1.江戸期における須川 徳郷(とくごう)、忠兵衛、系譜図

須川 忠兵衛 請川(川湯) 寛永2年1625

(令和4年2022・6月)
以下敬称略

はじめに

この調査は南方 熊楠先生が大和須川城の須川氏が熊野に移転したという慶長年間から主に江戸期そして現在までの熊野における須川各家に関しての現在出来る限りの客観的内容である。

令和4年2022現在、川湯を元とする須川 徳郷(とくごう)家の当主は田辺に居する須川 委洪(いこう)である。委洪は
昭和17年1942、生、日本大学歯学部卒、田辺市内で歯科医院を開業していたが、現在、歯科医は引退している。
4月22日に自宅を訪問して夫人ともどもから話をうかがった。
大正時代に作成された系図とその元になったメモを見せていただいた。メモは6代庄九郎(大正年間のひと)が父5代辰之助(明治年間のひと)に送った徳郷家系図制作進行状況説明の手紙が前文だ。
恐らくこのメモは系図制作者へ判明している事実を記述したものだろう。メモの内容は享保10年1725生まれの須川 徳郷より始まる。

委洪家のメモ  原本は各種の手書きの古いものであり、書き直してあった。

同日、熊楠 熊楠(みなかた くまぐす)顕彰館において、おりから展示されていた熊楠日記の須川家関係の記述の内容を説明受けた。

川湯 東を見た様子 朝

熊楠先生の須川氏口述記録

田辺 南方 熊楠顕彰館の展示 熊野古道、手紙

先生が口述した内容は「南方熊楠全集6」に5ページにわたり記載されている。全てはここから始まった。
熊楠先生は友人でありその息子が歯科主治医であった須川 寛得(かんとく)からいろいろ先祖の話を聴き、また先祖調査意見を受けていたのかもしれない。
何よりも彼の大和の菌類研究の友人、杉田 定一氏(地方歴史研究家でもあった)の調査による力作「柳生六百年史」にあった柳生 内蔵助(くらのすけ)の先祖が大和の須川城 「須川 長兵衛」の子孫の一人であったことに気が付いた。それは、ある時、1600年直前慶長年間の話であろう、大和の須川氏は突然に消えて、熊野の須川氏が出現、この事実の背景を解いたのだった。この調査と記述がもとになり私(須川 薫雄)の「紀州須川氏」研究は始まった。世代に差はあるが、南方 熊楠先生は私の研究の恩師であることに間違いない。
また、私の経済学の恩師、人口統計学、速水 融(あきら)先生
(紀伊尾鷲が実家)の研究で「熊野一揆」がこの須川氏移転の決定的な理由を与えてくれた。
速水先生は、1600年前後に熊野の山林農民が豊臣政権に対して一揆をおこし、多くの農民が殺害され、熊野山林産業に空白地と期があったことを論文に書いた。

須川 長兵衛(長右衛門)家

熊楠先生は長兵衛が須川本家であり、戦国時代末期に大和須川城から落ち延びてきた一家としていた。私の父方の先祖だ。
熊野川から入った赤木川、北の川の奥地の山林を所有、経営していた。17世紀(1600年代)の記録はごくわずかしかないが、17世紀以降は各代当主の名、没年、戒名が明確である。
長兵衛→長市→長右衛門が3代続き、1800年頃、長七→長右衛門→
菊次郎(明治初期)と現在まで系譜だ。
また母方も6代前の長七から分かれていた。

熊楠先生のいう、熊野の須川家はこの地図で示す、
請川、川湯(その間は2-3㎞)、そして畝畑(直線で10㎞)の
3家である。江戸期それらの家は庄屋、大庄屋として存続し、明治以降、いずれも流れで海岸地帯に移転、現在それら家族たちは江戸期にいた地域にはいない。

須川 徳郷(とくごう)家

須川 忠兵衛の子孫、徳郷家の最初の記録は笠原 正夫先生の論文「宝暦10年の巡見使と熊野地方」の中にある。この論文は享保の改革後、紀州藩が三重から和歌山までの広大な交通不便な地域の現状把握するに、熊野において、請川組大庄屋「須川 善六」が残した巡見の前後とその実態に関する記録であった。須川 善六は大庄屋をしての役目(この巡見は新宮藩のものではない)をかなり広範囲に紀州藩と地域住民との間にたち運営し、また詳しい記録を残すと言う管理業務をこなしていた人だった。
「須川 善六」は須川 忠兵衛の子孫であっただろう。

