4,満州国哈寧濱(ハルピン)駐在 昭和17年4月―昭和18年2月

彼が赴任した第八飛行団は満州国牡丹江で設立された帝国陸軍の大規模な戦闘機と爆撃機の航空勢力で満州国の幾つかの飛行場を基地としていた。濟は部隊が昭和18年2月に南方、マレー・スマトラに進攻するまで1年間弱をここで過ごした。市内に下宿していた。
(満州国では昭和14年1939、5-9月の間、ソ連モンゴルと
国境線を巡る大規模な軍事衝突が発生、各々数千名の死者、多量の戦闘車両、航空機の損害があった。それで日本帝国は急速に同国に駐留する帝国陸軍の規模を拡大し、大演習を実施したりしていた。)

飛行隊の本部前だろう。防寒帽だが、外被は将校用の冬用。長靴を履いていた。


六車 昌晃氏の調査では、「第八飛行団」は青木 喬少将が指揮官をしていた部隊であり、満州で編成され中国や南方で作戦に従事しています。通称号は「隼第9141隊」です。第八飛行団の隷下部隊は時期により異なりますが、昭和18年頃は飛行第16戦隊(九九双軽爆)、飛行第58戦隊(九七重爆)、飛行第60戦隊(九七重爆)がありました。飛行戦隊は飛行連隊から改編されたものであり、連隊長クラスの部隊です。
以前の飛行連隊は飛行大隊が隷下にありましたが、飛行連隊と飛行大隊が空地分離し、より機動的な運用ができるように改編したものです。飛行連隊は通常、3コ飛行中隊と整備中隊があったようです。
須川 濟中尉は南方や中国での展開の状況から飛行第58戦隊に所属していたと思われます。須川中尉の記録と第58戦隊の戦歴が重なります。と説明してくださった。


満州の哈寧濱(ハルピン)にはその後、とせと喜美子が慰問に行った。喜美子の話では長時間列車に揺られ、駅から飛行場までも苦労しようやく到着したが、その少し前に濟の部隊は転出し、飛行場の車輪のあとをみて、とせは泣いたそうだった。
満州国では北案夏緩県黒山街35号の河野 松枝さんのところに下宿していたようだ。







5,スマトラ・メダンに移動 昭和18年1943、2月
昭和16年1941、12月の帝国海軍のハワイ攻撃後、日本の戦線は¥広く南方に伸びた。
鷹野 良治氏が靖国神社に奉納した記録では、満州から南方に移動した課程は以下のようであった。
「昭和18年1941、1月 第八飛行団は鞍化飛行場を発ち、重爆機およそ100機、奉天(ほうてん)に向かい、そこで南方仕様の新しい九七式重爆撃機を受領、北京→上海→台湾の嘉儀、屏車→海南島・海口→3000mの高度を維持しインドシナ・サイゴン→2000mの高度でシンガポール・テンガー飛行場(2月17日)→スマトラ・メダンに到着したと。」大変な道のりだ。そしてしばしメダンに駐留した。数千キロに及ぶ。このような長距離を部隊単位で移動するには各地に燃料や航空機部品、整備士、不時着場などの用意、制空圏の確認、大変な国家的労力を費やしたことだろう。
ハルピンー北京間は1060㎞、北京からシンガポールまでも直線で4500㎞
以下、昭和18年の移動の図
メダンにおける哨戒活動と中支における戦闘作戦。
今にして考えれば、南方航空作戦は海軍、支那大陸は陸軍と明確に分けて、陸軍航空隊は中国大陸近辺に駐留しておけばこの広大な地域を移動することはなかった。
6,九七式重爆撃機
カラーでよみがえる「燃える大空」
当時の近代的戦略爆撃を目的とした設計で三菱が2000機を生産した。
幅22・5m、全長16m、高さ4・85m、乗員7名、2700㎞の航続距離があった。最高速度 400㎞時、航続時間 5時間、
武装 八九式南部7.7㎜単身、二連機銃2-3挺、後にホー103 12.7㎜ 乗員は 操縦2,爆撃手、通信手、航法手、機関手、機銃手。


以下は、写真を撮影する須川 濟少尉の後ろには数機の九七重が、
後ろには下士官刀を下げた下士官の姿がみえる。サイゴンか、
どこかの経由地であっただろう。



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