せ、運賃分貸してくれる様頼んで見た所、気持ち良く出してくれ、無事帰り着く事が出来た。
その人は新宮の方で商売の帰りとか。翌日、早速返しに行って来た。
家は今の郵便局、本局の近所に住んでいた。現在家は無くなっているが、何処に引っ越しされたのか? その金も丁度母が留守だったので、当時新宮に移り住んでいた節子姉に借りたが、その節子姉には未だ返して無いと思う。
あの有名な南海大震災だった。
以上の様に一中時代は希望に燃え入学したわりには、大して勉強も出来ず只付いて行くのが精一杯だった。が、空っ腹を抱え、京城時代の「銀飯とか羊羹とか」を、夢に見る、毎日だった当時としては仕方なかったと思っている。若しその頃、握り飯一個でも余分に有れば人生も変わっていたかも知れない。

新制高校時代

昭和23年、教育改革が実施され、学校制度も変わり新制高校に移る事となった。今までの府立一中は洛北高校と成り、府立一女が鴨沂高校と名前が変わり、初めての男女共学と成る。同時に学区制度が行われ、私は鴨沂高校に移る事と成ったが、旧制高校に最後の受験のチャンスがあるとの事、勿論京都の第三高校を受ける積もりで願書を出すべく担任の先生に頼みに行った所、「三校は無理と思う岡山の六校を受けて見たら」との事。私としては三校でも六校でも同じ事で早速、六校の理工学部に願書を出して貰った。
一中から岡山の六校を受けに行ったのは私と江種 達雄君と二人だけで、彼は兄が岡山に居るのでそこに泊って受験するが、何なら一緒にどうか、との事。断る理由も無く厄介に成る事にした。彼も理工学部志望との事。成績も同じ程度だったし心強い道連れが出来たと勇躍受けに行ったが、今考えて見ると、さながら「ドンキホーテ」の岡山行きだった。
無事試験を受け一旦京都に戻って来たが、合格発表は構内の掲示だけで各自には連絡しないとの事。もう一度見に行く岡山迄の往復の汽車賃も無く、自信も無く、とうとう行かなかったが、ひょっとして奇跡が起きていたかも?
鴨沂高校に移った頃からは徐々に食糧事情も良くなってきて、もう空っ腹を抱えてと言う事は無くなったが、「金欠」は直らなかった。
六校受験でごたごたしている間に、親友だった羽場君は親戚の家を出たとかで、連絡も付かず別れて終ったが。新たに片桐 浩二君、江川 進君、石川  昇君、(この3人とは今でも文通している)、その他笠島 俊男君、勝 正君、達と友達と成った。
世の中も大分落ち着いて来たのか、新たな学校でのクラブ活動も盛んに成って来た。そこで6人が発起人になり写真部を作り、学芸会で写真を撮り皆に売って部費を稼いだり、天文部の下請けで星を写したり、結構楽しいクラブ活動だった。
然し写真機を持っていないのは私と江川君だけで、もっぱら現像・引き伸ばし・係りの裏方ばかりだった。写真展等開く時には片桐君に借りて写していたが、引き揚げの途中盗まれたローライコードが有れば、と何度泥棒を恨んだか。
新制高校も約一年で第一回の卒業生と成り、新制大学の受験のシーズンが来た。その頃には当初の勢いは完全に消え失せ、京都大学は諦め、同志社一本に絞った。
兄達の出た同志社に憧れたのと、初めて京都に来た時、野宿する積もりだった京都御所が近かった故もあり、若し失敗したら進学を諦め、家に帰る積もりで掛かったが、無事合格することが出来た。

同志社大学時代 昭和23年

合格して一番喜んでくれたのは、やはり母親だった。早速上洛し、合格祝いにと、京極に出て、その頃にはボチボチ店開きしていた洋食屋で、初めて、ナイフとフォークでの食事を食べさせて貰い、古着屋で学生服を買って貰ったが、今と成っては一生忘れられない思い出となった。


