豊兄(令和4年9月自筆原稿)
私が小学入学(昭和11年1936)時、家族は龍山区 岡崎町に住んでいたので近くの三坂小学校に入学しました。
しかし三坂は一年間だけで二年になる時、一家は東大門区 新設町に引っ越したので転校する事になり、割と近かった東大門小学校(編入試験無し)か、京城師範付属小学校(編入試験あり)のどちらに入れるか家族で相談していたようです。
その時豊兄の「これから受験戦争にさらされるので付属を受けさせては」の一言で付属を受けることになったそうです。
それまでは兄と云うだけの存在でしたが、私の「人生の先生」になりました。
まず付属の入試には親代わりとして付き添ってくれました。
私の家では風呂は男性が先に入るという家訓があり、父とか他の兄弟は皆出ていたので私と豊兄が一番風呂でした。
ところが一緒に入るとなかなか煩く、かかり湯を3回、人間として一番大事な頭から洗う事など説教されながらの入浴でした。
私は小学校低学年の頃から模型ヒコーキ作りに没頭していました。

ヒコーキ作りは、親戚の桜井家の番頭さんから作り方を教えて貰ったのが初めでしたが、その内「ライトプレーンキット」というのが発売されました。長さ45㎝位の木製の胴体にプロペラ・ゴム紐・竹ひご・翼に使う和紙・設計図等がセットになっていて後は蠟燭の火で竹ひごを設計図通り炙ってまげ拵えるというものでした。
ある日母親から、これは火を使うので危ないからと家の中での制作は禁止され庭の一段下の広場に在った倉庫の中が作業場でした。
制作中のある晩、豊兄が俺も作ってみたいとキットを持って入ってきました。
驚いた事に設計図を広げその通り釘をジグザクに刺し鍋で熱湯を沸かし竹ひごを柔らかくし釘に沿わしてはめ冷えるのを待つだけという離れ業でした。
出来上がったヒコーキも私の作った焦げ目だらけのと違い模型ヒコーキ屋で売っているのと変わらないほどの出来ばえでこれは勝てないなと痛感した。

当時住んでいた東大門区新設町の家は二階建てで階段を上がるとすぐ来客用の客間、真ん中が私の部屋、一番奥に豊兄の部屋でした。
豊兄の部屋は常にカギを掛けているので入ることが出来ずどんな様子か興味があり、家中誰もいないある日、私の部屋から窓をつたい行ってみると換気の為か窓が開いていました。
そこから入ると壁一面が本棚になっていて整然とした部屋でした。
机の上には生まれて初めて見る顕微鏡がありまず驚き、引き出しを開けてみると見たこともない懐中時計2-3個にPISAというイタリヤ製らしき腕時計など綺麗に並べて入っていました。

それから2-3度遊びに行ったある日、豊兄から「入ったな」と言われ震えあがりました。
その時は何も怒られずに済みましたが後で聞くと顕微鏡が少し斜めになっていた、開けたはずの窓が閉まっていた、と指摘され帰りに思わず閉めたのでしょう。
この話には後日談があります。
私が大学を出たころ豊兄が節子姉と一緒に新宮に来た時、あの引き出しに入っていた懐中時計を出し「これは古いので直るか分からないが」と私にくれました。
さてはあの時触っていたのを知っていたのかとぞっとしながら頂きました。
当時、懐中時計は持っている人も余り居らず本当はあのPISAという腕時計が欲しかったのだが、あの腕時計は、とも聞けませんでした。
その懐中時計は新宮の福田時計店に修理を頼んだのだが「これは古いので部品がなく部品を拵えて直してくれる所に送ってもよろしいか」と言われお願いしました。
いくら掛ったか忘れましたが一月位後に直ってきました。
後日節子姉が一人で新宮に来た時「こんなに動くようになったので豊兄に見せて欲しい」と預けたままになっています。

豊の職場、京城帝国大学医学部研究所外、右端が本人。同僚、昭和14年1939頃

(この項以上)