須川 濟(わたる)の戦歴 (13~14)

13,須川 濟中尉戦死の様子 昭和19年1944,11月12日

戦死の詳細については部隊長青木 喬中将の久彦宛の文書がある。

家族に会い、戦死の覚悟は出来ていたようだ。

部隊長青木中将が自ら戦死の模様を伝えてきた。
作戦中、衡陽に飛び、そこに残留していた若干名の戦闘機操縦士を漢口に連れ帰る任務だった。制空権は恐らく米軍運用の国民政府軍が優勢であり、夜間飛行を試みた。米軍の記録では日本機の排気管の火を目標に近づき攻撃したとの内容が多く記されていたので、夜間でも安心できる状況ではなかっただろうし、照明やビーコンもない戦場、200㎞離れた目的地に飛び、誤射される危険もある着陸など普通の操縦士の技量では及ばないことは明らかであった。
この時の搭乗機は九七式重爆撃機か九九式双発軽爆撃機かは不明だ。
数名の操縦士を運ぶなら重爆で、軽爆なら3名しか運べない。

青木 喬中将にとり濟はハルピン以来の部下であり、彼の性格、能力や背景を良く知っていたようだ。勿論、彼らの中間には佐官クラスの指揮官がいたが、この久彦への手紙を読む限り久彦とも何らかのつながりがあったのかもしれない。戦後も便りをいただいていた。
この濟の最後の飛行、濟が操縦士として延期することは出来ただろうが濟は延期しても同じ状況と理解していたのだろう。
久彦はこの文をもとに、三男濟の戦死通知を書き、親類縁者、関係先に送付した。

14、遺品、記録、遺骨とその後

出征のぼりに「武運長久」と言う言葉があったが、濟伯父が昭和19年11月16日の衡陽(こうよう)からの飛行を敵機に遭遇せず無事に漢口の基地まで戻れていたら、歴史に「もし」はないが、恐らく大戦を生き延びただろう。彼が所属した隼隊はすでの多くの航空機を失い、撤退するしかなかったからだ。現実、第八飛行隊は本土防衛のために朝鮮半島まで撤退し、青木少将はじめ本隊は釜山から仙崎に復員した。
鷹野 良治氏の記録では第八飛行団は「支那大陸漢口に再度前進したが、沖縄戦線に参加するため主力は平城に移動したがすでにこと遅く、活躍の機会はなかった。」と記していた。

〇弘資叔父の思い出(本人筆)

弘資弟

「それは昭和20年、終戦の年かその前年だったと思う。
母登勢が「濟の戦友が今京城に来ていて須川君の遺品を預かっているのでお渡ししたい。」と電話があったと言い、私に貰ってくるようにと言われて行きました。その場所は私が通う龍山中学近所の旅館で濟兄の同期と言う2人の将校が出迎えてくれました。最初は緊張しておりましたが、玄関まで迎えにきた2人と顔を合わすと急に親しみを覚えました。
詳しく、話を聴いてみたら、彼らは中国大陸から撤退し、龍山中学に司令部を置いた陸軍航空隊で、旅館の2階に上がり話を聴き、とうとう夕食までご馳走になりました。
渡された遺品は濟兄が撮影した戦地の写真のフィルムがブリキ缶にぎっしり詰まったものでした。
彼らは戦地の話、あまり詳しいことは述べず、ただ南方で一番印象に残ったのはニューギニアだったとのことでした。
そこでは敵機の空襲に遭い我が航空機も全滅させられ、しばらくは夜になると海岸で酒を酌み交わしながら我々もここでおしまいか・・と話あったのが一番だったとか。その空襲で「須川が大事に飼っていた子犬が爆弾の破片で亡くなった。」と。
メダンの女性の手紙からこの犬は「ちび」と言う名だったらしい。
犬は生涯、彼の癒しだったようだ。

〇父 久彦との通信
岐阜の候補生時代から、濟は久彦に200通ほどの葉書や手紙を送り
久彦もそれらのほとんどに応えていた。久彦や節子、その他友人が戦地の濟に送った手紙類は恐らく、遺品のトランクに入っていたのであろう。濟からの通信は久彦が京城から引き上げると際に限られた手荷物であったが、写真、その他と自分で身に着けて来た。
その両方の通信を、節子が整理した。それらの一部を紹介すると昭和17年12月16日、ハルピンにいたころの以下の葉書だ。他には年月日が記されたものは少ない。

久彦は2月に、濟無心の倍額200円を為替で送金した。
すでに濟はスマトラに移動していたが。
当時の100円は中年サラリーマンの給与ほどだ。

〇昭和18年9月16日の通信
中支那の作戦を終え、サイゴン経由でメダンに戻る途中、天気待ちの台湾嘉儀(台湾中南部の内陸の町)から3枚に書かれた封書を送っていた。恐らく検閲を受けてないもので、誰か民間の人間に発送を頼んだのだろう。
「戦況は新聞のように呑気なものではない。」としていた。

除隊し久彦や久の業務を手伝うとあった。空から見たら南方のジャングルは木ばかり、戦後、これらの木材は日本に輸入された。

〇弘資叔父の記憶(本人筆)
「濟兄の遺品を取りに来るようにと言う連絡があったのは何時だったか忘れましたが、間もなくのことではないでしょうか。豊兄と中口 正男(そのころ結婚して中村姓になる)と3人で行って来ました。
引き取り先は和歌山ではなく、和歌山線で乗り換えて粉河駅の近くでした。大きな皮鞄と軍刀(兼定)と左文字の白鞘だけでした。
湯川に持ち帰り、皆で鞄を開けました。いろいろなものが入っておりました。その中で印象に残ったのは写真の現像器具一式と家族への土産らしいものがいっぱいできた。搭乗時には持って行かなかった
双眼鏡などの私物がありました。この時期、豊兄はまだ就職していなかったと思います。」

遺品の双眼鏡、未使用品のようだったが、我々が遠足などに持ち歩き
傷んだ。

遺品のなかにあったのが、濟が受け取った手紙類、書類、教本と写真であったのではないか。久彦は自分が持ち帰った記録と各種免許証などそれらを入れる箱を作りそこに全てが収納されている。
なお、濟伯父の遺骨は和歌山市内の豊が県衛生部に転勤になり居住した官舎前の寺であったと後に久彦から聞いたことがある。
遺骨は衡陽、日本軍占領の近郊山地で発見され、回収されたそうだ。彼の持ち物、ライターから、身元は判明し、遺骨は漢口に送られ、また本籍がある和歌山に送られたようだ。遺品のトランクと軍刀も同じだが、昭和19年末に中支漢口から和歌山に送ったものがほぼそのまま戦後、遺族の地に届いたのは、多くの戦没者の中では奇跡的な事実であった。
須川 濟の墓は兄の久が久彦他先祖の墓として宇久井の延命寺にあったが、最近、輝一(てるかず)が那智に移転した。

濟伯父が撮影した写真に残っている多くの戦友や看護婦さんたち、
恐らく大勢が祖国の地を踏めなかったかもしれない。

参考文 靖国神社 祭文 英霊に捧ぐ 平成5年11月21日
第八飛行師団司令部 作戦部付 陸軍航空兵 准尉 鷹野 良治
「陸軍九七式重爆撃隊」

ご協力 六車 昌晃 元陸上自衛隊武器学校長

六車氏は陸将補であられ、私が武器学校小火器資料館の顧問をしている関係でお付き合いいただいた。令和2年武器学校にて。


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        須川 濟(わたる)の戦歴 (4〜6)
        須川 濟(わたる)の戦歴 (7〜8)
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