須川 濟(すがわ わたる)の生涯

昭和15年1940、岐阜飛行学校生徒のころ

1歳くらいのヌード写真、父、久彦が犬好きであった。彼のスナップにも犬が写りこんでいたものが多い。戦場でも犬を飼っていたようだった。生涯と言っても26年間、短いものだった。

須川 濟は私の母、節子のすぐ上の兄、伯父だ。
私が、2歳になる前に戦死したから、記憶にはないはずだが、彼が支那戦線漢口にいた昭和19年8月、2回京城の実家に帰省した。航空隊の操縦士だから任務で航空機を自分で操縦したことは不思議ではない。何の重要任務だったか、この事実は当時の戦況を考えると実に不思議な帰省であった。
その際、私は京城の自宅、庭と玄関で撮影された家族写真に一緒に写っていた。

弘資(ひろすけ)、喜美子、薫雄、節子

私は、彼が「支那大陸に飛行するため、座敷で横になっていた」のを邪魔しに行ったと、多分祖母や母が何度も繰り返したので、頭に刷り込まれたのであろう、記憶がある。
彼の経歴は父親、須川 久彦がまとめた略歴があり、正確に詳細に記されている。この記事作成に関しても濟の弟、弘資(ひろすけ)叔父と、彼を知る人間は我々しかいない、調査と記憶に基づこうとメール
を交換した次第だ。

小学生入学、後列左長兄龍太郎、右次兄久

須川 濟は大正7年1918,3月19日に生まれた。
久彦・とせの3男だった。久彦家が龍山区練兵町にいたころだった。
龍山区は現在は盛り場で有名だが、戦前は日本帝国陸軍朝鮮軍司令部があった。商業の街で久彦は同区、練兵町に居住していた。
龍山は川を利用した輸送があり、産業の拠点だったようだ。

現在のソウル市地図の龍山区

弘資叔父の話によれば
「練兵町(龍山区)は久彦夫婦が朝鮮に渡った時からの住所だと思います。私もそこで生まれました。幼少のころ、家は須川洋行の製材所敷地内でしたが、製材所が火災で焼失し、北朝鮮に移転したことはおぼろげながら記憶にあります。最初は平城の近くで、後に城津に。
岡崎町の家は新設町(東大門区)に新居を建設中の借家でした。」

奈良に旅行した様子 昭和初期であろう、とせが天理教信者だったので奈良に行ったようだ。
左から龍太郎、節子、抱かれているのが喜美子、濟、久。

龍山中学時代

昭和6年1931、4月龍山中学入学、昭和11年1936、4学年終了

石原先生、家庭教師と先生も城大の学生であったのだろう。
昭和9年1934正月、親族・知人が集合した。濟14歳(前列右から2人目)

下は節子(濟の妹、私の母)が整理した濟中学時代の写真集の一ページ
犬が好きだったようだ。また水泳が得意だったようで飛び込みの写真もあった。犬は久彦の趣味か、ドーベルマン、シェパードなど大型犬が濟になついていた様子。

濟は10代のころは眼鏡をかけていたが、大学では掛けたり、かけなかったりで、軍務についてからは一切かけてない。操縦士は厳しい視力検査があったようだが、どういう経過であったのだろう。

同志社大学時代

昭和13年1938、4月同志社大学予科に入学、昭和13年1938修了。

下宿していたアパート

同年4月法学部経済学科入学。

部屋の様子から几帳面な性格であったと思う。

グライダー合宿の様子

この機体はウィンチが引き揚げる方式だが、彼はオリンピアマイゼと言うドイツが五輪のために開発した機体の選手候補(東京五輪)だった。

同志社大学在学中の部活は半端ないものだった。自動車部から航空部に、滑空機(グライダー)の免状習得、
直ぐに動力付飛行機の操縦に挑戦し、一等操縦士技能証明を取得した。

この免状には、操縦航空機として、アンリオ式二八型、サルムソン式二A二型、石川島式R三型、九五式三型、同一型などの機名が記載されている。

そして、朝日新聞社主催、陸軍省後援、皇記二千六百年、昭和15年1940の関西学生航空連盟班長として日本全国2600㎞、飛行を行った。
(関東学生航空連盟は反対コース)

