須川 豊(すがわ ゆたか)その一

須川 豊(明治44年1911、3月生まれ、1995年3月没 享年84歳)は私の父である。
熊野 須川長右衛門家の29代竹吉の次男として生まれ、京城帝国大学医学部卒、戦後は公衆衛生畑を、保健所所長から県衛生部、厚生省、県衛生部長、医療センター長や学校長を歴任した。
専門は予防医学、公衆衛生、感染症から小児医療、栄養、リハビリなどだった。
自分の父親のことは書き難いのだが、豊を実の兄のように思っている母の弟、弘資(ひろすけ)叔父92歳が、早く掲載してくれと言
うので、書き始めた。

昭和12年1937冬、京城新設町の庭。豊、後列左、節子後列右 前真ん中弘資叔父と犬、久彦、とせに、喜美子、久、濟(わたる)と揃っていた。

私たち兄弟、次男、三男、には良い父親であったが、こどものころ
彼に遊んでもらった記憶はあまりない。また、自分のことはほとんど私たちに語らなかった。

1、豊の原点は「京城(けいじょう)帝国大学医学部」

豊は昭和3年1927、新宮中学から京城帝国大学予科に入学し、のち医学部に進学した。この学費は須川 久彦が出した。
久彦は同じ熊野の出身、同姓であり、遠縁の27代長右衛門竹吉、
その4年前に没の、須川 長右衛門家が次男 豊の進学費に困難があったということから、学費提供を自ら申し出たそうだ。久彦は豊以外にも何人もの親類や知り合いの子弟の進学を援助していた。

この家族史を書き始め、初めて知ったが、「京城帝国大学」は
日本帝国大学のなかでは早期に創立されたが、文科省の管轄でなく、
「朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)」の組織であったそうだ。
以下、京城帝国大学のことを詳しく述べている。

〇YouTube 京城帝国大学

創立当時の京城帝国大学医学部 総督府に付属していた

豊は全生涯を通して、京城帝国大学医学部で学び、医学の知識を身につけ、それが自らの人生の活動元であったことを誇りに思っていた。

豊は28歳、昭和14年1939、医学博士号を取得した。
これは修士から2年、とても早い取得だった。

豊のアルバムより、いずれも予科の頃、花見、演芸会の様子 クラスメートであろう30人ほどの個人写真もある どこかに豊もいるはずだが。


豊の予科時代は全寮制で、卒業後は久彦家で暮らしていた。
弘資叔父の記憶に、「春の夕、家族で花見に行ったら、城大の学生たちを見かけた。その中に豊兄が普段とは違う姿で楽しんでいたが、
別人のようだった。」とある。

研究室にて、伊村さんと、昭和10年1935、5月 修士のころか

城大の北側、北漢山に面したテラス(弘資叔父)左端、豊

豊は郷里熊野で地元出身の大秀才と言う評判になり、彼の博士号取得は大いに話題になったと、当時小学1年生の市朗従兄も記憶にあるそうだ。
彼の頭脳が優れていたのか、粘りがあったのか、そのバランスなのか、我々には分からない。周りの期待や助けもあったことだろう。

研究室、前列左が主任教授、豊の周りは彼の先輩、助教授クラスの人たちだろう

彼自身は語ることは少なかった。だから、彼の主任教授や仲間の写真は残っているが、私が知っているのは高橋先生と言う横浜にいた医師だけだった。卒論は台湾に行ったと何かの折に話していた。
主任教授は退官して福岡に戻っており、引き揚げの時、母、弘資叔父の宿泊先におにぎりを届けてもらったそうだった。(弘資叔父の記憶)
京城帝国大学では朝鮮半島出身の学生たちを分け隔てなく育てており、豊よりも優秀な人間は早く、単位を取ったようだ。(岸 幹二従兄の話)

研究室の様子

(昭和5年1930の第一期卒業生は日本人43名、朝鮮半島出身者12人の55名だったそうだ。)
ただ、その多くの現地の人々は昭和30年1950に勃発した朝鮮戦争で亡くなるか行方不明になって、戦後の付き合いはなかった。