熊楠先生の「請川村の須川氏」によれば、須川 徳郷は算術の名手であり、漢学者であった。「徳郷」は号。

須川 徳郷、学者、算術家であり、庄屋だった。

彼が須川 委洪氏家のメモにある初代「佐助」だった。
徳郷は熊楠先生が言う、住民に仕事与えるために屋敷建造したとある。年代的にはこの初代佐助のことではないか。
この屋敷が川湯の大塔川南岸にあった栗栖屋敷と言う家ではないか。
別な部分の口述で、
熊楠先生は、「とても大きな屋敷で、朝に雨戸をあけ始めると、
全部開けたら、夕方になりそのまま閉めなければならない規模」だったと・・(熊楠先生独特の誇張やユーモアが口述に出ていた。これは囚人を護送する船から見た話しとしていたが、請川の大庄屋、須川 重右衛門家ではないか・・

また熊楠先生は、請川(うけがわ)須川家は小口(こぐち)須川家の分家であろうとしていた。私が須川家系を研究していた叔父の章夫(ゆきお 日大農学部教授)から聞いていた話は、小口・北の川の須川 長兵衛(長右衛門)家は請川の須川家とは関係がなかったとしていた。山岳が間に位置するとはいえ、10kmの距離である。
偶然、同じ苗字であったというのも請川と小口の位置関係と距離を
考えたら不自然であったが。
一方、須川 長右衛門家で熊楠先生の口述記録がまったく受け入れられなかった背景は、熊楠先生が非現実的な描写をしていたからだ。
例えば、牛は死ぬまで外界が見られない環境、老人を姥捨てるなど。
しかしこれは徳郷家に関しても同じで、口述なので軽口も結論も
同じ比重で文字になった恐ろしさから来ているもので、咀嚼して読めば何の問題もない。

須川 忠兵衛(ちゅうべい)家

徳郷よりおよそ120年前に存在していた忠兵衛と言う人はどうような存在だったか。

私は数年前に、川湯 薬師堂の前にある手水鉢を見て彼の名前と生きた時代そしてその存在感に気が付いた。
彼が請川大庄屋、の創始だったのではないか。
彼のあと「忠」と言う名の字は出てこないが、「忠」と言う字は武士にはふさわしいが農民的でなかったからだろう。

寛永二年1625の須川 忠兵衛 寄進の薬師堂手水鉢

表に大きく五三の桐紋ふたつ、横幅60㎝、奥行き、高さ40㎝
年号は「寛永弐年酉 五月吉日」とある。側面の文字には7年前はもっと明瞭であった。
上、令和4年4月撮影 下 平成27年11月撮影 文字が明瞭だ。

寛永2年1625の須川忠兵衛寄進の手水鉢には長兵衛家と同じ五三の桐紋が彫られていた。時代、名前の類似性、同じ家紋、元は兄弟とかせいぜい従兄であり、慶長検地で大和を追われ移住してきた一族であろうと推定した。
17世紀初頭の須川家は、須川 長兵衛家には寛永7年1630、代官からの「山林覚書き」がある。その最初の記録がこれだ。

長兵衛家の山林覚 寛永7年1630


したがって、この17世紀初頭の2点の物的証拠が須川家は大和の須川城から慶長5年1600年前後に移り、浅野 幸長の支配のころに定着し、徳川 頼宣の紀州藩、元和5年1619ころから、庄屋として活動し始めたのではないかと言う事実の証明である。

熊楠先生と須川徳郷家との関係

「当町(田辺)の歯科医院(将好の父、寛徳氏(甚助)氏が徳郷家の長子で、大庄屋十平太、長三郎は新宮に」「須川氏の最も古い家は長兵衛で小口村畝畑」などの記述があり、熊楠先生は、地域の須川氏に広く知識があったようだ。これは熊楠先生が、江戸期の本草学を受け継いだ
博物学の研究者で山に入り、活動したからだ。

北の川 須川 長兵衛家の歴史は17世紀が空白、不詳だが、
同じく請川 須川 忠兵衛家の歴史も同じような傾向である。
これらは宝永2年1707の大地震による地形の変化、家屋や建物に対する被害で多くの家の記録が失われたのであろう。
地域的には両家はとても近いところにあり、紀州藩の小林村の絵にもあるように山岳地帯では大規模な地滑りがあった。
また、田辺市教育委員会の話では、この地域は、新宮藩水野家
田辺藩安藤家の境界にあたり、時代により、案件により庄屋、大庄屋、帰属が異なったことがあったようだ。
大庄屋須川 重右衛門家が、享保の頃、何らかの理由で川湯にも分家を図ったのは水野、安藤の背景もあったのではないか。