大学に入ったのを期に4年間お世話に成った「清美アパート」を出て、近くの堀田さん宅に下宿を変わる事と成った。同じく同志社に入った片桐君が、親が名古屋に転勤に成り、下宿を探していたので、2部屋借り、籤引きで部屋を決め一緒に住む事に成った。ここでは一年遅れて入学して来た、太(ふと)チャン(従兄弟の生駒 太君)も私と同居し、お陰で下宿代が半分で助かった。
堀田の下宿では約2年間お世話に成ったが、この2年間が一番有意義な学生生活だった様だ。一階には下宿の叔母さん一人で住んでおり、二階は2部屋丈のこじんまりした下宿だったが、此処に3人で住み、江川君とか石川君等入り浸って、特に江川君など月の半分位は家にも帰らず、家から米を持ち出して来ては、一緒に暮らしていた。
先ず朝眼が覚めると布団の中でジャンケンをし、負けた者が起きてご飯を炊き、おかずを拵えるのだが、おかずと言ってもせいぜい、太チャンが勝浦から下げてきたサンマの干物くらい、後は御飯に醤油をかけて食べたり、それに飽きると今度はソースをかけて食べたり、たまに誰か金を持ってると外食したりの生活だった。
ご馳走に飢えていた或る日の事、何時もの様に江川君が来て、「いつもお世話に成っているので母が皆にご馳走をしたいから」との事、彼の話しでは今から彼の家で大事に飼っているチャボを潰し、すき焼きをするので手伝って欲しいとの事。
雪が積もり寒い日だったが、私の他・生駒・片桐・森の四人で江川の案内で初めて彼の家に急いだ。家に着いたが留守の様で、暫く待っていたが誰も帰って来ず、そのうち誰言うと無く「ご馳走に成るのに手伝わなければ」と云う事に成り、鳥小屋に飼っていたチャボを一羽引っ張り出し、私が江川君の用意した出刃包丁で首を落としたが、おそるおそる、だったのか、首が半分残り、血を垂らし乍ら庭を逃げ回り、雪で真っ白だった庭が、真っ赤に染まってしまった。
やがて肉屋で、鶏の肉を買い野菜を下げた母親が帰って来たが、「何と惨い事をして」と頭から怒鳴られ、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰ったが、暫くの間、何で怒られたのか、後で説明を聞かされる迄解らなかった。
下宿に逃げ帰った私達だったが、江川君が又呼びに来て「殺してしまったのは仕方がないので、どうしても食べに来てくれ」と母が言っているからとの事。皆な、腹も空かしていたし、ご馳走に目が眩み、食べに行って来たが。話しを聞いて見ると、全く江川君の勘違いで、母親は肉屋で買った鶏を料理してくれる積もりで、大事に飼っていたチャボなど殺す積もりは無かったとの事、その日は恐縮し乍らご馳走に成ったが、その日ばかりは何を食べたのか、味は覚えていない。
4-5年前だったか、江川君の母親が元気と聞き、当時のメンバーで会いに行って来たが、90歳近いと云うのに未だにはっきりと覚えており、懐かしがってくれたが矢張り怖かった記憶がある。
麻雀を覚えたのも此の頃で、神戸で二段を取って来たと云う新高出身の森 茂雄君が先生で、当時皆吸っていた煙草を賭け、麻雀牌代わりにボウル紙で牌を作り、笑うと牌が飛んで仕舞うので、「笑うな」と声を掛け合い乍ら、良く徹夜したものだ。
煙草を覚えたのもその頃で、初め私だけ吸っていなかったが、皆初めのうちは気前よく、「吸え吸え」とくれるので、ついその気になり、頭がふらふらするといけないからと、親切に布団まで敷いてくれる始末、とうとう覚えて仕舞ったが、そう成ると皆出し渋り、自分で買って吸う様に成った。

後ろが母方従兄の生駒 太(ふとし)、生涯の友人であった。

ある時、生駒・片桐・森の4人での学校の帰り道、煙草が切れ、誰も金を持っておらず、皆のなけなしの小銭を集め、駄目で元々とジャンケンで負けた森君が煙草屋に行き「4本だけ売ってくれ」と頼んだ所、店番をして居た娘さんがわざわざ箱を破って別けてくれたが、今思うと学生の街だから出来た事だろう。
森君は暫くの間、「あの娘さんは僕に惚れていたからだ」と威張っていたが。

