須川 濟(わたる)の戦歴 (9〜12) 

9,ヒリッピン陸軍病院に入院 昭和19年1944、4月

南方の激務と連合軍攻撃で病になったか、負傷したか不明だが昭和19年4月、部隊はニューギニアからマニラに転進したとある。
ニューギニアで航空機を失い、多くの戦死者をだし、また残留勢力は連合軍の上陸で壊滅した。どれだけの人数がどういう手段でマニラに到達したかは不明だが、濟は幸運にもその一人であった。

入院中の写真を見ると目に力はないようだが、太っていた。

陸軍病院の看護婦さん 日本各地から 目つきが真剣
現地の病院のスタッフ、この2人のプライベートな写真もある。
(本人撮影の写真はいずれも優れていた。)

ヒリッピンと言うがスチーム暖房が見える、山地のバギオか?

バギオはマニラから車で数時間の距離、高地にあり、涼しいそうだ。
病院衣に「内三」と言う文字が書かれた布片が見えるので、内科に
入院していたのではないか。またカメラの入ったトランクは持ってきていたので、ニューギニアからは輸送機など航空機で移動したようだ。前出の衣類は慰問品か。

10,漢口の戦線へ復帰 昭和19年1944、7月

昭和19年1944、7月中支派遣軍隼9141部隊、漢口に転じる。
濟は「第八飛行団司令部飛行班長」であった。ここでは国民政府軍空軍米国支援の戦闘機隊と激戦が続いた。
六車 昌晃氏は「飛行師団や飛行団の司令部には大・中尉が班長を勤める飛行班があり、司令官や幕僚の輸送、重要な連絡に当たっておりました。班長と下士官数名が搭乗員指定です。飛行団でも最も優秀な搭乗員が配備されていたと思います。」と。
すでに日本陸軍の航空戦力は中国大陸では体を成してなく、沖縄、
朝鮮半島、本土の防衛に作戦を変更しようとしていたのではないか。
それで朝鮮半島に彼を出張させたりした可能性は高い。

100式司令部偵察機

漢口を基地として各地の連合国戦力と戦闘をしたはずだが、記録は乏しい。(調査で新しい戦歴が出れば追加したい。)

11,須川 濟中尉の帰省

昭和19年1944,8月、京城新設町の実家に2回帰省していた。

昭和19年1944、8月4日の漢口から京城への帰省の時

兄龍太郎、岸 達之介は離れたところにおり、久は北朝鮮から帰ってきていたのだろうか?家族がこれだけ突然に集合できたのであろうか?濟中尉の重要任務の帰省は通知があったのか?濟は2年半ぶりの帰省だった。久は北朝鮮の城津におり、電報を貰ったと記録にある。

12,「大陸打通」  濟が最後に参加した作戦 

昭和19年19444月―12月10日にかけて連合軍航空基地を分断するため、漢口の、北から南、陸軍は41万の地上兵力を3方から突入し、仏印まで通ずる道を開くのが目的であった。アジア各国への海路が破壊されてので、人員や物資を陸路で運ぶためであった。
濟が戦死した衡陽(コウヨウーホンヤン)の戦闘は特に激しく、8月に国民政府軍が降伏し陥落した。以下米国教科書の図

Hong-yangとある真ん中の地、衡陽(こうよう)
すでに日本軍は地上兵力が主たる戦力で航空勢力は補助的な役割で、九七重爆は人員物資の輸送、連絡、哨戒などに使われていたと記されている。
慶應義塾航空部元監督 渡邊 敏久監督は学徒出陣で、副操縦士として沖縄 に電池の輸送をしたとのことだった。
この作戦は結局、日本陸軍が勝利したが、すでに時遅く、物資や人員を南方から本土に陸路を輸送する機会はあまりなかった。
昔、知人の斎藤 茂太先生に聞いた話だ。先生は精神医であったが軍医として日本本土から衡陽まで、歩兵部隊に同行したそうだ。
朝鮮半島に渡り、教練銃と銃剣、竹の水筒、勿論弾薬はなしは、途中、南京で鹵獲したモーゼル銃と弾薬、鉄帽、水筒、皮の収容嚢などが支給され、形を作りながら進軍したと、彼らインドシナに到達する前に終戦になったと。

弘資(ひろすけ)叔父、濟の弟、談では、彼は兄を宮崎 昇少尉と金浦空港まで送りに行った。弘資は、「複座の機体で、どこかの宿に泊まらせていた部下と一緒に飛んで行きました。その時に兄に何という飛行機かと聞いたら確か九九式と言っておりました。それが最後の会話になりました。」
陸軍航空機では九九式は双発軽爆撃機だ。それはとても特徴的な機体で、九七式重爆の操縦士であった濟(わたる)にはお手ものの機体であり、支那戦線には多く配備されていたので、それで飛んで来たのかもしれない。金浦を飛び立ってから京城の市内を回り、新設町の自宅の上で急降下したそうだ。久彦が庭に出て、「もういい、早く行きなさい。」と大声で叫んだと、節子が言っていた。
戦記によれば
昭和19年頃の中国大陸の航空勢力は国民政府米国空軍に押されており、高速で航続距離の長い、新鋭機、100式司令部偵察機の配備を要望し、本土からまとまった数が送られたと言う記録がある。
同機体であれば、双発の重爆操縦に長けた須川 濟中尉のような操縦士は適任であったし、恐らくそのまま操縦可能であったのではないか。同機種はメダンにも配備されていた。
九九式双発軽爆撃機は川崎飛行機製造で、約2000機が作られた。乗員は4名で、操縦士はひとりだ。全長12.9m、全幅17.5m、高さ
4.3m、自重4.3tで、九七重より一回り小さい。武装は八九式旋回機銃3挺だ。急降下もできた。戦後、国民政府軍でも使用された。

九九式双発軽爆撃機

この頃の部隊名は隼第2371隊とあった。


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        須川 濟(わたる)の戦歴 (1~3)
        須川 濟(わたる)の戦歴 (4〜6)
        須川 濟(わたる)の戦歴 (7〜8)
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