初代須川 佐助・徳郷の背景は「享保の改革」

漢学者 須川 徳郷は享保10年1725生まれ、寛政2年1790没、享年64歳。
徳郷が川湯に家を開いた背景には、享保元年紀州藩徳川 吉宗が将軍になり享保の改革(1716-1735)を行った大きな政治の変革が
影響していたのではと考えられる。
享保の改革は単なる財政再建だけではなく、文教(国学などの学問)
行政、司法に及ぶ広範囲なもので、紀州藩士200名以上が江戸にあがった。そのあとを埋めるに藩内の人材を登用した。
それらを民間で埋める必要があった。また享保の改革における国学の地位の向上は学者、徳郷の存在価値を高めたのではなかったか。

また、徳郷の生きた時代1780年代に天明の大飢饉があった。
この時に屋敷を立て替えて、人々に仕事を与えたのではないか・・
メモには 重右衛門(徳郷の義父)、儀右衛門(同じく3代庄九郎の義父)、 助右衛門など記録では請川須川の名前が出てくる。
明らかに請川 大庄屋 須川家の系列とされる。

北側の薬師堂 左手手前に手水鉢があるしゃれた建築だ。川湯 浄明堂 享和元年1801十二番薬師とある。この年は南側から移転した年だろう。手水鉢は寛永2年1625年だからおよそ175年間もしくはそれ以前から、南側に位置していた。薬師堂は寺と神社の中間のような存在で、地元の住民だけでなく修験者や旅行者がお参りした。
川湯の西の様子大塔川は西から流れてくる

田辺の須川委洪家資料からの分析

昭和5年1930、6代庄九郎が父 辰之助に家系図作成の経緯を報告した。
大正2年1912に開始した系図制作活動は19年を経て、形になった。
この系図は専門の系図作成者によるもので、10mくらいの長さの巻物で、天照大神、神武天皇に始まるものだが、係累が詳細なものだが、古い時代においては、他家のものと同じように科学性に欠けていたと感じた。具体的には戦国期以前だ。年号の記載に間違いもあった。
近代の部分を編纂した文書の元はかなり読みがたい状態であるが、現代語訳したメモがあり、それをもとに川湯の須川 徳郷家の18世紀初頭から現在までの系譜をみると以下の通りである。

川湯 南側 移転前の須川 徳郷家の敷地、現在はイベントなどに
使われている。徳郷屋敷の敷地は川を面しており、南側は川面より数ⅿ、北側は15ⅿの高さにある。

徳郷家の記録は、

〇初代 佐助 享保15年1731生 享保の改革最中、
甚助家4代、つまり彼以前、この家は100年以上続いていた。
請川 須川 甚蔵家より分家し、家督は近親にして富豪の須川 甚助家より譲り受け、文字に優れ、従兄の 漢学者 須川 徳竹の書記となる。須川 重右衛門の娘が嫁で、山林数十筆(ママ)を持参
明和9年1775、42歳の時に川湯に移転。
川湯栗栖屋敷にて66歳没 寛政3年1791
この人の号が「徳郷(とくごう)」だった。ゆえにこの系列を須川 徳郷家と言う。
彼の活躍が17世紀半ばであり、甚助家の4代と言うことは、創始を
16世紀初めとして、須川 忠兵衛に時間的には繋がるのではないか。
(忠兵衛の寄進は寛永2年1625以前であるから)
家系図によれば初代佐助の父は喜平治(3代甚助、1665生)でその先が甚五郎、甚太夫と記されている。

彼の期間、江戸で大火があり、材木の需要が高まり、それに答え、
大規模に山林を伐採して財をなしたと考えられる。
(明和9年1772、「行人大火」 2万人死者行方不明の江戸の大災害)があった。

川湯北岸の須川 徳郷家が移転した敷地 左の階段は薬師堂に上がる

そして、天明の大飢饉(1780年代後半)があった。彼が屋敷を建設するのに、地域住民を集め仕事を与えたと熊楠先生の記述であったが、時代的には初代佐吉の時代、18世紀末である。