その頃よりアルバイトを始めた。当時ラジオ組み立てが盛んな時で、私も何とか出来ないものか、と思っていた所、石川君の兄さんが電気屋を開業、ラジオの組み立てを手伝う人を探しているとの事。早速お願いし、教えを請い乍ら、1台幾らで手伝わして貰った。果たして幾ら貰ったか忘れたが、趣味と実益を兼ね、結構生活の足しには成り、卒業迄続けた。

下宿を転々とした

下宿では常時5-6人はおるし、麻雀で徹夜はするし、煙草の灰で畳は焦がすは、ピンポン球の室内野球でドタバタするし、当時体操部だった吉岡君に逆立ち等、習ったりしているうちに、とうとう下宿を追い出される事に成った。堀田さんは、同志社の生徒はもうコリゴリ後は京大の生徒を下宿さす、と言っていたが果たしてどうされたか。
これを機会に皆独立して見ようと云う事に成り、夫々下宿探しが始まった。
私は丁度ソ連シベリアから復員し、京都裁判所の判事補となり京都に下宿していた、昇兄・喜美子姉たちの一室を借り、そこに転がり込んだ。
姉達には迷惑だったと思うが、これで食事の心配も無くなり、久し振りにまともな生活に戻ったが、それも約半年の間だけ、昇兄が一ノ関の裁判所に転勤と成り、次の下宿が見つかる迄との条件で兄達が住んで居た一軒家に住み付いた。

幾らだったか覚えて無いが、下宿代が高く、太チャンに頼んで又共同生活が始まったが、2人で静かに暮らせたのも束の間、又皆が寄って来て、賑やかな集会所と成って仕舞った。母屋の飯(いい)さんは、夫婦(主人は同志社出身で日本電池勤務)と小学生の女の子2人、の4人家族で、大変おとなしい方だった。
大概煩わしかったと思うが良く辛抱してくれた物だと、今でも感謝して居る。或る時など、皆で濁酒での宴会に成り、飲み過ぎた私が便所でゲロを吐き、翌日もその儘にして学校に行き、帰って来て見ると、綺麗に掃除してくれていたが、なんの文句も言わず、恐縮した事も有った。
4年程前、京都に行った序に寄って見たが、建物・名札はその儘で、丁度留守だったため、挨拶も出来ず帰って来たが、合計5軒、変わった下宿の中で清美アパートと飯さん宅には、是非一度挨拶に行って見たいと思っている。
飯さん宅にお世話に成っていた或る日の事、突然ラブレターを貰った。内容は忘れたが何日の何時に四条の角で是非会って欲しい、と有り、そんな覚えも無く、戸惑ってしまったが、何気無く便箋を透かして見ると「安宅産業」の透かしが入っており、ハット気が付いた。
当時、片桐君の父親は安宅産業の名古屋支店長で、彼もその便箋を使っていた筈、早速彼の下宿に行き詰問した所、彼もあっさりと「バレタカ」で済まされて終ったが、当日には皆で四条に行き私が待ち惚けを食うのを見て、冷やかそうとの魂胆だったらしい。文章は江川君が考え、片桐君が達筆を振るったとの事。手紙はその場で処分したが、例え誰が書いたにせよ、一生の内、只一度だけ貰ったラブレター、記念に取って置けばよかったのに、と後悔している。
飯さんの下宿では、別に早く出てほしいとは言われなかったが、最初の約束もあり、下宿を変わる事と成った。
今度は太チャンの同級生の紹介で上賀茂の安川さんと言う下宿に厄介に成る事と成った。安川さんは老夫婦で若い頃は芸者の置屋だったとの事。成る程立派な家で、下宿人は同志社の生徒ばかり、私と太チャンを入れて総勢6名で、賄い、風呂付きだった。