撮影朝日新聞社

各地で大歓迎を受け、その様子は愛国朝日新聞に逐次掲載された。

学生時代どこかの駅

 

彼には私を含め12人の甥がいた。現在11人は存命しているが、
彼の容貌に似たものはいない。久伯父の四男、四郎は歯科大学在学中に不慮の事故で亡くなった。彼が一番、似ていたのではないか。

下、昭和16年1941,3月入営の記念写真。新設町の家の庭。

濟はこのあと4月に帝国陸軍岐阜航空隊第九十五部隊飛行学校に入隊した。

昭和17年1942、3月,満州に赴任する際の出陣式、節子撮影
この時は庭に200人以上の人たちが集まり、豊の音頭で万斉三唱を行ったが親族の集合写真は残されてない。

戦死3か月前昭和19年1944,8月支那戦線から帰省したとき、同じ庭で撮影された写真。刀の鞘が間に合わせのものかおかしい。

戦後、一族が集まると彼の話題はよく出た。そんなこともあり、彼は私たちにはとても身近な存在であった。
豊は彼が年上ではあるが、義兄の彼を語るときに1度ならず、同じ話をしたが、それは濟の運動神経、反射神経が並はずれでなかったことだ。
久彦が彼ら2人を連れて雉(きじ)撃ち狩猟に連れて行ったときのことのことだ。
犬が先立ち、3人が並んで狩場を進んで行くときに、バタバタと飛び立つ雉を瞬時に落とすのがいつも濟だったと言う話だ。
久彦は豊に犬が濟のほうばかり見ていたと言っていたそうだ。
節子の言で、濟は優しい性格であったと。
私が学生の頃、学生航空連盟(戦後突然平和主義者に変わった朝日新聞の組織だが)教官たちから学生時代の濟の話をよく聴いた。
関西のひとたち、同志社の井上教官、関東でも法政の竹下教官からも。
小柄で色が黒く、チョコマンさんと呼ばれていたが、気前よく皆に
おごったそうだ。女性にもてたと。
身長は低く、ハンサムでもなかったが、人気はあったそうだ。
弘資叔父は戦後、兄の濟と同じく同志社大学に進学し、兄と同じ下宿の同じ部屋に入った。その際、畳の隙間に兄が使っていた定規が
挟まっていたと言うことで懐かしく感じたそうだ。
この部屋には私は祖母とせに連れられて行き、泊まったことがあった。夏だった。

濟伯父の子孫

濟には女の子供と男の孫、そして現在、2人男の曾孫がいる。
濟は同志社大学時代、航空部活動で多忙であったが、昭和16年1941当時、彼女がいた。その方とは軍務に就き別れ離れになったが、こどもが一人いた。彼女は昭和17年1942生まれ。
彼女の息子、森内 俊明が現在、米国シリコンバレーでアップルのビジネスアプリを開発する業務責任者である。
彼が米国に渡る前、日本の大手電子系企業に勤めたころ、彼の結婚式に節子と弘資が出席した。
森内 俊明から年末にメールを貰った。「クリスマスが2人の息子が
帰り久しぶりに賑やか」だと。
彼の2人の息子たち、米国に渡ったころは小学生か中学生だったが、その子たちは恐らくカルフォルニアの高校で一番か二番でなければ進学できないような経歴だ。兄はペンシルバニア大学(ペンステートと呼ばれるアイビーリーグ校)建築科大学院、弟はUCサンディエゴのバイオケミカル(生物化学)科博士コースで学んでいる。彼らは須川 濟の曾孫になる。家族でたまに曾祖父の話でもしたかもしれない。

ペンステート校(この人は関係ない)東部名門中の名門校

UCサンディゴ校

 

濟の子孫は恐らくこのまま米国で過ごすであろうが、彼らの健康と
活躍を須川家一同祈念する。

濟の昭和16年1941年から昭和19年11月、中国戦線で戦死するまでの記録は「須川 濟の戦歴」として掲載する。(この項以上)

カテゴリー: 記憶にある人々 パーマリンク