母方 須川 弘資叔父

昭和28年8月、弘資叔父と岩手県一関に行った。

須川 弘資(すがわ ひろすけ)叔父は母の弟で、久彦、とせ の末っ子だ。京城で生まれ、育った。
私たちの世代は彼とは年が近く、我々が幼少のころより大変世話になった。と言っても、泳ぎを教わった、旅をしたなのだ。
どれもとても楽しい思い出だ。

弘資叔父は終戦の時(昭和20年1945,8月)中学生で、大変な経験をした。
(この経験談は須川 弘資の記憶と言う項にある。)

現在、生存している私のおじ、おば の唯一の人だ。新宮の父、久彦(ひさひこ)が建てた須川洋行横の家に一人暮らしだ。
脳梗塞後、リハビリをした。家の中は動けるが、外出は電動カート。
バッテリーは市内を走るだけはもつと言っていた。

彼の思う私の両親 須川 豊と節子

彼が生まれたころ、彼は私の父、19歳年上の豊は久彦家から学校に通っていた。私が生まれたころ、叔父は中学生で、同じ家にいた。私の父、豊は遠い親戚(寛政生まれ須川 長右衛門長七の次男彌吉が久彦家の始め)であったが、彼の幼少のころより家にいたので本当の兄だと思っていたそうだ。「豊兄」と言っていた。そして、彼は豊を「人生の父」と言うくらい、慕っていた。

父も彼を「ひろちゃん」と呼んで話に愛情がこもっていた。
(豊の話は彼の記憶の自筆の記録にある)
姉の節子を「お姉さま」と呼んでいた。「彼女には怒られたことはないく威厳があり、思わずお姉さまとよぶ姉」だったと。
平成4年1992に、節子が企画したのであろう欧州の旅に妻ひろみと行った。
(その話は弘資叔父の記憶、思い出の旅にある)

昭和19年5月私を抱いている弘資叔父

私は彼と戦後も、湯川でしばらく一緒に住み、その後彼が同志社大学学生の頃、東京の我が家に休みの度に訪れて、あちこちに行くのに邪魔にされながらも付いて行った。
弘資叔父が私たちの東京の家に滞在していても、彼は私の父も以前は一緒に暮らしていたので、違和感なく家族であった。
彼は京城時代の東京にいる友人と会うのが楽しみだったようだ。

弘資叔父の戦中と戦後の記録

対馬北海岸 豊砲台より、薫雄撮影

弘資叔父は15歳の時、朝鮮から引き揚げた。本人筆によれば釜山に来たころまでは、余裕があり、腕時計を修理に出した。ところが急遽、私の母が船をチャーターして夜中に出発することになったので時計は受け取れなかったそうだ。

龍山中学入学 軍国少年

この小船には私の母節子と私の弟恒次、芳子叔母と長男の輝一の5人が乗船した。船が対馬沖で難破してこの海岸に漂着した。海軍に助けられて九死に一生を得た。私も母から何度もその話を聴いた。北九州に着いたら、父の恩師が食べ物を差し入れしてくれたそうだ。家族がこのように生死を共にするような経験をしたから、彼らの結束は今の家族では考えられないほど強かったようだ。
(「弘資の記憶の項に詳しく、彼が記した文がある」

一ノ関への旅

一番の思い出は私が9歳、昭和27年夏、叔母(彼の姉、宮崎 喜美子)の夫宮崎 昇(みやざき のぼる)の赴任先、岩手県一関に行ったことだ。
一の関では何泊かして付近を観光した。宮崎 昇はシベリア抑留から戻り、法曹界に入り、一の関地方裁判所の判事になっていた。
その息子敬久(たかひさ)は昭和19年生まれで幼少のころは湯川でずっと一緒だった。
何といっても、この時に上野から一ノ関まで乗車した列車の機関車だ。C-62,当時の最新の形で、駅から出るときのピーと言う汽笛、煙、匂い、車輪の音は忘れられない。

この形式の機関車が東北本線に投入されたのは昭和25年1950、だったので、C-62に牽引された特急で行って来たと言うのは自慢できた。

C-62
平泉中尊寺 どのように行ったかは覚えてないが、バスだっただろう。

一の関への旅は小学4年生の私には想像を絶するものだった。
上野から一の関まで全行程、外を眺めて退屈しなかった。駅には宮崎叔父と敬久が迎えにきてくれた。裁判官は時間があったらしく、いろいろ案内してくれた。
藤原の平泉は印象にあるがあとは忘れた。敬久と官舎の近くの市営プールで毎日泳いだ。4-5泊して東京に戻り弘資叔父さんは京都に帰った。