昭和13年1938,2月谷口 芳清うつすと。

博士号を取ったころ、米国コーネル大学留学が決まったそうだ。
これは多くの人たちから聞いたので、事実だっただろうが、
日米関係の悪化で実現しなかった。
また戦争勃発後満州へ行く話もあったそうだが、祖母 とせ が大反対してこれも実現しなかった。
私がニューヨークにいたころ、平成6年1994年、父と母が訪ねて来た。
私の住居は二番街58丁目で、近所、一番街70丁目あたりが
コーネル大学医学部と付属病院で懐かしがっていたが・・

人間、どこの学校に行った、はひとつの要素だが、それは人間の価値を決めるものではない。
自分が学んだこと、専門知識に「誇り」があるか、ないかが「個人の価値」だ。と彼は語ったことがあった。

彼の場合、東大でもない、京大でもない、朝鮮半島に渡り、城大で医学を学ぶということはとても意義と、生きがいがあったようだ。

スケートを楽しむ豊

次の松田 利彦博士の話にあるが、朝鮮半島の医学は朝鮮総督府の業務であったが、紆余曲折、朝鮮に住む半島のひとたち、日本から渡ったひとたち共通の課題であり、豊が専攻した「公衆衛生学」は日本本土でも朝鮮半島でも最重要事項であった。

〇(Yutube 日本統治下の朝鮮と医学研究 2020松田利彦)

2、豊兄と事件 (以下弘資叔父の文)

〇正月の刃傷沙汰。

「私が小学校の頃だったと思いますが、新設町の山全体が雪で真っ白で月が明るい夜、不審な人間が我が家の庭に潜んでいたのをお手伝いさんが見つけました。家では大人の男性は豊兄一人だったので、豊兄は脅しのつもりか、護身用でしょうか、日本刀を片手に外に出ました。家の中からの目撃によると、その男としばらくにらみ合いになり、何かを話しかけたが、埒があかず、続いてもみ合いになったそうです。翌日、登校の途中、雪の上に血が点々としておりましたが、別に警察沙汰にはならずにすんだようです。」

〇大学講師発砲事件
「この事件は私(弘資)が傍にいたので良く覚えております。
気候の良い時期でした。2階の窓から外を眺めながら、二人で話をしておりました。豊兄は、ひとりの現地の男が家の裏庭に面した山の中腹の急斜面に入りこんでいたのに気が付きました。そこはこの屋敷の中だ、危険だから出なさいと、叫んだのに、侵入者は口答えするばかりで、挑発してきました。豊兄は狩猟用散弾銃で、出ていけでないと撃つぞと言ったら、撃てるものなら撃ってみろ、と言うので外して発砲したら、岩か樹木の跳弾が当たり、その男は逃げて行ったという事件です。この事件も警察沙汰にもならず新聞にも載らずに終わりました。」
いずれも身内の間では語られてきた事件ですが、新設町の屋敷は現地人の部落に隣接し、広大な敷地であったので、油断すると物騒だったそうです。豊の非暴力主義からは信じがたい事実ですが、当時の外地の生活で、そんなこともあったのでしょう。

