須川 濟(わたる)の戦歴 (7〜8)

7,中支爆撃 昭和18年1943、6-10月

スマトラでマラッカ海峡の哨戒を任務としていたが中国大陸の地上での膠着状態を打開するため、南方に展開した航空戦力は一時的に呼び戻されてまた延々と中支武漢に戻った。
ハノイから大陸奥地爆撃も含め4か月間、作戦に従事した。
濟は防暑服のまま出かけたが、さすが漢口は薄ら寒かったと
帰途書いていた。

彼が中支爆撃作戦のスマトラへの帰途、サイゴンに寄った際撮影したものだろう。

本人の筆だろう「メコン河の流れ、昭和18年9月25日」とある。

同じ地で撮影された町の様子と河の漁師 女性がポーズを取っていた。(このカットをみても濟の写真技術は並みではない。)
6月の飛行は、メダン→シンガポール→ボルネオ(ラブアン島)→マニラ(クラークフィールド)→屏東(台湾)→上海→南京→漢口飛行場(武漢)そこから衡陽、桂林、萬県など国民政府飛行場群を攻撃した。そのごハノイに移動、ハノイから昆明と周辺の道路、軍事施設を爆撃、10月にメダンに戻った。

メダンはスマトラ島(オランダ領、インドネシア)のマレー半島ペナンとマラッカ海峡を挟んだ要地であり、商業都市だった。
鷹野氏はメダン飛行場を基地としてゴム会社の家屋を司令部として開設したと。
任務はスマトラ全部、パレンバン、マナ、ラハト、北部サバン島の領域とインド洋海域で敵潜水艦よりの防衛を任務として活躍したと。

何処の建物かは不明


濟は欧米風の建築物が好きだったようで、写真に残しているが、調べても現在該当する建物はない。

資料写真重慶爆撃
本人撮影の山の頂 中国大陸奥地ではないか

 

 

(帝国陸軍の相手は南方でなく中国大陸だったのだが、膨大な距離を往復飛行していた。ここまでで1万キロほど飛んだのではないか。)
昭和18年1943、の間はこの中国大陸に飛んだ作戦以外はスマトラにおり、多くの手紙類もスマトラ宛てになっていた。

満州からこの時期まで部隊名は隼第9141隊となっていた。

ゴム会社の建物だったところか
ピスト、自撮りだろう

 

 

8,ニューギニアに移動  昭和19年1月下旬-3月下旬

スマトラ派遣飛行団は中国大陸、仏印からメダンの戻るも2カ月後、ニューギニアのウエワク、ブーツ、ホーランディアに進んだ。
そのルートはメダン発→シンガポール→ジャワ島マラン→セレベス島マーカッソル→アンボン→バボ→ホーランディアに達した。
ニューギニア方面の豪州の連合軍と対峙していた陸海軍の支援の
ためだ。スマトラの任務は主に哨戒だったが、今度は戦闘だった。

昭和19年移動の図

メダンからホーランディアまで約6000㎞の距離だ。(現在の航空便でも直行で7時間。)
地図は地球を平面に描いているので、北の行程のような赤道直下ではみかけが違う。実際には長距離飛行で、困難なものだった。航空機の敵は暑さと湿気で、空気が薄くなり、飛びにくい、エンジンの出力が落ちるなどだ。

そして、部隊はニューギニアの北に位置して、オーストラリアから飛来する米英豪軍と戦闘した。しかし戦況はかばかしくなく、航空隊はホーランディアに終結していた。
昭和19年1944、3月30日、午前9時ころ、連合軍のB24コンソリー爆撃機、P38双胴戦闘機、計90機の奇襲攻撃を受けて、大損害を受けた。愛犬ちびもその攻撃で戦死したと思われる。
以下3カットは本人が6x6フィルムで撮影したもの。

濟〈わたる〉伯父は掩蔽壕に隠れていたのだろうが、カメラを
持ち出し、連合軍の攻撃を撮影していた。

爆撃機を上空から見え難いように偽装したが爆撃を受け炎上

「俺も最後か」と思いながら撮影した愛機が爆撃された様子
須川 濟のアルバムにあった写真、恐らくブリキ缶のフィルムを
当時、印画紙にしたのではないか。
(「ホーランディア戦闘」は米軍資料に詳しく掲載されている。

ホーランディア攻撃の米軍写真、パラシュートで爆弾投下したのは偽装した機体は上空から見え難いが、低空で爆撃すると自機に被害が及ぶのを避けた。まさしく濟伯父の乗機などがやられるところ。

1943年4月末から約2か月間におよび連合国軍は4万人の
勢力で上陸、日本軍は陸海軍14800人がいた。大勢が陸軍(航空人員7000人)と海軍陸上勢力で、日本軍は1万人が死亡したとある。濟は航空勢力が3月30日の攻撃で壊滅した後、何らかの方法でフィリピンに逃れたようだった。濟は約3か月間、ニューギニアにいたが、日本帝国陸海軍の豪州北部爆撃、1942年2月から1943年11月には参加していなかったと考えられる。最後の攻撃は彼らがニューギニアに進出する2か月前、1943年11月12日だったから

そして濟(わたる)の母方の従兄、中村 守一(もりいち)、勝浦出身、薬剤師は
この島で昭和19年1944、1月16日、丁度濟の部隊が到着するころに戦死していた。

弟、弘資は戦後、現地を訪れた。
以下は彼が回った地点の図

弘資叔父は「ニューギニアでは帝国海軍はラエ、陸軍はニューブリテン島のポルポップかにいたのではないか・・」と、弘資叔父はホーランディに寄港していた。
彼のこの旅行は、「昭和60年1985、5月3日、私が55歳の時にニューギニアを訪れた。当時、南方材(主にニューギニア材)を専門に製材して和歌山の住友金属の梱包用木材を納入しておりました。その原木の仕入れは山陽国策パルプ(現日本製紙)でした。ある時山陽国策パルプから取引業者に視察旅行を企画しているので参加しないかとの誘いがあり、旅費15日間70万円、残りは会社負担とのこと。またポートモレスビー、ラバウル、カビエン、ラエなど太平洋戦争の激戦地を回ると言うのでまっさきに申し込みました。そして、材木のことより、濟兄が一番苦労したであろう、現地を見てきました。」

私は昔、「大空のサムライ」の著者坂井 三郎さん、海軍ゼロ戦操縦者、に会ったことがある。彼の著書にはニューギニアで日本帝国陸海軍がガダルカナルに始まり如何に連合国に押されていったが詳細に記されていた。彼は濟伯父が進出したころ、ラバウルで負傷して日本に戻っていた。


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