1,奈良市「東里村史」(現須川町)の 中世簀川(須川)氏の由来

父の従兄、須川 謙一 長男 真澄(大阪府枚方市在住)が奈良市須川町に行った。
その訪問記は以下の通りである。

「私(須川 真澄)は、再度須川町へ行ってきました。
奈良市東部出張所で「東里村史」を見ました。この地方の豪族は
大和衆もしく衆徒国民と称されていました。地域には須川の他、柳生、狭川、平清水などの一族がいました。須川城は須川 辰己之助が城主でした。同地域の歴史に詳しい人の存在を自治会長も聞いてもらいましたがいない、と言うことでした。須川城址に行きました。隣でシイタケ栽培の人に聞きましたが、須川氏が筒井一族に滅ぼされた後、城も取り壊されたと言っておりました。現在、須川町には須川姓は一軒もないそうです。戸隠神社、神宮寺(住職は留守でした)にも行きました。」

写真

須川 真澄撮影 須川城址に上がるところ、上が土塁

私 須川薫雄は数年前に奈良市を訪れ、「東里村史」は所持していた。
東里村は元須川町の由来となったが、由来の須川氏の記述は少ない、須川町に須川姓はいない。城跡以外に遺物も少ないなどで、少し拍子抜けした覚えがあった。

東里村史の地図

しかし「東里村史」には、古い時代、平安の頃よりの「簀川(すがわ)」の地名と城の状況、地方の動きが記されており、資料は少ないながらも、簀川氏がどのような由来、系譜で須川氏となったかは推察できる。
以下は「東里村史」にみる記載である。

簀川氏の由来)

古墳時代には地域の古墳16号、17号、地域では7世紀初頭まで古墳が作られていたそうだが、石に墨書きした文字、木簡などが見つかり、「簀川」の文字が発見されたそうだ。

東大寺資料では天平勝宝750年、8世紀、平安時代に、「簀川」の名はみられる
康保4年967、10世紀にも「簀川荘」と言う地名が記されていた。嘉禎2年1236、13世紀のことだ。春日大社の記録では鎌倉初期に奈良中心部に通じる「簀川路」が記されていた。
つまり、現奈良市須川町北には「簀川」と言う地名が
10世紀くらいからあり、13世紀まで続いていた。
つまり氏の由来は地名から来ていたらとても古いものだ。

至徳元年1348、14世紀半ば、春日(神社)若宮大礼に所謂 大和武士の交名を記していた。「長谷川流流鏑馬日記」による。
この地方の武士と称する集団が流鏑馬を奉納したのであろう。
「簀川」もそのひとつであったと文書は示唆していた。
「郷土記」によれば、須川山城に根拠った須川 辰己之助、兵庫など、北における城址は当時の土豪の勢力を物語ると。
つまり14世紀、鎌倉時代後期には須川氏はかなりの勢力があった。

春日神社若宮大礼の画

春日大社に由来する一族を大和では「国民」とよんだ。

村に存在する遺物)

東里村に存在する石からの記録では、
天文10年1541、(須川 藤八討ち死にの3年前)に須川神宮寺に阿弥陀石仏に「須川」とあり、同じ場所、年号の背光型六文字名号碑に「須川」とあるそうだ。
(実物は確認できるであろうから、近く訪問したい。)

       須川 藤八に力があった時代の物的証左であろう。

東里村史より

須川城の系譜)

須川塁 通称 城山 高ツキ(角へん、盃の意味)城は須川 内膳之助 正公 城址と言われている。
大座永代古記(須川 大座秘蔵古文)に天正3年1575、須川 内膳之助義正公と大和資料にある。「奈良県史」には現れるが須川 藤八討ち死に後から30余年、須川一族の勢力は残存していた。
奈良市の教育委員会では、藤八討ち死に後も須川一族は他に逃れ、
また須川の地に戻っていたと、聴いた。
すでに力を失っていたが興福寺の支援があったのであろう。
村の伝記 須川城址山城下に堀があった。その堀の入り口に「堀口」という姓、城の正面にある大門の前が「大門」の姓であったと。
なお、東里村史には「須川は岡田姓を名乗る」とある。慶長検地後の
帰農、そして明治の姓の復活の際であろう。

東里村史には後に須川町となった由来の須川氏に関しての記述は従兄の真澄が言うようにとても少ない。
須川町で須川氏の存在が小さいのは、慶長年間・1600頃、豊臣政権が検地を実施して、在野の寺社勢力の一掃を徹底的に図ったからではないかと、奈良市教育委員会の話だった。

東里村史より
現在の風景 65年後


須川の地は、奈良市の北東部にあたり、数10km内に興福寺、東大寺、春日神社があり、これらの大寺社勢力の北東に位置する。大寺社勢力は古くから周囲の豪族を地域の安全を守るために利用していたのではないか。
東大寺 「正倉院」は山を越えれば須川の地であり、奈良の後方を守ると言う意味で重要な地帯であった。

また、興福寺資料ではこのころから簀川(須川)は一条院衆徒20衆のひとつとして記されていた。

「白須川」と言う河は、簀川の地で塞き止められたのであろう。簀は川を塞き止める設備のことを意味した。そして現在は奈良市の水源の「須川ダム」として存在している。
川に簀を作ったのは、付近の木材を流すためであろう。
奈良の巨大寺社には古くより木材は幾らあっても足りない状態であったからだ。

「東里村史」は編集委員会が奈良学芸大学、編纂。
B5版、465ページ、ハードカバーの堂々たる当時には珍しい
立派な村史だ。昭和32年1957

この村史には「荘園」と言う言葉は使用していないが、
須川氏は実質的には興福寺の荘園であった。中世の支配組織として興福寺は須川をはじめ地域の守護であった。10世紀よりしばらくは笠置山山系の材木や燃料を納めていた。

須川城と興福寺の位置関係 その間は10km

平清水氏の動向)

興福寺と須川城の間に存在した平清水は応仁乱で勢力を伸ばした平清水氏は「東里村史」に頻繁に登場するがその末裔は不詳だ。
この一族は明らかに平家の出身であり、興福寺に近い立場にあったのであろう。簀川(須川)氏の出自は明らかでないが、平安時代に
この地域には都からの血縁の人々が(平家や源氏)が荘園を開設した
と言うのは一般的であったそうだ。

「城跡巡り忘備録」より「平清水」城へ上がる道

この項以上

カテゴリー: 昔々の先祖の話 パーマリンク