私の先祖、紀州熊野の須川 長兵衛(長右衛門)家は江戸初期 寛永(かんえい)時代・17世紀、から断片的に記録があり、「享保(きょうほ)の改革」・18世紀初頭以降の先祖の名、没年などは明確である。
紀州 博物学大家、南方 熊楠(みなかた くまぐす)先生が大正時代・1920年頃に友人の大和地方史研究家、杉田 定一氏の研究「柳生六百年史」を読んでいて以下に気が付いた。
大和 須川城の須川 長兵衛一族が戦国時代末期、戦闘に敗れ、またその後、慶長検地・16世紀末、豊臣政権の厳しい寺社勢力と武家の切り離し政策により紀州熊野に移転したのではないか?
その繋がりを熊楠先生は独特の論理で明確に説明した。
恐らくその論理は正しいであろう。
きしくも、慶長検地・16世紀末は日本史においては、中世から近世への転換期だった。
近世(江戸期・17-19世紀)の私の先祖、須川一族の様相はある程度理解できる、しかしその前の4世紀間、中世、封建時代の簀川(須川)一族は大和 須川城(現奈良市須川町)に、どのような出自であって、どのような系譜をたどったか?幸い、大和は古い時代の研究には多くの文献が残っている。それらから簀川(須川)氏の記録をみたい。
1,奈良市「東里村史」(現須川町)にみる中世簀川(須川)氏の由来
2,簀川(須川)は交通の要所
3,「奈良県史」にみる簀川(須川)氏