〇二代 庄九郎
寛政5年1793年家督を継ぐ文政3年1820年没、文化文政の頃まで
の当主だった。 
薬師堂は1801年享和12年に移転していたから彼の時代である。

〇三代 庄九郎 
推定では文政3年1820-弘化2年1845年くらいの当主であった。
二代の後妻の子が相続、先妻の子玉之助は新宮、須川 小平次に養子にいった。妻は請川 須川 儀右衛門の娘、後妻は ふじゑ(肥満短身)、は下湯川 湯川 権右衛門の娘
金魚が趣味で付近でも有名であった。

笠原 正夫監修 「目で見る新宮熊野の100年」より、熊野川から
西を見た光景で左手が本宮方面、右手が新宮方面。明治22年1889の水害後の建設
請川 須川家の屋敷は橋の左手の詰め所の奥であった。

〇四代 佐助
先妻の子は勤勉、稼業を保ち、村の公務を務めた。
寛政12年1800生まれ明治18年1885没。
その後、家督を継ぎ、明治維新を乗り切った人ではないか。
明治7年1874没 庄屋、
村の公職を数十年間務めてと言うから寛政12年1800、頃生まれ、
「体格肥大」にして「長身長躯」、歩行早くして川湯と田辺間を一日2往復したと。勤勉で、家族主義。妻の記述は、
妻よね、三里切畑 杉山 宗徳長女、一旦、近親の「玉石」の養女にした。内助の功、大。辰之助に多くの財産を残す

川湯北側の道を徳郷家の敷地から数百ⅿ、請川に向かったところに
ある「地主大神」神社、社が2つ並んでいる。20ⅿほど上がる。

この人が川湯、東側に位置する「地主大神」神社を建立したのであろう。明治28年建立。
以下は四代佐助に関する孫六代庄九郎、の口述
佐助の時代、
4歳大塔川の大洪水、7歳大塔川の大洪水、11歳の11月 安政大地震 。
明治8年1875、田畑宅地の番地を定め反別(たんべつ)を調査し手年貢を廃し地価を定め地租を定む。(明治政府の仕事をしていた。)
明治10年1877、山林に当地を定め、反別を調ぶ。

7年前に調査した際、この灯篭に佐助の文字があった。

〇五代 辰之助
天誅組の騒動文化3年1863の際に19歳で鉄砲方を務めたので、生まれは弘化元年1844年。

紀州藩は天誅組に対して厳しい探索を実施した。その勢力は藩士だけでは不足なので地元の農民の鉄砲隊を組織した。


幕末、嘉永の頃の「来栖屋敷」で生まれ、明治7年平野に移住(父佐助が木材で失敗したためとあるが佐助の記述を矛盾がある。
明治10年1876隠居屋敷に皆瀬川(川湯)に移る。
系図によれば甘斉(甚助)大正12年1922没とある。

〇六代 庄九郎 
明治26年1893生。
熊楠先生の言う、「寛得(かんとく)」であろう。
熊楠先生の日記にあるように田辺に住んだ。
寛得は旧制新宮中学3年中退、和歌山農業学校、官立京都高校蚕産学校の学歴で、養蚕技術員として和歌山県農林技師、鳥取県農林技師。
昭和 鳥取で針灸医院を開設した。田辺に戻り、熊楠先生を付き合う。京都の医院で癌により亡くなる。徳郷家の系図制作、墓を建立。
養子、「将好(まさよし)」、明治42年1910、海南市生、代用教員、日本大学歯科を卒業、歯科医、その息子が「委洪」、彼の息子まで3代にわたる歯科医だ。