敬久少年と犬、昭和28年1953、2月


弘資叔父は列車の旅にはとても慣れていたようだった。

和船を漕いで甥たちに泳ぎを教えた

朝鮮半島にから湯川に引き上げてきて家にあった和船を漕ぐことを
覚え、幼い僕らを乗せて湯川の湾を回り、とうとう浜辺まで出て
遊んだ。まだ15-6歳の少年が幼児を連れてだから今思えば危険だったが。とうとうおばあ様から「カラス鳴きが悪い」と言われストップさせられたこともあった。
私はおじいさま、久彦と湯川共同浴場に投げ込んだ小石を一緒に湯舟に潜り取らされていたころ、体が浮くことに気が付いていた。
だが本当に水に入り泳いだのは、その和船から弘資叔父にゆかし潟に投げ込まれた時だ。弟の恒次、従兄の敬久も連続投げ込まれた。
2人は泣きながらも犬かきで泳げたことだ。それから毎日、3人で泳ぎまくって毎日を過ごした。

昭和24年8月1949、右から敬久、恒次6歳、薫雄7歳、輝一8歳湯川 弘資叔父撮影

船を漕いで、湯川湾に出て岬を左、勝浦の方に回ると、温泉宿の
跡があった。真ん中に錆びた鉄パイプが立ちそこから温泉が流れ出ていた。
右、太地方向は手漕ぎ船には難所で、線路を歩いて行った湾があったが、あまり面白いところではなかった。

弘資叔父、同志社大学に進む
京都に行き府立一中に転入して同志社大学に進んだ。

同志社大学

兄、濟(わたる)をとても慕っており、久、濟につづき同志社大学に進み、戦前、濟兄が住んでいた下宿の同じ部屋に入った。
そこにも私は祖母とせ と押し掛けたことがあった。

同志社大学自動車部時代

兄のあとを次ぎ自動車部だったそうだ。運転は上手だった。
自動車のメカに詳しく、いろいろ説明してもらった。
手先が器用で、帝国日本軍の無線機や部品を購入してきて、
湯川にラジオにして持ち帰った。それでみんなで「古橋がんばれ」などを聴いた。

当時の重要な交通機関、蒸気機関車の仕組みも彼と彼の従兄、
太(ふとし)が説明してくれた。

学校で何を勉強したのかは知らない。

大学卒業ころ


弘資叔父の家族

私が高校2年生、昭和34年1959、1月に古座の森林製材業の娘、谷畑 ひろみと結婚した。叔母の実家は多角的に事業をしていた。
私の両親は静岡にいたが結婚式に参列しとても楽しかったと話をしていた。

須川 ひろみ、昭和11年、1936年生まれ、平成15年、2002没。
ひろみ叔母は青山学院短大卒であった。


長女が昭和34年1959、11月に誕生、2女と1人の息子がいる。
ひろみ叔母の実家は新宮城に近くの料理屋も経営していて、私の父のお別れ会(平成7年1995,11月)はそこでした。

弘資叔父は1994年頃脳溢血で倒れ、神奈川の豊が知っていた施設でリハビリした。施設の駐車場に車を置き、車内でパソコンをいじっていたので施設から節子が注意された。

現在、92才だがパソコンはまだ得意でメールでやり取りしている。耳が遠くなり電話は苦手だ。
彼の若いころよりの科学的な考え方、手先の器用さ、運動神経、音楽への嗜好などは少年期の私たちのあこがれでもあった。

写真やカメラの収集もずいぶんやっていた。
兄濟(わたる)より預かり引上げの旅の途中で失くしたローライと同じものを買うところから始まり、かなりのコレクションだった。
ネットオークションで売り、一部と防湿ケースは僕の息子賢一が引きついだ。

子供の頃、末っ子で上の姉たちも甘やかしたのだろう。倉庫の果物の缶詰に穴を開けて、ジュースだけ飲んでいたそうだ。
その話を、缶詰を開ける度に祖母や母、叔母がすると嫌な顔をしていたそうだ。

弘資とひろみの長男は新宮で歯科医をしている。
長女は北里大学薬学部を卒業に浜松の歯科医に嫁いで、まだ現職の薬剤師だ。2女がいる。一人は検事である。
次女は日本女子大を卒業して食品会社に就職したが、大田区に嫁ぎ、不動産関係の資格をもち嫁ぎ先の不動産業の仕事をしている。1男2女いる。

現在、私が住む家の内部(外部はコンクリートだが)は紀州の木材で、床も建具も建築した。

檜と杉の一流品をふんだんに使ったが普通の価格にしてもらった

これらは弘資叔父に頼み、彼の友人の材木商から購入した。
高価な材料であったが、檜の床、杉の建具は今でも良いにおいがして、
さわやかなものだ。

弘資叔父 令和4年4月宇久井

令和4年現在、叔父がまだ健在で、記憶がしっかりしており、しかもパソコンや写真に巧であると言うことは先祖やゆかりの人々のことを調べ記述するにはなくてならない存在だ。
何時までも元気でいて欲しい。
(この項以上)

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