ここでも太チャンとは同室となったが、私が一番上級生だった関係でリーダーに祭り上げられ、やれ飯がまずいの、風呂の湯が汚いので代えてくれの、団体交渉の矢面に立たされた。
安川下宿での思い出と言えば、皆、酒が好きで、何か有ると下級生を酒屋に走らせ濁酒か精々焼酎を買い、酒盛りに明け暮れていた。それでも皆が酔っ払う程の酒も買えず、飲んだ後は近所の鴨川のほとりを駆け足で走って回り、それから部屋に戻り校歌を叫んだり当時流行った「祇園小唄」を歌ったり結構楽しかった。
その安川下宿も、或る日、下宿代を値上げしてくれとの事、例によって団体交渉の矢面に立たされたが、言い掛かり上、太チャンと2人で下宿を出る事に成って仕舞った。
最後にお世話に成ったのが越田さん宅で、自動車部の後輩部員の親戚の家だった。ここも以前下宿していた堀田さん宅と同じ様な家の作りで、一階にはおばあさんと娘夫婦が住み、二階の2部屋を貸してくれ、太チャンとの共同生活も私の卒業までの間ここでお世話に成る事と成った。
私の卒業も近付いた或る日の事、太チャンと二人で夕飯を食べ様と外食食堂に出掛けたが、お互いに相手の懐を当てにしており、気が付いたら2人併せて一人分にも足りなかった。そこで夕飯は諦め、有り金をはたきパチンコに懸けてみる事にした。パチンコは元々太チャンが得意にしており、私は不得意だったので、応援に回り彼が挑戦した所、出るは、出るは、2時間程で大分稼ぎ、以後3日分位の食事代を稼ぎ意気揚々と帰ったが、今思うと全くその日暮らしの生活だったのか。
下宿は洛北高校(以前の京都府立一中)の側に在り、窓からは運動場を隔て懐かしい教室を望む事が出来、都合7年間暮らした京都を離れる最後の下宿として、何か因縁めいた気持だった。
その越田さんとは40数年たった今でも、年賀状の交換丈は欠かしていない。

同志社大学自動車部

同志社に晴れて入学、最初に登校した日。構内を学生がオープンカーで乗り回しているのに出会った。それが自動車部との最初の出会いだった。
出来れば戦死した濟兄が所属していたと云う航空部があれば是非入りたいと考えていたが、戦後廃部に成っており、其の代わりとして自動車部が出来たとの事。
早速入部手続きに部室まで行って見る事にした。
当時の部室は、校門横のガレージの中にあり、ガレージには総長専用の真新しい外車(パッカード)、ちょっと古いが学長専用のシボレー40年式(共に米軍からの払い下げ品)、それに構内で見かけた学生用のオープンカー(シボレー34年式)、の3台が整然と並んでおり見事なものだった。総長専用車には専属の運転手がおり、学長の車は部員の内、授業に差支え無い者が交替で運転するとの事。
学生用の車は古く、私の4歳の時に新車だったと云う代物で、戦時中ガソリンが無く雨曝しに成っていたのを、昨年有志が集まり整備をし、自動車部を創設したとの事。その為か、上級生の思い入れは深く、我々新入生にはなかなか乗せて貰うチャンスが回って来なかった。
初めの1年間は、ガレージ・車の掃除(洗ってもあまり変わり栄えしなかったが)と精々、エンジン掛け(当時の車には現在の様なセルモーターが無く、前に回って手でクランクを回しエンジンを掛けていた)位。車に乗りたくて入部したのに、と初め20人程いた新入生も、卒業時には5人しか残らなかった。商学部を卒業したが「部活部」だったかも。

2年に成った頃よりやっと車に触れるよ うに成ったが、何しろ年取った部車の事、当然故障も多く、月の内、何ほども動いていなかったが、その間は下級生に後ろを押させ、ハンドルの切り方を習い、たまに上級生の運転する学長用シボレーに便乗させてもらい、時たま無免許で運転させて貰ったりしながら、二年生の終りには何とか免許を取る事ができた。
本格的に車に乗れる様に成ったのは三年生からで、その頃に成ると、部費も溜まり車も修理屋で本格的に整備され、常時乗れる様に成った。
とは言っても、車体が歪んでいた為ドアは前に足を掛け、強く踏ないと開け閉め出来ず、ブレーキの効きが悪く常時助手席にサイドブレーキ係を1人乗せなければ走れなかった。雨の日など、申し訳程度の幌を掛け、ワイパーが手回しの為、これも助手の仕事。 部員の都合の悪い時など、よく太チャンを呼び出し、助手をして貰ったものだ。
その頃には自動車部の会計をまかされており、下宿に帰ってから帳面付けをせねばならなかった。それに麻雀、アルバイトのラジオの組み立てに、と忙しく、結局自動車部員でも無いが太チャンに帳面付けを押しつけてしまい、卒業前には卒論の代筆までして貰ったが、良く我慢して手伝ってくれたと、今頃に成って感謝している。
三年生に成ってからは、5人程で学長用シボレーの運転手のアルバイトに専念した。初めは授業に差支えない者が交替で、との事だったが、運転したい盛りの頃、授業は多少犠牲にしたが、真面目に運転手を勤めさせて貰った。
アルバイト料は幾らだったか? 一括して部に振り込まれたので、本人の手には渡らず “ただ働き” だったが、当時としては、運転出来ると云うだけで満足していた。