家紋は「三つ茶実」

宗派はメモによれば、曹洞宗 耕雲寺、新宮全竜寺末寺、などが主流で臨済宗、実相寺などもあった。

南方 熊楠先生の日記に現れる「須川」

熊楠先生の日記 彼は毎日の出来事、会話、収支などを細かい文字で
克明に記してあり、現代語訳がなされている。


丁度、熊楠先生日記展を開催中で、学術研究員 土永 知子(どえいともこ)さんが現代語訳を熊楠先生が須川寛徳にあてた礼状を説明してくれた。

先の展示の図録、左の日記に須川との交流記録。

土永さんが抜きだした記録の一部を見せていただいた。
明治40年1907から昭和10年1935までの間、熊楠先生の日記には
「須川」の名が70件ほどある。先生は毎日、日記を記しており日々の出来事と支出を明細に小さな字で記載していた。熊楠先生が
那智から田辺に戻るルートは、行きの海路、海岸沿いではなく
山の中を通り、請川を経由した。彼の姉は請川の須川 隆吉(口述では色川とあったが、請川の間違いであろう)にとついていたので、そこに寄った。田辺に居住してからは須川 寛得の息子(将好)により歯の治療を受けた。寛得とは交流が出来きて、歓談をしていた。
金の入れ歯、セメントをとるなどの。法要に馳走をいただいた。
西洋料理のエビをいただいたなど。
昭和11年1936には須川 陽之進、将好の父から年賀状を
いただいたと。
寛得も熊楠先生に日記にあるように様々な話をしていて、その
情報が熊楠先生の須川家口述になっていたのだろう。

熊楠先生は那智にいたころこの地図(新宮市作成)の茶色部分には頻繁に足を運んでいたようだった。3須川家はいずれもこの地域の北西に存在していた。


この地域には請川の須川 徳郷家も小口北の川の須川 長右衛門家も含まれたおり、繰り返すが熊楠先生は様々な機会に彼らと接触があった可能性は高い。

川湯の発見

江戸期の川湯温泉 奥の山が大塔山だろう。


紀州の三古い温泉は竜神、湯川、それに湯か峯だ。+
請川(熊野川と大塔川が交わる要所で少し上流が大社である)
から大塔川沿いに西に2㎞が川湯だ。
川湯の発見やその後、江戸期の運営に関しても須川家が関与し、請川、川湯の須川家は温泉の存在とは切り離せない関係があった。
(今で言う入湯税などで)

笠原 正夫監修 「目で見る新宮・熊野の100年」より昭和初期
川湯「かめや」の写真 底の浅い川船や鳥まで見える

請川、川湯、本宮に参拝が江戸期後半に盛んになった。江戸期中期以降、米本位制に急速に貨幣経済が広がった。この地域への人の流れは貨幣経済の発展を生んだ。(山の中、何日間も歩く旅には米を持参は
難しい)この地には、
恐らく他の農村より貨幣経済の流入は早く、それが以下のような
収入面の貢献になった。
川湯温泉の発見と入湯税の仕組みや南側敷地跡での物品の販売など
商業が盛んになったことだ。
川湯温泉は恐らく江戸期になり発見された。近くの湯か峯は古い温泉であるが。
メモによれば「須川 縫之助がカワガラスなき「ココニコイコイ」行けば湯ありきと」と言う夢を幾夜みし故行きしに川湯にてとまりたるところを掘り温泉あり。」
(縫之助は北の川 須川(長兵衛家)から養子に来た人間。)
「川湯薬師は元大庄屋須川・・・・以下記述なし」とあるが、(忠兵衛でなかったか?)
湯銭に関しての記述では、川湯の湯銭は明治維新までは田代大野字へも分けたり(皆瀬川へは分けず)すなわち一か年は川湯、一か年は田代、一か年大野字とせり、是は和歌山城主新宮城主より湯を納めとの命ありし時川湯字は戸数少なく労力不足なりしため大野よりも人夫を出したる為なり。
川湯の湯に就いて、「湯の発見は庄屋小渕宋縫殿之助せりと言ふ、その後「北の川須川家」より養子をとりし為須川姓に改む」
(須川 寛得家のメモより)
北の川長兵衛家から養子をとって、須川姓にしたというのは、長兵衛家とつながりを証明していた。
熊野は温泉が多いがないところも多い。江戸期、自然温泉のある地域とない地域、生活、人間の健康に大きな差があっただろう。

須川 徳郷家の系図の一部

甚助4代徳郷、京(享)10年生、64歳卒、寛政11年。
「勇峰宗智信」と言う短いが良い文字の戒名である。妻「おふさ」
徳郷の父は喜平太(3代甚助)とあり、寛宝3年卒とあるが、寛宝
と言う年号はなく、息子の生年から察するに宝暦18世紀半ばではないか。