〇弘資叔父が豊兄をはじめて尊敬した悲しい事件

弘資、とせ、慶子、昭和9年1934頃。

「私(弘資)には龍太郎、久、濟〈わたる〉と3人の兄がいて、節子、喜美子、慶子と3人の姉がいました。すぐ上が慶子姉で、彼女は上の2人と違い、大人しい、話やすい、優しい姉でした。
兄、姉たちの他、豊兄がいて、にぎやかでした。豊兄は私が幼いころは実の兄だと思っていました。彼とは他の兄たち以上に長く一緒に暮らしておりましたが、ある時、母から本家の人と聞かされました。
昭和10年1935のある日、7歳の慶子姉の具合が悪くなりました。医者に来てもらっていましたが、病状は変わりません。そして彼女の病状が急変しました。
豊兄は新米の医学生でしたが、連絡を受け、大学から白衣で聴診器を持って飛び込むように、急きょ彼女の容態を診に来ました。部屋から出てくる彼の表情で、彼女はとても深刻な状態だと皆は知りました。普段の豊兄とはまったく違う雰囲気でした。
慶子姉がその夜、息を引き取るまで彼は懸命に看病しました。
両親も他の家族も、あとで、もっと早く豊兄に知らせばと、言っておりました。豊兄への家族の信頼はこの悲劇で深まりました。
朝鮮半島では相変わらず腸チフスなどの感染病が広まり、絶えず
犠牲者がでていたようで、多くの人たちが命を失いました。」

慶子姉のお葬式 練兵町の材木屋と住居が併設されたところ


緊急搬送も集中治療室も抗生物質もない時代、90年前の悲劇だ。

豊の兵役

豊の学生時代の写真には幾つか軍事教練ものがある。
当時、日本人は兵役の義務があり(朝鮮半島、台湾の現地人にはなかった)彼も一定期間、軍務に服した。彼の時代は軍事教練を受け、学業半ばであれば猶予はあったであろうが、徴兵検査を受け、その後しばらくして入隊した。
「軍隊と言うところはまさしく真空地帯、あんな嫌なところはなかった。」と語っていたが、彼が何歳の頃、何年間、どこの連隊で軍隊生活を送ったかは、自ら何も語ることなく不明。しかし、学業内容、総督府との関係を考えると、入隊はしたが、直後に除隊になったと
思われる。
昭和18年1943、秋ごろか、このような写真が残されている。
変な高級国民服、とせの趣味だろう。彼の満足そうでない表情が
印象的だ。

坊主刈りの頭なのでこの時に入隊したとなると、かなり遅い入隊だった。左から、とせ、薫雄、豊、節子

3,豊の引き揚げ

昭和20年1945、8月15日の終戦の時は大学に残りながら総督府の公衆衛生部門の仕事をしていた。2-3日前から、弘資叔父や
家族には「いよいよ大日本帝国は駄目らしい。」とそれとなく言っていたそうだ。
母の引き揚げに関しては、弘資叔父の記録にあるように、
「8月19日、豊兄は京城駅に総督府から来て会い、皆に総統府発行の引き揚げ証明書を渡した。」彼はそのまま総督府か、大学に戻りしばらく仕事をしていたようだ。

しかし豊は、我々家族には、敗戦前後のことは一切語っていなかった。
膨大な写真、母が張り直したアルバム3巻、が弟の家にあった。
中学、予科、医学部、研究室、総督府などの仲間の写真が延々と。
それに診察用具を持参していたようだ。だから彼の引き揚げは我々とは違う時期に違う形であったようだ。湯川の家でみんなと合流したがまたどこかに出かけたらしい。

〇NHKアーカイブス
証言記録「市民たちの戦い」引き揚げの嵐のなかで 京城帝国大学
医学部の戦争 「番組」NHK戦争証言アーカイブズ

4,豊の終戦直後

新宮市池田町の2階建ての家で4人の家族、節子、私4歳、弟2歳と、市朗従兄、13歳、との生活が始まったのは昭和21年1946夏くらいではないか。その年の暮に、大地震に会った。この家は須川 長右衛門家のものだった。
彼は池田町の家に引っ越すと、直ぐに東京で開催されたGHQの公衆衛生の講習会に参加して三重県の木本保険所長になった。GHQは日本の公衆衛生、特に結核予防に熱心で、保険所長は医師免許のあるものとしていたそうだ。その後、新宮市保険所長になった。
彼が研修から戻った時の駅に迎えに行ったこと、池田港の上から
木本に向かう彼が乘車した列車を見たことは記憶にある。