総長の運転手が休んだ時には、そちらの方も自らかって出た。その日も専属の運転手が休んでいた時の事。総長がお客さん(外人)を祇園祭に案内するとの事。例によって私の運転で四条通りに出た所、丁度「山鉾」の行列に巻き込まれ、暫く身動き出来なかったが、外人さんには、すぐ近くで見せる事が出来(警官に怒られながら)、大変喜んで戴いたことが有った。卒業後2-4年経った頃、総長が家族同伴で新宮に見え、その時もアチコチと案内させて貰ったが、その時の事を覚えていてくれ、懐かしがってくれた。
その頃に成ると立命館・関大・関学との対抗試合が始まった。 専ら運転試験場での「フイギヤーレース」、専門だったが、私は体質的に合わなかった為、もっぱら応援に終始した。その代わりスピードには自信があり、京都御所を一周何分で回って来るか、よく競争したものだが、何分掛ったか忘れたが、私の記録は卒業まで破られなかった。昭和27年、
四年生に成った夏の事、結成間もなかった全国学生自動車連盟主催の第一回自動車レースが東京・大阪間で行われる事に成った。勿論同志社からも参加する事になり、人選の結果、私とキャプテンだった藤本君、四年生の坂田君、三年生乍らスピードに命を掛けていた滝川君の4人が選ばれ、その為タクシー上がりのフォードを購入(代金は先輩に頼る事にして)、何処で借りて来たのか応援団を乗せたトラックを従え、勇躍東京へと出発した。行きは順調良く行く事が出来たが、当時の東海道は今と違い、殆ど舗装されておらず。ガタガタの土道故、途中パンクの連続で、止まってパンク修理をしていたのでは、レースに勝てないからとの結論に達し、レースの運転は結局私と滝川君、……藤本・坂田君は後の座席を外し、そこで走り乍らのパンク修理をする事に決め、万全の体制でレースに望んだ。

皇居前、左節子、子供は恒次

レースは午前中、中央大学で発会式を済ませ、夕方皇居前を出発。丁度東京に住んでいた、節子姉と未だ小さかった恒次の見送りを受け、ゴールの大阪府庁を目指し勇躍出発した。最初の運転は勿論私、箱根の峠を越え、三島で運転を滝川君と交替暫く仮眠する。途中パンクで2度程起こされ乍らも静岡のチェックポイントに到着、又私が運転を変わった。丁度その頃よりバッテリーが悪かったのか、ヘットライトが段々と暗く成り、道が見えにくく、何とか勘で運転していたが、急に道が無くなり気が付くと田んぼの中だった。
ぐっすりと寝込んでいた皆も起きて来たが、暫くは状況が解らぬ様子。
やがて通り掛かったトラックに頼み込み、ロープで引き上げて貰い、運転を滝川君と交替、遅れた時間を取り戻すべく、先を急いだ。
浜松を過ぎ、快調に飛ばしていたその時、急に白い煙を吐きエンジンが止まってしまった。何事かと、ボンネットを開けて見ると。エンジンが破れ、そこからロットが突き出しており、一巻の終り、勿論レースは棄権と成った。
暫く待ち、応援団のトラックに収容され、スゴスゴと帰ったが、皆の期待を裏切り本当に済まなかったと思っているが、大学時代の最大の思い出と成った。

大阪での表彰式

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