甚蔵家3代の喜平太は天保7年卒となっている。
甚助家と甚蔵家に同じ名前の人が同じ代でいるから複雑だ。

結論

請川の大庄屋須川(重右衛門、助右衛門、儀右衛門)家と川湯の大庄屋須川 徳郷家の2つの系流があったのだろう。この両家の祖は17世紀初頭、川湯には須川 忠兵衛(五三の桐紋)という実力者だ。
忠兵衛は小口北の川系の須川 長兵衛と兄弟か、従兄か近しい関係にあり、各々、慶長検地後、浅野家の仕切りで大和から熊野に移住してきた一族と、考えて良い。
その理由は先に記した、寛永2年1625、の須川 忠兵衛の「手水鉢」、
と寛永7年1630、の須川 長兵衛の「山林覚書」である。

須川 忠兵衛家がその後、重右衛門、助右衛門、儀右衛門(ここまで19世紀初頭)に続いても長右衛門家とは何らかの関係があったはずだ。しかし距離的には近いものがあっても、請川須川と徳郷須川は
時代の波にのり、貨幣経済の恩恵で興隆して富豪となり、大庄屋の
地位を得て、18世紀後半の助右衛門(儀右衛門の先代か)は藩の公務も行っていた。(新宮藩仕切り方)
請川須川が忠兵衛家の「忠」と言う文字を代々使わなかった名前にしていたのは「忠」は武士には良い字だが、農民には意味がない。「重」、「助」、「儀」、「郡」、など農民に重い意味のある字を使ったのではないか。
「長」は普遍性があり、長兵衛家は「長」の文字と代々、幕末まで使用した。
また、「兵衛」が「右衛門」になったのも武家から農民庄屋への
移動を表した。

明治以降、儀右衛門の子孫はどこに行ったか?(新宮と書いてある
熊楠先生の文もある)
熊楠先生が一番古い家と言う長兵衛(長右衛門)家は奥地に入り、一家の経済は多くが不便な山にある材木の伐採と推定だが、本草業をしていた程度であった。


明治維新を迎えるころ、時代の先端を行く請川須川家に何か変化があったのではないか?
栄枯盛衰は世の習いであるが、大きく栄えると反動で没落することもある。家だけではない、会社などの組織も同じだ。

川湯を発見した小淵 縫之助家に北の川 須川家(長兵衛)」より養子をとりこの家は須川家になったとのことであり、他にも姻戚関係は多くあったのではないか・・
この小淵家はそれなりの大きな家であったと推定できる。

繰り返すが、請川、川湯系と小口北の川系の両須川家は同じ大和須川城の須川氏から派生した。
距離的に近い、また山林業を家業としながらも、両家は江戸期の長き期間に各々の道を歩み、その背景が異なったので、特に幕末、
明治期に距離がおかれたのであろう。
小口北の川の須川 長兵衛家(長右衛門)は熊野でも僻地、奥にあり、地味ではあったが、脈々と家系を継続し、現在に至っている。
明治の近代化は、新しい産業を生み、人々は奥地から先進地域に
移動した。

課題とこれからの調査

1,請川と川湯はそう離れたところではないが、須川姓、さまざまな
家、名前がみられた。請川の大庄屋、須川 重右衛門、
新宮藩仕切り方の大庄屋、須川 助右衛門、儀右衛門。
寛得資料に、「3代前(大正末より数えて)元大庄屋屋敷、請川橋南岸渡詰西側の地所は、跡形もなし」とある。
ここが須川 忠兵衛の子孫が開いたところだったのではないか?
3代前と言うと明治22年1889、の大洪水のせいではなかったか。
この家系が「五三の桐の家紋」をもち存続しておれば、忠兵衛の子孫の可能性が高い。須川姓の多くに人たちは明治期になり、
川湯から田辺、請川方面から三重県南西部、新宮に、そして
北の川からも色川、新宮にでて、今や江戸期の系統は発祥の地には
いない状況だ。その中でも今回の調査で不明なのは19世紀以降の
請川の大庄屋須川の系統である。恐らく寛得はそのあたりの情報に詳しかったのではないか。
五三の桐家紋、などからその手掛かりを得たいが。

2,17世紀の須川各家
いずれも家も1600年代初期に長兵衛、忠兵衛の記録以外、当主の名、
屋敷の場所、詳細が不明である。熊野の家々も同じ状況で、歴史は
18世紀初頭から始まっていた。宝永大地震、宝永4年1707、日本史上最大の規模、が原因ではないか?空白の17世紀の記録はないか?