現在の池田町の家、令和3年弘資本叔父撮影



家は2所帯用に改装されているが、昔は良い造りだったのだろう、今でも健在、家の前を左に行くと、きつい坂を下り、池田港があったが、今は埋め立てられている。池田は新宮藩の炭屋敷があったところで
この頃、豊は17-8年ぶりに実家と近く暮らした。 
母とめ や、兄の正雄、弟の章夫や甥の市朗。姉の夫婦も近所にいた。
戦争があのような形で終わらなければ、もしかしたら彼は故郷に戻り暮らすことはなかったかもしれない。

だが、新宮の生活は長くは無かった。翌年、昭和22年1947暮れには和歌山県衛生部に転勤になった。そして2年後、昭和24年1949厚生省に転勤となった。一家は12月、東京に引っ越した。

生活物資の一部、食器とか大工道具も樫原の実家から貰った。また久彦が引っ越し用木製箱を沢山作らせてくれた。
まだ一部は当家に残っている。

皿は一般的なもので上手ではない、斧と鋸はマキを作るものだった。

5,豊を訪ねて来たひとびと

静岡、神戸そして横浜にいたころ、特に私が大学生で、一緒に暮らしていた横浜では、月に1-2回は、朝、起きると食卓に知らない人がいた。
母が駅に迎えに行き、家に案内して来たのだった。紀州関係の人が夜行で着くことが多かった。その人たちは母が用意した朝食にはあまり手を付けず父と話をしていた。主にその人の病状だ。父はメモを取りながら質問を繰り返す、そして電話機を取り誰かに電話する。知人の医療関係の人だ。私たちは同じ食卓で食事して学校に出た。
その後、母が運転したその人を父が良いと思い、連絡した医療機関に連れて行った。
こういうことに何度か目撃した。知り合いの人をその人の病状に合うところに紹介する。感謝されたようだ。父も母もそういう意味では
私たちとは比べものにならぬほど、人の面倒みが良かった。今は都会も地方も医療状態に大きな差はないようだが、そのころはそうではなかったのだろう。

そのようなコンサルティング診療は新宮にいた保険所長時代からしていたようだ。豊が帰る夜に人が来た。母が弟を背負い、乳鉢で薬を作った。終戦直後、薬品は特に不足していたから、故郷の山の本草から材料を得たのだろう。お礼に食べ物をいただいたと、のちに母が言っていた。
和歌山市に転勤後、近所に人たちに種痘をしていた。
診療の道具はかなり後まで家にあり、記憶が正しければ、象牙の聴診器とか、メッキの美しい道具、乳鉢、秤、ストップウオッチなどなかなか立派なもので、京城帝国大学病院から使っていたものに違いない。ある時、母が全部捨てた。

これらの行動は豊の医療は、時代や社会が相手と言う建前はあったが、個人に対しても丁寧にやりたいと言う意思の表れだったのではないか。

6,須川 豊の養生訓

〇成人病は殆ど同じ原因、一つ悪くなれば他も危険。
〇粗食をよく咀嚼して食べるが食事の基本。
〇肌と歯の健康は特に重要だ。(乾布摩擦と3度のつまようじ)
〇なまけ(怠惰)はくせ(習慣)だ。(勤勉革命そのもの)
〇栄養源は多様に、そして過多にならず。
〇夏に10回水に入り泳げば、冬に風邪をひかない。
〇人間は肉体より精神のほうが弱い。
〇薬と食は同じものである。
〇延命は行うべきではない。 人には天命がある。
〇私は先天性障害児出生を防ぐために全力を尽くす。子、親、そして社会の不幸だ。

など沢山あり、今となれば時代遅れな考えや表現もあるが、思い出して追加する。
そのほか、医者と患者のコミュニケーションや関係を対等のものとする努力などに関して多く語っていたと記憶しているが細かくは覚えていない。なかには、いささかどうかと思う意見もあったが、彼は医学、医療に関して豊富な知識と経験があったので、私自身、彼没後は自分の健康のことで、相談する相手がいなくなりおおいに不便している。
(この項以上)

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