節子は私の母だ。大正12年1923、8月31日、須川 久彦、とせ の長女として当時、両親がいた、京城府龍山区練兵町で生まれた。上には兄が3人いた。
没年は平成23年2011、秋だった。享年88歳。死因は脳溢血だった。
次男、恒次(つねじ)久美子(くみこ)夫妻と横浜の自宅で暮らしていた。
金持ちユダヤ人の娘を「ジューイシュ・プリンセス」と呼称する。
親が金に糸目をつけず自由、我儘に育てる。ただし、大体は親が
決めた相手と結婚する。かなりな資産や家を相続し一生、贅沢、思いのままに暮らす。こういうライフスタイルの女性だ。
ニューヨークなどには多いと聞いた。
節子は生まれてから昭和20年1945、8月15日までまったくこのスタイルだった。
彼女の場合は医学博士のフィアンセまでいたのだから、「完全お嬢様」も「究極」だ。両親のおかげだが。京城にないのは聖心女子大くらいで他の贅沢は本土以上にあったはずだ。
特に東大門区新設町の新居では蝶よ花よ、どころでない生活だった。
三坂小学校から、名門の府立第二高女に進学した。家にある彼女の当時の写真と自身の思い出話は以下のようだった。
買い物や美容は三越などつけであった。自分で好きな時に好きなものを買う、もっとも後半には戦争のため物資は不足してきたそうだった。
写真館もそうだ。妹の喜美子を連れて、自分でもカメラを持ち、写真を撮影していた。
犬を飼っていた。犬の名は不明だが、狆(ちん)で、毛並みが良かったそうだ。ある日、忽然と姿を消し、彼女は何日も家の敷地内を探し回った。こんなやつだったのではないか。
自分だけの部屋は相当気に入っていた。そこでお菓子を食べたのはたまらなかったと。
時々、久彦が高級レストランに連れて行った。
南京虫と言う金の小型時計を持っていたが、どこかに旅行に行き失くした。
住んでいた家は、敷地5000坪、丘の中腹にあり、裏手は岩山、芝生の湧き水がある庭だった。
サンルームがあり、全館暖房はスチーム、電気冷蔵庫もあつた。
お手伝いが2-3人、いわゆる「女中頭」は和歌山から来ていて、
現地人女性のお手伝いの監督していた。
風呂焚きもいた。庭師は敷地の下がったところに住み、彼が野菜も
作っていた。
節子が朝鮮半島の人間をどう見ていたかの一例に、すでに大分前に
「男子は顔が良い、背が高い、歌や演芸がうまい」と語っていたことがあった。何てことはない、韓流ブーム前に、当を得ていた。
日本から来る歌手のコンサートには良く行っていたようだ。
藤山一郎のコンサート、音楽はピアノをかじっていて、クラシック派、
戦後はアメリカのポピュラーが好きだった。
映画鑑賞にも頻繁に行った。
ドイツ映画「急降下爆撃隊」には私も連れて行ったと。
和田さんは、日本女子大に進んだが生涯独身だった。戦後、湯川の家に(弘資叔父の話)、東京の家にも泊りがけで頻繁にあらわれた。軽くいじる人だったので豊は和田さんが来るのをとても嫌っていた。この年代の節子と一緒に写真を撮ったが、彼女はそばかすもあり、引き立て役以外の存在ではなかった。
この写真は、節子が大正後期、2-3歳頃、弘資叔父の話では、彼の生前でよく知らないが、龍山区練兵町の自宅前で、父親久彦との写真ではないか、としていた。立派な犬がいたようだ。この頃、久彦は事業が成功して、岡埼町に引っ越し、さらに東大門区新設町に家を新築した。
節子が和装に使っていたアクセサリー、帯締めの飾りなど。
金属の玉は喜美子のものであったとしていたが、いずれも
中国の古い作で、サンゴ、象牙、玉などを細工し金もふんだんに使った贅沢なもの。
誰がが持ち帰った品か。
昭和16年1941、12月初旬に結婚して、九州に新婚旅行に行った。
しかしハワイ攻撃の報で、急きょ、切り上げて来たのはくれぐれも残念としていた。昭和18年1943、1月末、長男が誕生した。
ここで彼女の「完全お嬢様」生活は一区切り。
そして、
昭和19年8月に支那派遣軍にいた、濟(わたる)兄が新鋭機空輸の途中、実家に寄った。その日が恐らく「完全お嬢様」卒業の日であった。
翌年の日本の敗戦と引き揚げの苦労話は弘資叔父の記憶の記に詳しくある。
(この項以上)