3,享保の改革と須川各家
また、享保の改革、江戸期最大の変革であり、この改革は紀州徳川家より吉宗が8代将軍となり、紀州から大勢の人材を同行した。
享保の改革は享保元年1716から2-30年間の間に実施された吉宗の施策で元禄、田沼時代と一線をきす格式にとらわれない司法、行政、商業、文教、治水土木など広範囲にわたり、紀州藩氏を200名、幕臣をした。これは紀州藩の4分の1の数におよび、その分、庄屋クラスの平民が紀州藩の内政を補うことになった。
この改革の期間に、徳郷家は佐助として始まるとしており、同じように長兵衛家も長市と言う当主が出ている。享保の改革は須川家にも
影響を与えたことであろう。

4,請川や川湯の須川はなぜ富豪になったか?
木材の仕事、山林を所有し植林し何十年後に伐採、商品化する
このようなサイクルの仕事は確かに材木重要が急拡大した期間に
会えば、巨大な利益を出せるだろう。江戸の大火災、明治維新、
第一次大戦、第二次大戦後など。しかし山林を所有、管理、運営するものが大富豪になる機会は小さい。伐採した材木を運搬し、仲介をとる仕事。請川などでは地の利を生かした産業であったのでその点は有利だっただろう。請川は北山、大塔川その他の材木の集積地でその運搬の中心に須川の庄屋がいたのではないか・・第二次産業的に製材や製炭も同じだ。しかし大富豪になるほどの規模ではないはずだ。
大富豪になる確率は商業や金融業にかかわらなければ低い。
本宮の金融業との関係は如何に?
資料を探しているが、江戸期後半に本宮を基礎とした大きな金融組織があったそうだ。玉置が中心人物で本宮に集まる寄進をもとに巨額な資金をもち大名家に金を貸していたと。商業の他に金融も請川を中心とする地域の産業であったのではないか。

5,大災害の被害
宝永大地震以外にも、安政の大地震、数々の水害、熊野は自然災害に
暇はなかった。徳郷家のメモにも水害の記載はとても多い。
特に、明治22年1889、の熊野川大洪水の影響は
請川の須川 重右衛門、助右衛門家への影響は大きかったのではないかと思われる。メモでは、熊野川支流大塔川のどこかで地滑りがあり、塞き止められた水が一挙に流れ請川は流されたとある。本宮の神社が現在の場所から山の上に移転したのもこの災害で
大きな被害を受けたからだ。

背後の山から大社が河原、現在の大鳥居のある場所にあったときではないか?
江戸期に本宮大社は熊野川の河原にあった。現在は左手の山の上だ。
元の場所には大鳥居がある。そして請川須川家は下の川が広がっている左側だった。

参考資料

1,笠原 正夫著 「近世熊野民衆地域社会」
新宮藩池田御役所明和年中(1764-72)の資料に、
熊野炭、文政13年請川「大庄屋 須川 助右衛門は役所から調査を命じられ、村々に入る。炭は焼かれており「早々に積み下し可」と報告していた。
助右衛門の職務を「仕切り方」」としていた。
近世以前の熊野参詣による貨幣経済の進展があり、豊富な
森林資源の開発・漁業生産の効率向上、海運業発展が新たな流通機構を創出した。経済史から重要。
領内2127村、95000世帯、人口50万人。
秀吉が熊野の材木に注目したのは特記できる。
寛永8年1631、新宮領請川組に水野家が「御公儀御用本」を指定、
大木の管理、大庄屋、庄屋の権限を持たし見回りをさせた
嘉永元年1846年、8月大洪水
本宮御仕入れ方 新宮川 鵜殿
広化3年1846、江戸の火災で材木価格上がる
安政2年1852、村替えと御仕入れ方、
水野 忠夫の統治 本宮の社家、大庄屋、村役人が反対して
中止した。

2,速水 融著 「近世初期の検地と農民」
天正13年1585、秀吉の紀州征伐、大規模な土豪の離散を招いた。
慶長19年1614、に大規模は一揆が発生し、豊臣政権の浅野氏は
土豪層を中核とする牟呂郡だけで400人が成敗された。
浅野氏への反攻は徳川 頼信が藩主として来るまで続いた。
浅野家は慶長5年1600、に紀州を領有した。
この際の検地帳には「須川」の名は見られなかった。

