県の衛生部長は厚生省の課長より格上かと言えば、そうでもなかったようだ。しかし地方に行くとそれなりにエリート社会の一員になった。

夫の豊は昭和28年1953、春、新潟県衛生部長に転勤となった。
節子は30歳で衛生部長夫人となったが、せっかくの東京生活が大いに気にいっていた。三男、鐵朗(てつろう)が誕生し、麻布の家も建て増したで、東京に未練があったようだ。

表の広い庭で藤棚があった。
だが、新潟に行くと豊には迎えの車が来て、世間的にはまあまあと言う感じになった。
県は許認可業務が多く、衛生部関係では食品、医療、理美容、飲食宿泊業、教育などまで多岐にわたり、どうも地方では各団体に部長担当者がいたようだ。と言っても、豊は本省から来た専門知識だけはある役人、彼らは家庭に焦点を当てた。
新潟では理美容業界の幹部、いつもきちんとした姿で、髪は刈りたて、ポマードできちんと分けたシンドウさんと言うおじさんがしょっちゅう家に顔を出した。豊がいなくてもいても関係なく。
「新潟ではどこのケーキがおいしい」と言う話題の次の訪問ではその店のケーキ一箱が手土産と言う感じで。
節子はそれが気にいった。
夏には扇風機を「借りた」。金属製の立派なもので今も私の息子の家にビンテージ家電としてある。
家は官舎、知事公舎の並びで明治時代の建築だっただろう。
武家屋敷の名残もあった。(昭和の終わりまで健在だった。)
黒塀に松、部屋が畳敷で7つあった。鍵の手で廊下がぐるりと回り、
ガラス戸だけで、30枚あったのではないか。東京では3-4家族は住める規模だった。玄関にも畳が3―4枚敷いてあり、長押もあった。声の小さい人は来ても分からないほど、奥行きもあった。
日本庭園や藤棚も。トイレは2か所。

お手伝いが来た。スミちゃんと言う新津の農家の娘で高校を出たばかり、住み込みだ。体の大きな人で、節子が亡くなったとき電話した。
「奥様にはいろんなことを教えてもらった。感謝している。
ある時、泣く坊や(鐵朗)、を背負い、ウエハウスを買っておいでと言われたが、見たこともない、聞いたこともないもので、町を散々に探して歩いた。ダイワデパートにあると誰かが教えてくれてようやく買えた・・・」など思い出話をずいぶん聞かされた。節子は死ぬまで彼女と連絡があったようだ。
一時が万事、節子は大雑把だった。
習字や三味線などの習いごとも始めた。


その箱にはただ節子の筆で「大切」としか書かれてない。
新潟日報が取材に来た。
大型SP、LPプレーヤーも買った。洋楽を聴いた、ラテンが気に入りだった。お手伝いがいたので、夜は豊と映画をよく観に行った。
YouTube prese prado manbo no5 (YouTubeにリンクします)
久彦、とせ 各々や親戚、知人の訪問も頻繁にあった。
久彦が北海道からの帰途に寄った時は、こども3人を連れて直江津まで見送りに行った。
大忙しであったし、並んだ官舎の他の部長たち、東京の本省から来た
ひとびとの奥さんと麻雀をするのが楽しみになった。夫は大体、東大出、後で偉くなった。松島さんは消防庁長官、角田さんは総務省次官、新潟は官僚の通過点だったのだろう。
一種のエリート社会で、節子も自尊心がくすぐられてのではないか・・
官舎は知事公舎を含め、6軒で一帯を成していたが、副知事は
作家、タレントの野坂 昭如(のざか あきゆき)氏実父
野坂 相如氏だった。その夫人(昭如さんの実母でない)は
芸者出身で、節子の三味線のおしょうさんだった。夫人は新潟の
有名人であり、この頃、昭如さんはもう新潟にいなかった。

新潟、冬は暗いが、寒さは生まれ育った京城よりはるかに楽だった。
そんなわけで新潟の生活はまたたくうちに彼女のものになった。
積極的な性格だったからだろう。
しかも豊は県内様々なところに出かけていた。
住み込みのお手伝いがいるのだから子育て以外は楽だったのではないか。
読書は良くしていた。貸本屋があり、毎週届けて来る、大人は「文春、小説新潮、オール読物」で私たちようには「面白ブック」学校から帰ると玄関に置いてあった。
お茶にも挑戦したようだ。

新潟には4年半いた。
昭和33年1958、夏、豊が転勤になり、引っ越した。新しい3人目の新潟美人のお手伝いトクちゃんを静岡に連れて行った。
節子には引っ越しは朝鮮からの引き揚げ以来、何回か経験したお手の物で、徹夜で荷造りをして、朝起きたら、もうほとんどの荷物できており、食器なども梱包、不便した思いがあった。
駅には大勢の人々が見送りに来た。これも一つのイベントだった。
豊の後任は本省から来ずに、県の課長、君(きみ)さんがなった。
君さんは後の県知事なので、それなりの方であったことに
間違いない。
途中、東京で2-3泊した。麻布の家は宮崎一家が住んでいたが
転勤でいなくなり、建て替えの最中だった。
この土地も家も節子の名義だった。先の家は昭和24年1949に久彦の資金を元に購入したからだ。
不思議なことに京城時代、10代の完全お嬢様時代より貧乏な東京時代、そして忙しい新潟時代の彼女はとても幸せに見えていたのではないか。
(この項以上)