2,法政大学史学会 1976年 論文
中 善弘著 「大庄屋制度に見られる農村統制:紀州藩の場合
中博士は経営経済学の学者であるが、紀州藩の大庄屋を以下のごとく捉えた。
紀州藩は17世紀発足当初より、財政的な問題を抱えていた。
限られた生産能力のなかで、多くの人が仕官した。
(おそらく戦国時代の戦略物資の材木を過大評価していたからではないか)
支配組織は最初から有機的な工夫が求められ、それが支配層と農民の間に位置する大庄屋であった。大庄屋に関する最初の文献は
正保2年1645、であり、「須川 忠兵衛の寄進手水鉢」
「須川 長兵衛家の代官山林書」のすぐ後になった。
大庄屋制は全国的に存在したが、紀州藩の場合は政治形態のもとに
「地士制度」があった。紀州藩は中世来の土豪や昔武士であった層を
農民として巧みに藩の支配下に組み込んだ。物心両面で生活に保護を与えた。山林の整備のため「山回り役」を定め、山火事、山焼き、留山などの山林保護を行わせていた。それらの延長上に大庄屋制度があり、寛永の頃から
元禄、享保の時代から農村統制の変化が現れ、大庄屋をして農村統治の掌握が方針となった。幕末ころは貨幣経済が相当に発達してきたので大庄屋は農民であっても藩の側であった。
代官奉行の記録的なこと、仕切り、
新宮藩と田辺藩の境界であり、またがっていた。

3,雑賀 貞一郎記事
本宮社家玉置 縫殿の金融業
(み熊野ネットにある記事)
田辺 新聞記者 雑賀 貞次郎の記事、南紀熊野の説話より
享保2年、玉置は将軍吉村に2000両を寄進し、富くじの権利を
得たと。玉置は本宮の事務方の役目の人間であったが、三社修理の資金調達を目的に、大阪で富くじ座を運営、10万両の貸付資金を得て、
文政11年には(彼の代ではないが)江戸芝紀州藩邸に事務所を設け盛大に金融業を行い、諸大名に貸付をしていたそうだ。
かくの如く、本宮あたりは金融の発祥の地で、その隣村の請川も
金融の影響を受けないはずはない・・と推測できる。

7,廣本 満著 「紀州藩農政史の研究」
村と郡の中間にある地方支配の単位として村高1万石、村数20-30で組として組の統括支配者は中世武士の系譜を継ぐ家柄から「大庄屋」を任命した。寛永20年、山の管理もさせた。

4,笠原 正史著 「紀州藩の政治と社会」
秀吉の侵攻で、口熊野以北の土豪は反攻して滅ぼされた。
慶長年間。
徳川 頼宣 元和5年1619、水野家(新宮)94か村、3万5千石と
田辺 安藤家(田辺)3万8千石、に。古くは本宮領、現田辺市。
近世以前の熊野参詣による貨幣経済の進展があり、豊富な
森林資源の開発・漁業生産の効率向上、海運業発展が新たな流通機構を創出した。経済史から重要。
領内2127村、95000世帯、人口50万人。
秀吉が熊野の材木に注目した。
寛永8年1631、新宮領請川組に水野家が「御公儀御用本」を指定、
大木の管理、大庄屋、庄屋の権限を持たし見回りをさせた
嘉永元年1846年、8月大洪水
本宮御仕入れ方 新宮川 鵜殿
広化3年1846、江戸の火災で材木価格上がる
安政2年1852、村替えと御仕入れ方、
水野 忠夫の統治 本宮の社家、大庄屋、村役人が反対する。

5,多門院日記 興福寺戦国記の記録
天正16年、秀吉の部下、2万本の材木の横領事件。
戦国時代の末期、材木が戦略物資として信長、秀吉そして家康に
目をつけられて、近畿圏の大生産地、熊野は注目されていた事実が
記載されていた。

6,紀伊続風土記 江戸期紀州藩記録
四村荘(よひらそう)全24村、
南で小口川、七川谷の2郡と接す、
東西7里、南北5里(面積約600平方㎞)
請川村 う(竹冠に全、魚を捕る道具)から大塔川
家並みも寒山の様子、耳打、田代、大野、和田、静川(船運が良い)
、野立、請川の左右
大津荷、小津荷、高山、請川の4か村、熊野川の東西
請川村は熊野川の落ち合いにあって十津川と並び、近辺の諸貨を皆
この地に集まるので、商売多く、やや富者の者がある。
請川、川湯の地は中辺路で田辺と結ばれ、交通の多い一帯であったが、
北の川は3方が山の行き止まりのようなところだった。
(以上)

カテゴリー: 昔々の先祖の話 パーマリンク